
上記の写真は、江刺藤原の郷にある復元された政庁跡で大河ドラマ「炎立つ」で使用された。
多賀城政庁と平泉、多賀城碑(壺の碑)は密接な関係がある。
その事については、今後記事にまとめて行くつもりです。
この記事は、以前書いていたものを、写真の差し替えをしました。
多賀城碑(壺の碑・つぼのいしぶみ)から、政庁跡を望む!
この辺りは、外郭南門があった所です。


外郭南門復元予想図



何やら岩に文字がありそうだと探してます。





多賀城は、奈良、平安時代に遠の朝廷と呼ばれた。
陸奥国府、鎮守府が置かれていたところで
関連する、史跡などが多数あり、今でも発掘調査が
続けられています。
多賀城政庁跡は、今の役所にあたります。
『多賀城碑には神亀元年(724年)の創建とあります。』

上から振り返った画像ですが、途中に階段が無いところがあります。
あの地面から60センチ下に、当時の階段があります。
現在の階段はその上に復元されたものです。
南門


石敷
石敷の標識の先に側溝があるが、それは当時のものです。



敷石がボコボコ立っているのは、昭和になって新しく再現されたもので、当時のものではありません。
下の政庁跡の右側の敷石は当時のままのようです。
平らになっていますね。
韓国や中国の宮殿の前もこのように石が敷き詰められていますね。


多賀城政庁跡
ここに建てられていた建物の復元図が下の写真です。






この桜の木は、自然に芽を出し育ったものでしょう。
老木に見えますが、きっとこの地を訪れた人々を見て来たことでしょう。
1227年前、当時の政庁(朝廷)の東の国境に位置する最重要拠点が置かれていたのです。
東のまつろわぬ(従おうとしない)人々「蝦夷」を従わせ、国家を広げるための政治と軍事の中心がここにあったのです。





多賀城政庁及び多賀城碑・多賀城廃寺については現在記事をまとめています。
奥州藤原の郷での復元はこちら
ホームページ「多賀城」
多賀城政庁と平泉、多賀城碑(壺の碑)は密接な関係がある。
その事については、今後記事にまとめて行くつもりです。
この記事は、以前書いていたものを、写真の差し替えをしました。
多賀城碑(壺の碑・つぼのいしぶみ)から、政庁跡を望む!
この辺りは、外郭南門があった所です。



外郭南門復元予想図



何やら岩に文字がありそうだと探してます。





多賀城は、奈良、平安時代に遠の朝廷と呼ばれた。
陸奥国府、鎮守府が置かれていたところで
関連する、史跡などが多数あり、今でも発掘調査が
続けられています。
多賀城政庁跡は、今の役所にあたります。
『多賀城碑には神亀元年(724年)の創建とあります。』


あの地面から60センチ下に、当時の階段があります。
現在の階段はその上に復元されたものです。
南門


石敷
石敷の標識の先に側溝があるが、それは当時のものです。



敷石がボコボコ立っているのは、昭和になって新しく再現されたもので、当時のものではありません。
下の政庁跡の右側の敷石は当時のままのようです。
平らになっていますね。
韓国や中国の宮殿の前もこのように石が敷き詰められていますね。


多賀城政庁跡
ここに建てられていた建物の復元図が下の写真です。






この桜の木は、自然に芽を出し育ったものでしょう。
老木に見えますが、きっとこの地を訪れた人々を見て来たことでしょう。
1227年前、当時の政庁(朝廷)の東の国境に位置する最重要拠点が置かれていたのです。
東のまつろわぬ(従おうとしない)人々「蝦夷」を従わせ、国家を広げるための政治と軍事の中心がここにあったのです。





多賀城政庁及び多賀城碑・多賀城廃寺については現在記事をまとめています。
奥州藤原の郷での復元はこちら
ホームページ「多賀城」
まさに~陸奥の朝廷ですね
関連する話はいずれ改めて…
見慣れているせいか、たいして感慨もないのですが、ひーさんの写真であらためて見るとなんだかすごい歴史を感じますね。
これが終わったら書きたいと思います。
勉強したばかりなのでwww