これは、橋の名前に由来する実話です。
この橋があるのは、宮城県多賀城市にある陸上自衛隊多賀城駐屯地の横を流れる
砂押川に架かる橋で自衛隊のすぐ横にあります。
確かあれは…………
今から約210年ほど前、この橋の近く(現在緑地公園)に加藤田という豪族が住んでいました。
そこの下女(女中) お菊が主人にそぐわないことをしてしまい
その罰として
橋から逆さ吊りにされてしまったのです。
お菊は、もがき苦しみましたが、誰も助けてはくれませんでした。
お菊は、無念な思いを残したまま、この世を去ってしまったのです。
それからと言うものお菊の幽霊が、この橋に現れるようになったのです。
街の人々は、この橋を渡る時、手を合わせ、念仏を唱えながら渡ったそうです。
それから、誰が言うとでもなくこの橋を念仏橋と言うようになったのです。
しかし、何年もの長い間、この状態が続いたのです。
噂も広がり、このままにしておくことも出来ず。
塩竈にある雲上寺にお願いをして供養をしてもらうことになったのです。
すると、供養をした翌日からピタリとお菊の幽霊は出なくなったのです。
街の人々は喜びました…
加藤田の土地は、お寺に寄付されたそうです。
しだいに、人々はその話しをすることもなくなり、忘れさられていったのです…………。
当時の橋は、現在の橋からやや東側にありました。
上記は私が地元歴史研究家に聞いたものですが、多賀城市史に掲載されておりましたのでここに紹介しておきます。
上記の話の裏付けといいますか、確認ができました。
八幡より笠神に砂押川を渡る橋が「念仏橋」で「お菊橋」とも呼ばれている。
大代村の「書出」には、「みたらせ橋」と呼ばれていたが、津波のためたびたび橋が落ち、通行に難儀していたが、享保年間に老婆たちが十年間念仏修行して願い、橋を架けることができた。それで念仏橋と呼ばれたとあり、また昔、お菊という下女が罪によって主に殺されたが、橋を渡る者は念仏を唱えてお菊を弔ったのでこの名がある。
いずれ橋供養の信仰にかかわる名称と考えられる。
別項に「菊ヶ岡」がありそこに関連するお菊のことが記されています。
笠神の東橋の岡は「菊ヶ岡」と呼ばれている。
昔、この地は某氏(多分「加藤田」)の屋敷であり、屋敷にお菊という下女が仕えていた。
このお菊が罪を犯したため生き埋めにされた。
その場所に一本松があり、その岡は菊ヶ岡と呼ばれるようになった。
この屋敷を所有する者は、お菊の祟りか次々に替わり、遂には塩竈の雲上寺に施入されてしまった。
下女があやまって主人の宝物を壊して殺される話は例の「皿屋敷」と同じ筋立てであり、下女の名が「お菊」であるのも類型的である。
橋の中央から西方(多賀城駅方面)を望むと右側に多賀城駐屯地、左の建設機械は東日本大震災で決壊した堤防を修復しているところです。
驚いたのが市史によると「津波のためたびたび橋が落ち」とあります。上記文にアンダーラインを引いております。
つまり、今回の大震災で砂押川の土手が決壊しましたが、津波による被害は度々起こっていたのです。
当時は木造による橋であったでしょうから、津波の力には敵わなかったのでしょう。
度々とありますから、津波はよくあったのかも知れません。
意外なところから過去の津波の被害が分かりました。
PS:ぐずら君から画像の提供がありました。
これが、「菊ヶ岡」と思われます。
現在ここはどこの土地でしょうか? 多賀城市でしょうか?
時間があったら行ってみたいと思います。
1984年の写真のようです。
私的には、少なからずこの伝承は嘘では無いと思います。
ストーリーは時間と共に変化し面白おかしくまたは恐ろしい表現になりますが、何らかの事件があったのでしょう。
ぐずら君の情報では、当時は今のような高さの土手(堤防)は無く、氾濫しやすい状況であったということです。
考えれば当然ですね。
石で積まれた土手は、昭和になってからのことでしょう。
私が小学生の頃、よくこの川で釣りをしていましたが、ある日、土手から足を滑らせ川に落ち切り傷を負ったこともありました。
あの堤防はしっかり作られていてコンクリートで整えられていましたね。ww
ぐずら君ありがとう。!
この橋があるのは、宮城県多賀城市にある陸上自衛隊多賀城駐屯地の横を流れる
砂押川に架かる橋で自衛隊のすぐ横にあります。
確かあれは…………
今から約210年ほど前、この橋の近く(現在緑地公園)に加藤田という豪族が住んでいました。
そこの下女(女中) お菊が主人にそぐわないことをしてしまい
その罰として
橋から逆さ吊りにされてしまったのです。
お菊は、もがき苦しみましたが、誰も助けてはくれませんでした。
お菊は、無念な思いを残したまま、この世を去ってしまったのです。
それからと言うものお菊の幽霊が、この橋に現れるようになったのです。
街の人々は、この橋を渡る時、手を合わせ、念仏を唱えながら渡ったそうです。
それから、誰が言うとでもなくこの橋を念仏橋と言うようになったのです。
しかし、何年もの長い間、この状態が続いたのです。
噂も広がり、このままにしておくことも出来ず。
塩竈にある雲上寺にお願いをして供養をしてもらうことになったのです。
すると、供養をした翌日からピタリとお菊の幽霊は出なくなったのです。
街の人々は喜びました…
加藤田の土地は、お寺に寄付されたそうです。
しだいに、人々はその話しをすることもなくなり、忘れさられていったのです…………。
当時の橋は、現在の橋からやや東側にありました。
上記は私が地元歴史研究家に聞いたものですが、多賀城市史に掲載されておりましたのでここに紹介しておきます。
上記の話の裏付けといいますか、確認ができました。
八幡より笠神に砂押川を渡る橋が「念仏橋」で「お菊橋」とも呼ばれている。
大代村の「書出」には、「みたらせ橋」と呼ばれていたが、津波のためたびたび橋が落ち、通行に難儀していたが、享保年間に老婆たちが十年間念仏修行して願い、橋を架けることができた。それで念仏橋と呼ばれたとあり、また昔、お菊という下女が罪によって主に殺されたが、橋を渡る者は念仏を唱えてお菊を弔ったのでこの名がある。
いずれ橋供養の信仰にかかわる名称と考えられる。
別項に「菊ヶ岡」がありそこに関連するお菊のことが記されています。
笠神の東橋の岡は「菊ヶ岡」と呼ばれている。
昔、この地は某氏(多分「加藤田」)の屋敷であり、屋敷にお菊という下女が仕えていた。
このお菊が罪を犯したため生き埋めにされた。
その場所に一本松があり、その岡は菊ヶ岡と呼ばれるようになった。
この屋敷を所有する者は、お菊の祟りか次々に替わり、遂には塩竈の雲上寺に施入されてしまった。
下女があやまって主人の宝物を壊して殺される話は例の「皿屋敷」と同じ筋立てであり、下女の名が「お菊」であるのも類型的である。
橋の中央から西方(多賀城駅方面)を望むと右側に多賀城駐屯地、左の建設機械は東日本大震災で決壊した堤防を修復しているところです。
驚いたのが市史によると「津波のためたびたび橋が落ち」とあります。上記文にアンダーラインを引いております。
つまり、今回の大震災で砂押川の土手が決壊しましたが、津波による被害は度々起こっていたのです。
当時は木造による橋であったでしょうから、津波の力には敵わなかったのでしょう。
度々とありますから、津波はよくあったのかも知れません。
意外なところから過去の津波の被害が分かりました。
PS:ぐずら君から画像の提供がありました。
これが、「菊ヶ岡」と思われます。
現在ここはどこの土地でしょうか? 多賀城市でしょうか?
時間があったら行ってみたいと思います。
1984年の写真のようです。
私的には、少なからずこの伝承は嘘では無いと思います。
ストーリーは時間と共に変化し面白おかしくまたは恐ろしい表現になりますが、何らかの事件があったのでしょう。
ぐずら君の情報では、当時は今のような高さの土手(堤防)は無く、氾濫しやすい状況であったということです。
考えれば当然ですね。
石で積まれた土手は、昭和になってからのことでしょう。
私が小学生の頃、よくこの川で釣りをしていましたが、ある日、土手から足を滑らせ川に落ち切り傷を負ったこともありました。
あの堤防はしっかり作られていてコンクリートで整えられていましたね。ww
ぐずら君ありがとう。!
砂押・・・そうそうここの上流に小舟で砂をとり、その砂で瓦を作っていました。今は無くなりましたが、その小舟で子供の時はよく遊びましたよ。 そのままもっと上流に行くと田園地帯になりますが、そこにあるのが、「南宮神社/津波に流された女神・多賀城市」
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/84cef488b78e2d194dcafd3e17f02210
になるわけです。昔は上流まで氾濫したことは間違いありません。
震災の時撮った砂押川の上流の写真があります。
現在はここに堰といいますか段差があり船がここで引っかかって止まっています。
段差がない昔はもっと流されたでしょう。
もう一つ流された八幡様があります。
「八幡神社/利府町 「流れ八幡」 「泥八幡」」
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/ea48978e6c467ef187ca7dcc93e1c050
これも津波です。
伝承はあるのです。これを知ってもらいたいですね。
昔から水がやってきて色々なことがあったようですね。本来のその歴史こそ住民には大事なのに。どうしてそれが埋もれちゃうのか。家族もおじいちゃんとかとなかなか喋ったりもしなくなっていくばかりですから、年輩の方や歴史や郷土史さんやひーさんの活躍が期待されますね。
砂押との名前が全てを物語っていますし、古い地名の件もコメントにいっぱいありましたから見栄えじゃなく生活に密着した地名のままでお願いしたいものです。各地の地名で何かを感じようとしている者からの願いでもあります。
お菊さんの件、深読みしますよね。加藤田というのも。多分そこは何か土地の傷がある地ですからお菊さんの前にも何かありそうですね。震災の被害についてもまさに境界であるようですね。お水は物理的な物で大昔から地形的にもそうした事がある地だったはずでそれゆえ何か聖地的な意味合いがありそうに思います。
この川にまつわる被害の数だけ伝説もありそうですから神社仏閣もこの脇にはありそうに思います。今後何か気づいたらアドバイスもらいに伺いますね。8628
畑ならいいんですけど。
家のお袋が入っているみなし仮設替りのアパートは
本の昔、首つりがあったり藁人形が打ち込まれたりしていた場所で、幽霊がでます。お袋はいつも悩まされているようです。
隣の部屋に遊びに来た子供が、ここ恐い・・・お化け屋敷だと言って寄りつかなくなったそうです。
この道、夜に通るのおっかねぐなったっちゃ
と聞いていますが、地図にも周囲には見つかりませんね。
まだ、読んで居ませんが、面白い話があったら追記します。
岩切の役所に聞いたら知らないとのこと、呆れました。
町史にはあると思うのですが。
この地も微妙な区域ですかね。
謎の出雲帝国売り切れたのかも知れません。
そう云えば、オイラ達が中学生のころには、ずっと昔からの橋の名残があちこちにあって、5枚目の写真で丁度川が左に曲がる辺りにも水面すれすれで幅1mほどの板橋が架かってたのを渡った覚えがあるよ。こんな低い橋だと高潮程度でも水没するから、ちょっとした津波でもひとたまりもないさねぇ~
それと、念仏橋近くで岡と云えば、住宅に遮られて県道からは見えづらいけど、川の北岸を東に入ってすぐの所に差渡し30~40m程で高さが10メートル位の頂上が平らで畑になってる小山がぽつんとあるよ。
そこまで詳しく知りませんでした。
「菊ケ丘」は今住所にあるんでしょうか?
砂押川は、戦前まで上げ潮時になると川が逆流していたと聞きましたし、海抜が低い処から、「周りに田を作るな」と言い伝えもありました。
この話の細かいところは、初めて知りました。
そこにお菊橋の伝説が残されているということは、鬼渡神と瀬織津姫との関連も想像できます。
そこに悪玉伝説が加われば、大変面白いことが分かります。
ストーリーが一緒の七北田川の高玉伝説も多分そうです。川は境界線という事です。
いわき市にも勿来の関がありますが、多賀城に勿来の関(ここに来るなと言う意味。クナトも同義)があるという事は、エミシと大和の境界線という事です。
ある事件が起きて、それがアレンジされた可能性もありますが、暗にクナト・アラハバキ信仰を残す為にその怪談が作られたのかも知れませんね。
言葉や文章に埋もれた歴史は大事なのかも知れません。
多賀城に伝わる民話もあるのですが、やはり有名な伝説や昔話のアレンジが見られますね。
口語伝承ですね。
何か事件があって殺されたのは事実かも知れませんが、人に伝わる時は脚色されるものですからね。
頻繁にあったんですね
記録というのは
みて初めて役に立つんですね