



八幡神社ーはちまんじんじゃー

通常は「はちまん」でいいのですが、自分が子供の頃は「やわた」神社と読んでいたような気がします。
実は、多賀城では地名が「やわた」になっているからです。
八幡(やわた)の地名は多賀城市の中でも広い地域の一つです。
今は、〇丁目と言いますが、私が幼少の頃は、の名前があり八幡下一・八幡下二・八幡上・八幡沖と分かれいました。
小学校の運動会では、部落対抗リレーがあり一年生から六年生まで代表が選ばれて競争したものです。
今では無くなりましたがね。
さて戻ります。



延暦年間(平安時代初期)、奥州を征圧した坂上田村麻呂が
歌枕で有名な末の松山の西方古館と呼ばれた台地に鎮座し「末の松山八幡宮」と称されていました。
嘉禎元年(1225)鎌倉時代に現在の地へ遷宮されたものです。
また、前九年の役(1051~1062:平泉での戦い)の際、天喜~康平年中/源頼義、義家父子が「弓懸(韘:ゆがけ)弓を射る際に利き手にはめる皮手袋」を奉納し、戦勝祈願をしたころから弓懸八幡とも呼ばれます。

源頼義
平安中期の武将。頼信の長男。
父と共に平忠常を討ち、相模守。
東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。
源義家
平安後期の武将。頼義の長男で八幡太郎と号す。(八幡太郎義家の方が馴染み深いかも)
前九年の合戦では父と共に陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年合戦を平定。
東国に源氏勢力の根拠を固めた(1039~1106)

この遺跡については省略させていただきます。古代の遺跡ですね。
この神社には30年以上も来ていないと思います。
だから、社殿がどんなだったのかも覚えていませんでした。
ここに来れたのも、あーさんより狛犬ハンター東北支部長の辞令を受けたからかも知れませんね。
神のお導きでしょう。













昭和63年・・・・滝口さん? 八幡では意外と地主では?


八幡の文字左右のバランスが変ですね? 一文字消されてるように見えるのですが?
なんて書いているんだろ?





ホームページ「多賀城」
雪が本降りになって来ました。
やっと冬のイメージです。
昨日小さな神社見つけました。
休みになったら行ってみます。
「にしもない」(地元の発音は「にしもね」)と読みますが、紛れもなく蝦夷の地名でございますね。
源氏にしろ平家にしろ秀吉にしろ官軍にしろ、俺たちゃ負けてばっかりだげども、誇り高き原日本人の末裔だーいっ!
後のも頑固そうなお顔が頼もしいです。
応神天皇も、こういうガードが居れば安心ですね ♪
康平元年は1058年から1064年の7年間だね。
天皇は後冷泉のようですが、と言うことは、ぐずらは955歳か?
もう少し調べてみます。
その島の年表によると、
オラと同姓の一族が初めて来島したのが永承年間で、
その後、島の開発にたづさわり、
最終的には康平年間に大挙して住み着いたらしい。
この、康平年間ていう年代に心当たりはないかね・・・
まぁ、いいけど、やはり元々ここは蝦夷地ですよ。律令国家がこの東北を占領して来たのです。ここに住む以上蝦夷の見方です。
しかしながら、源氏の姓を持ち、嫁はバリバリの平家です。隠しようも無い事実です。
アゲハの家紋です。
藤原三代のミイラの造り方は、蝦夷に伝わる技法と同じようで、やはり明らかに蝦夷の血を感じます。 義経の話も興味があるし、アテルイ・モレも気になります。
東北地方に沢山残るアイヌ語の地名も気になるし多賀国府や田村麻呂の活躍も気になります。
いやいや、なにがら手をつけだらいいのが・・・
あ~ぐずらの苗字も読みは同じだから関係あんのすか?
そうだ、源頼朝に襲われた藤原は、千葉姓に変えて身を隠したとか? だから一関あたりは千葉だらけです。
そう言ゃぁ、ひーって源氏系の姓のくせに蝦夷系が好きだよな~
そこさいぐど、オラはバリバリ蝦夷系だおんね ♪
実子には自分の本領、養子には元の本領を譲るなんつうのは、エゾの優しさなんだっちゃねぇ~
つうが、甘さがもしゃねげんとなぁ・・・
んだっいっちゃね!クロンシュタットさん
しかし日本海側は、気候も土地も良くない、何で実子がこちらなんだと清原との戦いが始まります。これが後三年の役ですね。
勝った清原清衡は、自分は元々藤原だからと藤原の姓を名のりますね。
この平泉の話は、短く話しても2時間から3時間かかります。何度もガイドの話を聞いているうちに覚えてしまいました。
しかし、複雑な為、ガイドさんは系図を書いて説明してました。
いずれ蝦夷から平泉の話を書きたいのですが、義経同様奥が深く、長くなりそうで手をつけてません。面白い伝説は、岩手の散歩道をご覧下さい。
騎射に巧なること神の如し。八本の矢で十二人の敵を倒したという伝説があります。
和歌にも優れ、部下や地侍の面倒見も極めてよく、「完全なる武将」として、軍神とも評されております。
彼の存在があったればこそ、東国の武士は「京都にそむいても源氏にだけはそむくなかれ」との伝承のもとに、頼朝の鎌倉幕府がありえたのでしょう。
でもですね、討たれた「我ら」蝦夷・俘囚側にとっては、朝廷および中央政府による、長い長い搾取の歴史の始まりですからね、トホホですよね。
炎立つでしたっけ?あの大河ドラマでは、頼義・義家親子がダーティなイメージで描かれてましたね。主役の謙さんよりも、安倍貞任の村田さんがカッコ良かったのですが、その後彼は「三枚目」専門になってしまいました・・・
ほんとうは、前九年の役は十三年、後三年の役は五年間の戦いです。前九年の役では、北上川流域の安倍氏が滅ぼされました。前九年の役で、頼義・義家親子の側に立った出羽(秋田県)の清原氏が内紛を起したのが、後三年の役の始まりです。頼義亡き後、義家が介入し、弟の新羅三郎義光の援けもあり、すったもんだで清原氏も滅びました。そんで、清原氏に取り込まれていた藤原氏(謙さんの二役)が平泉に移り、奥州の都となったのです。ヒーヒー疲れた・・・
部落対抗リレー。選手でした。
自分でも勉強しながら、郷土のいいところを皆さんに知ってもらいたいと思いまして。
旅行業や観光バスの業界にいたとき地元の人も知らないことが沢山あることを実感しました。
まだまだ沢山あります。
少しづつご紹介したいと思います。
例えば、桃太郎伝説・桃太郎神社が宮城にあります。
宮城の散歩道をご覧下さい。
これからもよろしくです。
だいたい、仙台の八幡神社の由来さえ知りません。
小さい時から、どんと祭に行って、松を奉納してましたが、歴史をかえま見た事はありませんでした。
ひーさんのブログで今頃勉強させられてますね、
ありがとございます。
もっと早くやっていればと思いました。
旅も今までより楽しくなったはず・・
それに色んなことに興味を持つようになりました。
あの辺に狐でもいるのかも?
仙台に住み始めて、間もなく多賀城のアヤメ
祭りとかに行った時にその近くを
ブラブラしたような記憶があります。
その頃は神社仏閣にそれ程関心がなく
只見ただけでしたが、今ならじっくり見て
写真も撮っていますね。
そういえば八幡さんさもずいぶんと参ってねえなぁ~
ジャスコだのK'sだのさ行くのにそば通ってんだげんとねぇ・・・
境内に恵比寿大黒の二段彫りなんかあんのさっぱり知ゃねがった
最後は京都で処刑されたと記憶してます。
いずれまとめたいと思っています。
この東北で名を上げた武将です。
これについてもまとめたいのですが、何せ複雑なので、大変なんです。
最近予約投稿出来るようになり、今日は仕事なのですが、お昼にアップするように設定して見ました。
私は平安時代に生きてみたかったよ
高橋克彦さんのアテルイの話
思い出しまし~た (^_-)-☆
30年ぶりに訪れた神社、感慨深いものがあったのではないでしょうか。