ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

歌枕の地を訪ねて・多賀城 1 末の松山・沖の石

2007年08月18日 17時55分13秒 | 多賀城の散歩道
宮城県 多賀城市

多賀城は、歴史の教科書にも出ていたかと思う。
この地が文献に登場するのは、「続日本紀」の天平九年(737年)の記事に「多賀柵」の名が見える。
その後、宝亀十一年(780年)の記事に多賀城の名が初めて登場する。

奈良時代に陸奥国の国府とともに鎮守府も置かれ、政治的、軍事的中心地となっていたようだ。
硬い話は、歴史家にまかせ、この辺でやめておこう。
後ほどチョット触れるかも? 








末の松山
この末の松山は、百人一首に歌われています。

42番

契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは

           清 原 元 輔

ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すえのまつやま なみこさじとは

【釈】
あのとき、二人は固く約束しましたね。
いくども、嬉し涙にぬれた袖をしぼりながら
あの末の松山を波が越すことがないように
お互いに心変わりすることは絶対にない、とね。

清原元輔は清少納言の父にあたります。


この歌には元歌があります。

「古今集」(巻二十・東歌)
「君をおきてあだし心をわが待たば末の松山波を越えなむ」

訳:あなたをさしおいて、私が他の人を思う心をもし持つようなことがあれば、あの海岸にそびえる末の松山を波だって越えてしまうでしょう。
他の人を思うことなど、あり得ません。


つまり、ここに来て歌ったわけでは無いということですね。






この松の木は大きく見えませんが、実は樹齢450年とも言われている大木です。

国道45号線からは、建物の陰からチラリと見えるが、三陸自動車道からはハッキリと
その姿を見ることが出来る。

この末の松山を含め、後に説明する、沖の石野田の玉川も、奥の細道に登場してきます。





沖 の 石








末の松山から、細い道を下ると突き当たりに沖の石がある。

この沖の石も百人一首 92番で歌われていた。

わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 

                    人こそ知らぬ かわく間もなし


                                    二 条 院 讃 岐

 わがそでは しおひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらぬ かわくまもなし


【釈】
私の着物の袖は、引き潮のときにも水面に現れない沖の石のように、人は知らないでしょうが、あの人を思う恋の涙のために、乾く間も無いのです。


今は、すっかり住宅地に囲まれたこの地は、興味がなければただの石とただの松の木なのだろう・・・

この辺りは、以前 八幡沖(やわたおき)という地区だったような気がする。
この沖の石があったからかもしれない?

八幡には以前鎮守と言う地名があった・・・鎮守府に関係するものだろうか?

今は、何丁目と表記しているが、昔の地名が無くなるのは、歴史を忘れてしまいそうで、もったいないような気もする。


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2 コメント

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Unknown (桃源児)
2008-06-29 21:46:32
末の松山、沖の石、どちらもいい風景ですね。ずっと後世にも伝えて欲しいものです。
昔の地名が消えるのは、本当に残念です。
桃源児さんへ (ひー)
2008-06-30 03:02:54
コメントありがとうございます。
地名には、何らかの由来があります。
それを安易に消すのは問題ですね。

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