ヘルストピアダイアリー

ヘルス(健康)とユートピア(理想郷)の造語、「健康天国」「健康別天地」。健康を楽しむ三セク施設。

歓迎セレ日本一トヨタナイン

2008年03月05日 | トヨタ硬式野球部

  昨日のブログどおり、4日(火)は社会人野球チーム「トヨタ自動車硬式野球部」ナインが今年初めて来館し、わずかばかりのセレモニーを当館1階ロビー(エントランスホール)で行いました。

 イスに座ってこの模様を見つめてくれてたのは、当社の定期バスを利用されている川北、川中、南方地区の常連のお客様です。観衆の大半がその方々でした。どうして?その方々かと言いますと、定期バスの帰りの時間(15時)前だったからです。年齢にして60歳~80歳の女性。方や選手と言えば20~30代の若い男性、これでは釣り合いはとれませんが。野球は知らなくともそこそこ話にも付いてきてくれて、盛り上がってくれました。

 何せナインは昨年の日本選手権大会優勝という輝かしい実績のある選手陣です。彼らを紹介する中で「昨年の選手権優勝チーム」と説明しますと、一層盛り上がってくれました。これまで全国制覇はおろか、全国大会という大会ではベスト8が最高でしたから。4強を通り越して一気に優勝、日本一に輝く快挙に周囲もびっくりですよ。そのメンバーが間近で見られるのですから・・・と申しましてもプロの軍団とは違います。知らない人ばかりでしたので正直観衆も複雑だったはずです。そこは知らない人なりに、昨年優勝までのプロセスを紹介することで、この軍団が成し得た偉大さに改めてびっくりした様子でした。


 当社からは日本一になったお祝いに地元の特産品、天下一の水を贈りました。新主将・福田康一三塁手に。反対に今度はトヨタ野球部から優勝パネルと優勝記念のバッジ、クオカード、ペンなどをお返しの品としていただきました。ありがとうございました。

 そうそう、全員集まっているところを記念撮影するはずでした。支配人から主将に天下一の水を贈るシーンを撮るはずでした。しかし、いずれもデジカメで撮るの忘れてました。司会で必死でした。何回もかみかみで、予定したことの半分もできませんでした。また、今度の反省材料です。

 画像のないブログほど面白くないものはないですね。ここは一つ、日本選手権で優勝し、胴上げされている監督でしょうか、それと佐野前キャプテンが優勝旗をいただいているところをトヨタ野球部のホームページから拝借、それでご了承下さい。


セレモニーの時間変更になりました

2008年03月03日 | トヨタ硬式野球部

  トヨタ野球部の歓迎セレのブログで、ヘルストピアでのセレモニーは4日午後5時からとお伝えしておりましたが、宿泊先のホテルMの担当者から今夕電話がありまして、日程を変更してほしいとのお願いでした。

 変更時間は4日午後2時50分からです。トヨタ野球部さんのスケジュールの都合ということでした。

 前回のブログで確認されていた方に、開催時間の変更のお願いでした。来た時に終わっていた、では申し訳ありませんので、この場でお知らせしておきます。

 今日はJR九州とのオープン戦が組まれてまして、何とTOYOTA野球部は2-3で負けてしまいました。まぁ、オープン戦ですから。まだまだ若い選手や期待されている新人等を使っている段階でもありますので、余裕は十分です。しかし、JRも日本一のチームをオープン戦といえども破ったことには間違いなく、自信につながったかもしれませんね。


トヨタ野球部の歓迎セレ

2008年03月03日 | トヨタ硬式野球部

プロ野球もオープン戦が2月下旬の週末より始まり、2週目に突入。球春は南から順に北上していきます。まるで桜前線のように。それもそのはず、いきなり仙台の楽天球場でのオープン戦などムリでしょう。寒くて。キャンプ地の沖縄や宮崎の同地区球団の対戦から始まります。

 一方では、プロのキャンプと同時期に社会人や大学の野球部も沖縄を含む九州南部地方で行なわれています。先日はこのブログでも延岡でキャンプを張る社会人チーム「ヤマハ」を紹介しました。延岡初キャンプということで。何度かのアプローチも残念ながら選手の来館は一度きりでした。

 しかし、日本一になったあの社会人チームが2年ぶりに延岡に帰ってきます。そう、日本選手権の覇者・トヨタ自動車です。激戦区・東海地方の雄として、これまで都市対抗野球と日本選手権に出場。しかし上位まで登りつめるも、あと少しのところで涙を呑んで優勝には縁がありませんでした。

 ところが、昨年11月の日本選手権でなんとトヨタは頂点に登りつめ、全国制覇を果たすという輝かしい快挙を成し遂げたのでした。悲願の初優勝でした。これまでの戦績を見ますと、都市対抗でベスト8入り2回が最高でした。決勝はおろか、ベスト4に残ることもなく、昨年は一気に頂上に立つことができたわけでして、チームの状態も昨年から続いていれば絶好調でしょう。延岡に来る前は沖縄で充実したキャンプを積んできました。その総仕上げがここ延岡でとなります。本県や周辺でキャンプを張るチームとのオープン戦が組まれておりまして、8日までの延岡滞在の間は2日・住金鹿島(川南)、3日・JR九州(延岡西階)、5日・ホンダ熊本(西階)、7日・中央大学(宮崎アイビースタジアム)とのオープン戦が予定されています。雨天の場合は中止。

 3日、5日と延岡でオープン戦(練習試合)が組まれてますので、興味のある方は是非応援に行きましょう。入場料はアマチュアですのでもちろん無料です。

 ここでお知らせ、4日(火)は、ヘルストピア延岡でトヨタ野球部員を迎えた「日本一おめでとう、歓迎セレモニー」を開きます。わずか10分程度のセレモニーですが、選手を間近に見られる絶好の機会です。ひょっとして来季のプロ野球選手もいるかもしれません。時間もあまりありませんので、質問コーナーなどで盛り上げていきたいと思います。興味のある方は17時過ぎにヘルストピア1階エントランスホールにお集まり下さい。なお、入館の際は必ずフロントで「セレモニーを見に来ました」とお伝え下さい。


閏年に勇吉を思い出す

2008年03月01日 | 最近の話題
   3月に入りました。閏年の今年は平年より1日多い366日。当たり前か。平年の一年は365日と約6時間。その余った6時間の調整時間とも言われてます。地球は一年かけて太陽の周りを一周するから、単純でも360度=360日。そこでも5日ほど余りが出てますが、さらに約6時間も余っていた計算。と、この単純な計算で終わらないのが天文学でもあります。よくとてつもなく想像すらできない莫大な数値のことを天文学的な数値とか言われますが、まさにこの閏年を調べてみると、よくもまぁこんな数値を計算で出せるものだと感心させられます。数学や科学、天文学に弱い私にはちんぷんかんぷんですワ。

 と、2月29日の話をすると4年に一度しか来ないため、話題が少ない日はまず、この閏年から切り出すことが多いですね、どこか挨拶代わりにも似ています。

 と、これだけで終わっても仕方ありません。本当に挨拶代わりのブログになってしまいます。せめてここでその閏年と何か関連付けして今日の話題。

 空の先駆者・後藤勇吉が太平洋横断飛行の訓練中に、佐賀県上空で事故により死亡したのがこの2月29日でした。昭和3年(1928年)、ちょうど今から80年前の話です。勇吉は明治29年(1896)、延岡市南町に生まれ、旧制延岡中学校(現延岡高校)を卒業、20歳で門川町尾末海岸で独力の飛行練習を行い、24歳で飛行競技大会で高度飛行1位、高等飛行1位、速度飛行2位の成績を収め、数々の記録と好結果を残しました。25歳にはわが国第1号の一等操縦士と一等飛行士の免許を取得し、26歳でわが国初の旅客飛行に成功、28歳でわが国初の日本一周飛行にも成功、30歳で大阪から京城、大蓮、両航空路を開拓しわが国で初めて、海外郵便輸送に成功、 31歳でわが国で初めて生鮮農産物(「日向かぼちゃ」)を空輸してます。そしてその翌年の2月29日、後藤の乗っていた飛行機が墜落。32歳の若さでした。

 ここで注目したいのは、勇吉が20歳から飛行機事故で亡くなるまでの短期間に、次々に日本初を経験していることです。そのことが“空の先駆者”たる由縁でもありますが。すべてに渡って自らが半ば“実験台”として大空に大きな夢を抱いて飛び立ち、記録や未知なる世界の足跡を残していったと言っても過言ではありません。日本の“飛行機野郎”は、勇吉以外に誰もいないと私は思います。

 最近、スーパーの野菜コーナーでは新鮮な地元の旬の野菜が売られてます。ご存じでしょうか。そう、ネーミングも面白い「空飛ぶ新玉ネギ」のことです。どうしてこのような名前が付いたかというと、実は勇吉と深いかかわりがあるんですね。31歳の時に日向かぼちゃを空輸しました大阪に向けて。大阪では新鮮さがウリで宮崎の野菜が飛ぶように売れたといいます。その時に空輸した野菜にあやかりまして、毎年この時期に新玉ネギを空輸して届けています。各方面に日本一の早出し玉ネギと新鮮さをウリに。玉ネギ箱には飛行機の絵柄も付いてます。それにあやかってネーミングされたんですね。勝手に玉ネギが空を飛んでいるわけではありません。勇吉が残した日向かぼちゃ等と関連があったという話です。

 以上が今日の話題です。後藤勇吉の銅像はヘルストピアから見ると北西に位置します妙田公園の先端部分、方財に渡る橋の南詰め、ちょうど三角になった公園に立てられてます。パイロットの格好をして遠く広々した太平洋を眺めるように雄大に。

 そういえば、昨日はフロントの女性に後藤勇吉の像はどこにありますか、と訪ねてきた人がいたといいます。勇吉の命日だったんですね。フロントの女性何を勘違いしたか、文化センターの若山牧水像を案内したそうです。「あ"っ」。もう遅いんじゃ。

  今日の感動の言葉。

昭和2年(1927)6月23日、太平洋横断飛行の計画が発表され、全国民の話題となっていた頃、勇吉は飛行士の友人に次のように語ったそうです。
 「もし、横断飛行の操縦士として採用されれば、どんな艱難辛苦(かんなんしんく)にあっても、必ずやりとげる決心です。現在の太平洋横断飛行には多分の危険性がある。だから、犠牲の精神がなくては、太平洋横断飛行の成功はおぼつかない。人間の一生というものを考えてみると、50年も一生、30年も一生。要は、生き甲斐があったかどうかが、点のつけどころだ。」

 当時31歳の後藤勇吉が残した素晴らしい言葉です。まさにその生涯は後藤にとって悔いの残らないものになったに違いありません。高校の大先輩が残してくれた偉大な功績を私は誇りに思います。