3月に入りました。閏年の今年は平年より1日多い366日。当たり前か。平年の一年は365日と約6時間。その余った6時間の調整時間とも言われてます。地球は一年かけて太陽の周りを一周するから、単純でも360度=360日。そこでも5日ほど余りが出てますが、さらに約6時間も余っていた計算。と、この単純な計算で終わらないのが天文学でもあります。よくとてつもなく想像すらできない莫大な数値のことを天文学的な数値とか言われますが、まさにこの閏年を調べてみると、よくもまぁこんな数値を計算で出せるものだと感心させられます。数学や科学、天文学に弱い私にはちんぷんかんぷんですワ。
と、2月29日の話をすると4年に一度しか来ないため、話題が少ない日はまず、この閏年から切り出すことが多いですね、どこか挨拶代わりにも似ています。
と、これだけで終わっても仕方ありません。本当に挨拶代わりのブログになってしまいます。せめてここでその閏年と何か関連付けして今日の話題。
空の先駆者・後藤勇吉が太平洋横断飛行の訓練中に、佐賀県上空で事故により死亡したのがこの2月29日でした。昭和3年(1928年)、ちょうど今から80年前の話です。勇吉は明治29年(1896)、延岡市南町に生まれ、旧制延岡中学校(現延岡高校)を卒業、20歳で門川町尾末海岸で独力の飛行練習を行い、24歳で飛行競技大会で高度飛行1位、高等飛行1位、速度飛行2位の成績を収め、数々の記録と好結果を残しました。25歳にはわが国第1号の一等操縦士と一等飛行士の免許を取得し、26歳でわが国初の旅客飛行に成功、28歳でわが国初の日本一周飛行にも成功、30歳で大阪から京城、大蓮、両航空路を開拓しわが国で初めて、海外郵便輸送に成功、 31歳でわが国で初めて生鮮農産物(「日向かぼちゃ」)を空輸してます。そしてその翌年の2月29日、後藤の乗っていた飛行機が墜落。32歳の若さでした。
ここで注目したいのは、勇吉が20歳から飛行機事故で亡くなるまでの短期間に、次々に日本初を経験していることです。そのことが“空の先駆者”たる由縁でもありますが。すべてに渡って自らが半ば“実験台”として大空に大きな夢を抱いて飛び立ち、記録や未知なる世界の足跡を残していったと言っても過言ではありません。日本の“飛行機野郎”は、勇吉以外に誰もいないと私は思います。
最近、スーパーの野菜コーナーでは新鮮な地元の旬の野菜が売られてます。ご存じでしょうか。そう、ネーミングも面白い「空飛ぶ新玉ネギ」のことです。どうしてこのような名前が付いたかというと、実は勇吉と深いかかわりがあるんですね。31歳の時に日向かぼちゃを空輸しました大阪に向けて。大阪では新鮮さがウリで宮崎の野菜が飛ぶように売れたといいます。その時に空輸した野菜にあやかりまして、毎年この時期に新玉ネギを空輸して届けています。各方面に日本一の早出し玉ネギと新鮮さをウリに。玉ネギ箱には飛行機の絵柄も付いてます。それにあやかってネーミングされたんですね。勝手に玉ネギが空を飛んでいるわけではありません。勇吉が残した日向かぼちゃ等と関連があったという話です。
以上が今日の話題です。後藤勇吉の銅像はヘルストピアから見ると北西に位置します妙田公園の先端部分、方財に渡る橋の南詰め、ちょうど三角になった公園に立てられてます。パイロットの格好をして遠く広々した太平洋を眺めるように雄大に。
そういえば、昨日はフロントの女性に後藤勇吉の像はどこにありますか、と訪ねてきた人がいたといいます。勇吉の命日だったんですね。フロントの女性何を勘違いしたか、文化センターの若山牧水像を案内したそうです。「あ"っ」。もう遅いんじゃ。
今日の感動の言葉。
昭和2年(1927)6月23日、太平洋横断飛行の計画が発表され、全国民の話題となっていた頃、勇吉は飛行士の友人に次のように語ったそうです。
「もし、横断飛行の操縦士として採用されれば、どんな艱難辛苦(かんなんしんく)にあっても、必ずやりとげる決心です。現在の太平洋横断飛行には多分の危険性がある。だから、犠牲の精神がなくては、太平洋横断飛行の成功はおぼつかない。人間の一生というものを考えてみると、50年も一生、30年も一生。要は、生き甲斐があったかどうかが、点のつけどころだ。」
当時31歳の後藤勇吉が残した素晴らしい言葉です。まさにその生涯は後藤にとって悔いの残らないものになったに違いありません。高校の大先輩が残してくれた偉大な功績を私は誇りに思います。