お恥ずかしながら、今日書く事は毎日情報を新聞等で仕入れている私にとっては、情けないと言いますか、以外に無知、世間に関心がなかったといいますか、遠まわしな表現で思わせぶりですが。
今日は朝から来週末に控える当社の「誕生祭」案内用の横断幕をパソコンでつくってました。何分にもA3用紙までしか印刷ができない当社のカラーコピー機。大きめのポスターや文字をつくる場合はA3用紙を貼り合わせるしかなく、午後からはカッターで枠を切り、A3用紙をつなぎ合わせて、たて2枚、横2枚の4枚を一セットにして「誕」「生」「祭」の3文字を一文字当たり4枚の用紙で作成しました。
また、「オープン14周年記念」や「ゴスペルコンサート」「コスモダンスショー」などの案内用の貼り紙をイベント会場となります1階のエントランスホールでガラス面に貼り付ける作業をしてました。するとガラス張りの向こう、プールの方からなにやら人影が。よくみると当社のプール監視係の小田さん。
「何なさっているんですか」
「来週のイベントの案内用紙を貼り付けているんですよ」
「あぁこの人は最近音頭を歌っている人ですよね」
「そうですね、今度ここでゴスペルコンサート開くんですよ」
「この人は地元の歌手であり、今はうちでもカラオケ教室も開いてます」
「へぇ~。うちの子も今帰ってきてるんですよ」
ここまでは普通の会話でした。しかし、私が小田さんの娘さんを知らなかったものですから、それから小田さんはえっ、というような表情をしまして、次々にトーンが高くなって。
「帰ってくれば必ず地元のテレビ局やFMラジオ放送局回りですよ。一時もじっとしてなくて、すぐまた東京に帰ってしまいます」「宮崎空港のテーマ曲も頼まれていると言ってましたが、最近はこういう依頼が増えてますね」
「あっそうですか。活躍されているんですね」
「本当に知らないんですか」
「ハイ、聞いたこともありません」
「○○さん(私の名)延岡出身ですよね」
「ハイ、ずっとここ延岡で育ってます」
(しばらく貼りものしていると、再び戻って来られて)
「今週末だったらスケジュールも取れたんですけどね」。
ここで私はえらく自信もってるなぁ、と関心してましたら、
一時して地元の夕刊紙を持参してきて
「最近の記事です」と小田さん。掲載日は今年の2月14日でした。
確かに新しい。そして、えっと私。
その新聞には小田さんの娘さんのこと特集で書かれてました。
小田ちはる
宮崎県延岡市に生まれる。
高校より、実家を離れ寮生活を送り、東京へは短大進学のため上京する。
短大卒業後の20歳から24歳までの4年間、音楽とは無縁のエステティックサロンへと就職し勤務する。
24歳で出かけた沖縄旅行で沖縄民謡「芭蕉布」に何か気持ちの押さえきれないエネルギーを感じ、エステティックサロンのOLから音楽にまつわる仕事に就きたいと、音楽教室でのアルバイトをしながらヴォーカル講師の勉強を始める。
「空高く 海青く」 小田ちはる待望の新作は、「自分」と「故郷」に正面から向き合った、大きなスケールの作品になりました。せつなく、しかし、明るく強いメッセージは、今回もきっとたくさんの人たちに勇気と優しさをもたらすことでしょう。サウンド面では、おなじみの荒川泰・石井完治の紡ぎ出す爽快で繊細な音世界が、聴きどころのひとつです。
-と解説にもありますように、爽快で繊細な世界が聴きどころのフレーズがちはるさんの持ち味。延岡が誇るシンガーソングライターなんです実は。
小田ちはるさんのオフィシャルウエブサイトは
こちらでは、ちはるさんの歌声も視聴できます。素晴らしいプロの歌声をお聴き下さい。
ちはるさんのプロフィールから引用。↓
オリジナル曲でCDデビューをしてみようか?と思うようになったのは27歳の時
それは爆風スランプのベーシスト「バーベキュー和佐田氏」との出会いがきっかけだった。この出会いから、ライブ活動が本格的に始まり、楽曲も自分のために書くようになった。本格的にCDリリースに関して動きが始まるのは30歳になってからとなる。2005年10月15日「子供のころ~時は流れて~」をリリース。
この曲からアーティスト小田ちはるの活動が始まった。
そして、メジャーデビューは2007年2月21日コロムビアミュージックエンタテイメントより「うちへ帰ろう」をリリース。同年5月にカラオケ配信も始まり、10月にはイベントがきっかけとなった埼玉「すまいるエフエム」でパーソナリティも務めている。
小田ちはるの活動は益々大きくなっている。
期待していきましょう、地元の星 小田ちはるさん。
すいません、小田父さん、こんなに有名な方だったとは。
いずれ当社でもふるさと凱旋ライブを頼みますよ。
今日は朝から来週末に控える当社の「誕生祭」案内用の横断幕をパソコンでつくってました。何分にもA3用紙までしか印刷ができない当社のカラーコピー機。大きめのポスターや文字をつくる場合はA3用紙を貼り合わせるしかなく、午後からはカッターで枠を切り、A3用紙をつなぎ合わせて、たて2枚、横2枚の4枚を一セットにして「誕」「生」「祭」の3文字を一文字当たり4枚の用紙で作成しました。
また、「オープン14周年記念」や「ゴスペルコンサート」「コスモダンスショー」などの案内用の貼り紙をイベント会場となります1階のエントランスホールでガラス面に貼り付ける作業をしてました。するとガラス張りの向こう、プールの方からなにやら人影が。よくみると当社のプール監視係の小田さん。
「何なさっているんですか」
「来週のイベントの案内用紙を貼り付けているんですよ」
「あぁこの人は最近音頭を歌っている人ですよね」
「そうですね、今度ここでゴスペルコンサート開くんですよ」
「この人は地元の歌手であり、今はうちでもカラオケ教室も開いてます」
「へぇ~。うちの子も今帰ってきてるんですよ」
ここまでは普通の会話でした。しかし、私が小田さんの娘さんを知らなかったものですから、それから小田さんはえっ、というような表情をしまして、次々にトーンが高くなって。
「帰ってくれば必ず地元のテレビ局やFMラジオ放送局回りですよ。一時もじっとしてなくて、すぐまた東京に帰ってしまいます」「宮崎空港のテーマ曲も頼まれていると言ってましたが、最近はこういう依頼が増えてますね」
「あっそうですか。活躍されているんですね」
「本当に知らないんですか」
「ハイ、聞いたこともありません」
「○○さん(私の名)延岡出身ですよね」
「ハイ、ずっとここ延岡で育ってます」
(しばらく貼りものしていると、再び戻って来られて)
「今週末だったらスケジュールも取れたんですけどね」。
ここで私はえらく自信もってるなぁ、と関心してましたら、
一時して地元の夕刊紙を持参してきて
「最近の記事です」と小田さん。掲載日は今年の2月14日でした。
確かに新しい。そして、えっと私。
その新聞には小田さんの娘さんのこと特集で書かれてました。
小田ちはる
宮崎県延岡市に生まれる。
高校より、実家を離れ寮生活を送り、東京へは短大進学のため上京する。
短大卒業後の20歳から24歳までの4年間、音楽とは無縁のエステティックサロンへと就職し勤務する。
24歳で出かけた沖縄旅行で沖縄民謡「芭蕉布」に何か気持ちの押さえきれないエネルギーを感じ、エステティックサロンのOLから音楽にまつわる仕事に就きたいと、音楽教室でのアルバイトをしながらヴォーカル講師の勉強を始める。
「空高く 海青く」 小田ちはる待望の新作は、「自分」と「故郷」に正面から向き合った、大きなスケールの作品になりました。せつなく、しかし、明るく強いメッセージは、今回もきっとたくさんの人たちに勇気と優しさをもたらすことでしょう。サウンド面では、おなじみの荒川泰・石井完治の紡ぎ出す爽快で繊細な音世界が、聴きどころのひとつです。
-と解説にもありますように、爽快で繊細な世界が聴きどころのフレーズがちはるさんの持ち味。延岡が誇るシンガーソングライターなんです実は。
小田ちはるさんのオフィシャルウエブサイトは
こちらでは、ちはるさんの歌声も視聴できます。素晴らしいプロの歌声をお聴き下さい。
ちはるさんのプロフィールから引用。↓
オリジナル曲でCDデビューをしてみようか?と思うようになったのは27歳の時
それは爆風スランプのベーシスト「バーベキュー和佐田氏」との出会いがきっかけだった。この出会いから、ライブ活動が本格的に始まり、楽曲も自分のために書くようになった。本格的にCDリリースに関して動きが始まるのは30歳になってからとなる。2005年10月15日「子供のころ~時は流れて~」をリリース。
この曲からアーティスト小田ちはるの活動が始まった。
そして、メジャーデビューは2007年2月21日コロムビアミュージックエンタテイメントより「うちへ帰ろう」をリリース。同年5月にカラオケ配信も始まり、10月にはイベントがきっかけとなった埼玉「すまいるエフエム」でパーソナリティも務めている。
小田ちはるの活動は益々大きくなっている。
期待していきましょう、地元の星 小田ちはるさん。
すいません、小田父さん、こんなに有名な方だったとは。
いずれ当社でもふるさと凱旋ライブを頼みますよ。