2012.5.15朝日新聞朝刊
沖縄がアメリカから日本に「復帰」して今日で40年。私たちはどこまでその意味をわかっているのだろうか。「基地は本土に引き取って」と運動しているライターの知念ウシさんと、国家や平和の意味を問い続ける哲学者の高橋哲哉さんが、沖縄と日本との関係を語った。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201205140442.html?id1=2&id2=cabcafbf
知念 私は自分で「植民地」と言っていますが、いざ日本の人に言われると、ずしーんと悲しくなりました。沖縄の多くの人は植民地だと、差別されていると認めるのは抵抗があると思います。差別する方が問題だとはいえ、そうされることはすごく嫌なことですから。でも最近そう告発する声が沖縄では高まっています。
知念 まさに「言うほうがおかしい」という発想が、植民地を持つ側のものではないですか。私は「被害者意識が強い」「被害妄想だ」と批判されることもあります。だけど、言われてびっくりして、なぜって考えるのが対等な人間関係でしょう。相手の立場に立って考えたら、わかって、話が進む。もし沖縄と日本の間がそうだったら、今頃はとっくに解決しているはずなんですが
知念 みんな「沖縄が好きだ」って言う。でも、「そんなに沖縄が好きなら基地を持って帰って」と言ったら、黙ってしまう。あるいは怒ったり、逆にお説教したり。
知念 沖縄は平和運動、平和学習をしに来る場所として固定化されているのでしょうか。もしかしたら、基地がある沖縄が面白いのかもしれない。エキゾチックで。
知念 原発事故の後、沖縄に避難してくる人はたくさんいます。でも、本当に沖縄は安全なのかと戸惑っています。9・11テロの後、沖縄は危険だと観光客の大量キャンセルがあった。今度は安全で癒やされる避難所とされる。いつも外から位置づけられるようで、複雑な気持ちです。
知念 高橋さんも、基地を持って帰ってくださいね。
***************
ぼくは67歳で少しは丸くなり、沖縄も復帰40年で丸くなった。だが丸くなっても怒らなければならない時は怒るのだ。だから基地に対しては差別だと怒る。基地は早々にお持ち帰りいただきたい。それが沖縄の人々の40年目の本音だろう。
池澤夏樹
******************
5・15平和とくらしを守る県民大会宣言
沖縄は、今年、沖縄と本土を分断し沖縄を米軍の統治に売り渡したサンフランシスコ講和条約締結から60年、また1972年の施政権返還「本土復帰」から40年の大きな節目を迎える。戦後沖縄を「基地の島」とし形成した二つの日米合意の基本戦略は今日なお踏襲され、冷戦の構図が崩壊し戦後67年が経過する今なお、沖縄を「基地の島」の鉄鎖につなぎ続けている。
この長い戦後を通じて、県民は、米軍を相手にまた日米両政府を相手に「基地のない平和な島」の実現を要求し行動を続けてきた。しかしながら、日米両政府は、県民の切実な要求に耳を傾けるどころか、辺野古や高江に見られる米軍の新基地建設、また民主党政権になってから突如として浮上してきた与那国島での自衛隊基地の建設問題など県民要求に逆行する動きを強めている。その上、宮古島や石垣島、与那国島など先島諸島における民間空港や港湾の軍事利用がなし崩し的に強化拡大され、さる4月のPAC3配備の一大騒動の際には、大規模に民有地を囲い込んだ上、歩哨の自衛隊員に拳銃の携行をもさせた。さらに、ただでさえ危険極まりないと言われる普天間基地に、県民がこぞって反対するウルトラ欠陥機MVオスプレイの配備を強行すると米側は公言し、そのため普天間基地の継続使用すなわち「普天間基地の固定化」が喧伝される傍ら、その一方で、同基地の嘉手納基地統合の動きも強まっている。
このように米軍基地と自衛隊基地強化の動きが急を告げる中、私たちは、今回2012年平和行進を与那国島でスタートさせた。国境の島を軍事の島に造り替えようとする政府に厳しく抗議するとともに、決して基地建設は許さないという決意を示すために多くの労組員が島に渡った。また、PAC3配備で揺れた宮古島で「戦争反対」の力強い行進が展開され、石垣島でも同様に行進が展開される予定になっている。
沖縄本島では、東西・南の3コースで、高江、辺野古の新基地建設反対、オスプレイ配備阻止、普天間固定化・嘉手納統合反対など新基地建設と基地の機能強化に反対するシュプレヒコールととともに、沖縄戦の風化と教科書改ざんを迫る動きに反対する抗議の声がこだました。
昨年は、突如として発生した3・11東日本大震災の復興支援を最優先する立場から、長年継続されてきた平和行進の全国募集が見送られたが、今年はあらためて全国から1500名に上る大行進団が編成され力強く今年の平和行進に合流した。その中で、福島第一原発事故で深刻な放射能被害に見舞われた福島県から、また同様に上関原発建設問題で揺れる山口県から、そして被爆地長崎県から本土代表団が選出され「反原発」「脱原発」「核兵器廃絶」を「反戦反基地」とともに高らかに訴えた。「基地」と「原発」。国策として押し付けられた「犠牲」を甘受することなく、各地が連帯し中央政府の無謀を許さず堂々と闘い前進していくことが確認された今沖縄平和行進の意義は限りなく大きい。私たちはそのことを確認し、核兵器も原発も、そして一切の軍事基地のない平和な時代を作るために一層団結を強めて闘いぬくことを確認した。そしてそのことを本大会の名において宣言する。
2012年5月13日
復帰40年、講和60年 5・15平和とくらしを守る県民大会
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オスプレイ配備を断じて許さない怒りの県民集会/海鳴りの島から
13日は県民大会のあと午後5時から普天間基地第1ゲート前広場で「オスプレイ配備を断じて許さない怒りの県民集会」も開かれた。主催は基地の県内移設に反対する県民会議/普天間爆音訴訟団/嘉手納爆音訴訟団/高江住民の会。小雨が降る中、200名ほどの参加者があった。
前日12日の県内紙は、米軍が7月にもオスプレイを沖縄に運び込んで那覇軍港で組み立て、試験飛行を行って普天間基地に配備する意向であると報じている。5・15県民大会でも、第1ゲート前広場の集会でも、オスプレイ配備を強行しようとする日米両政府への怒りと批判の発言が相次いだ。
2007年12月14日付沖縄タイムスに〈普天間飛行場 オスプレイ配備規定方針 宜野湾市が米軍情報入手 92年計画に記載〉という見出しの記事が載っている。
〈【宜野湾】米軍普天間飛行場内に海兵隊の垂直離着陸機「MV22オスプレイ」の整備格納庫や駐機場を整備する計画が一九九〇年代初頭に策定されていたことが十三日、分かった。宜野湾市が情報公開法に基づき米政府から入手した九二年六月作成の「同飛行場マスタープラン」に記載されていたもので、オスプレイの配備が同飛行場の移設計画以前から既定方針だった実態が改めて浮き彫りになった。同プランでは、「既存の施設はオスプレイ運用には適さない」とした上で、同飛行場内の北西の森林部分を「オスプレイが配備され駐留する場合に備え、その運用と整備のために確保する」と記述、将来的にオスプレイの配備計画を示した〉…以下略。
1992年6月作成の「普天間飛行場マスタープラン」にすでにオスプレイ配備が記載されていたというから、実に20年も前にオスプレイの沖縄配備が計画されていたわけだ。にもかかわらず、日本政府はこの20年の間、県民の問いにしらを切ってあざむき続け、辺野古「移設」に係る環境影響評価でも調査対象としなかった。その上で、県民の圧倒的多数が反対しているオスプレイを、7月に前倒しして配備しようとしている。
明日15日で沖縄の施政権が日本に返還されてから40年になる。明治の琉球国侵略で併合したが敗戦によって失った領土を、日本国家がナショナリズムを煽りつつ、沖縄基地の自由使用を米国に保証して取り戻し、再併合した。それが「日本復帰」の実態である。過酷な米軍支配から逃れ、平和憲法のもとにある日本に「復帰」しようとした沖縄人の願望は、ナショナリズムと国家への幻想を克服できずにまんまと踏みにじられた。
オスプレイの配備をめぐる日米両政府の対応をみれば、沖縄はしょせん再併合された領土として、米本国・日本「本土」とは違う基準で統治され、軍事的に利用される場所にすぎないことが分かる。ハワイのように環境アセスも行われなければ、岩国のように反対の声が聞き届けられることもない。「日本復帰」は沖縄差別を克服するものではなく、延長するものでしかなかった。
「復帰」30年を迎える前から日本はバブル経済がはじけ、不況と貧困層の増加が進んでいた。3・11から1年2ヶ月経って迎えた「復帰」40年の今、それはさらに深刻化している。日本は右肩上がりの時代が終わり、高齢化と人口減少、市場の縮小が進んでいく。アメとムチの手法は財政危機のもとで、これまでのように振るえなくなるはずだ。
沖縄戦や米軍統治下の沖縄の苦難を知る政治家も一線から消え、これから日本の政治は沖縄に対してさらに粗雑になり、幼稚化し、傲慢さを増していくだろう。それは沖縄と日本の間の断絶を深め広げていく。政治家・官僚・御用文化人たちがいくら「復帰」40年を祝ったところで、「差別」という言葉が示すウチナンチューの不信や苛立ち、怒りを消すことはできない。オスプレイの配備強行は、沖縄に地雷か時限爆弾を仕掛けるような愚行である。日本政府は計画中止を米国政府に求めるべきだ。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/397c29872edd061fcb2a4ee1a2e19f08
反基地の声が続く40年目の5・15
15日は午後2時から普天間基地第1ゲート前広場で開かれた「普天間閉鎖!、ストップ!オスプレイ配備緊急行動」に参加した。国道58号線沿いの広場に市民団体や政党、労組、韓国、グアムから集まった参加者が、音楽やリレートークで普天間基地の閉鎖・返還、MV22オスプレイ配備反対、辺野古新基地・高江ヘリパッド(オスプレイパッド)建設反対を訴えた。
リレートークでは40年前の沖縄の状況や現在に至る基地問題、環境問題、沖縄の自立などが語られ、韓国やグアムとの連帯が呼びかけられた。
40年前の5月15日は土砂降りの雨だった。私は小学校の6年生で、登校すると教室前の廊下で校庭に降る雨を眺めていた。朝の会が始まると、復帰記念のメダルを配られ、教師の話を聞いて学級全員で返却した。沖縄が望んだとおりの「復帰」ではなく、大人たちが多くの不満を抱いていることは、小学生ながらに感じていた。
集会が終わると同時に雨になった。兵士を乗せたトラックが第1ゲートに入っていく。今日も米軍は演習を続けている。14日未明にはPAC3を嘉手納基地から普天間基地、那覇軍港、キャンプ・コートニーに運び込む訓練を行っている。伊江島への移動は中止されたが、5・15にあわせて存在を誇示するかのような訓練だ。リレートークで伊波洋一元宜野湾市長は、これは単なる移動訓練ではなく、各基地に新たにPAC3を配備するための訓練だと指摘していた。
第1ゲートの近くには立派な亀甲墓が並んでいる。戦前からある古い墓には、沖縄戦当時、住民が隠れていた墓もあるだろう。読谷、嘉手納の海岸に上陸し、南下する米軍を日本軍が迎え撃った宜野湾は激戦の地である。金網で隔てられた基地の中にも、沖縄人の祖先が眠る墓がある。墓さえも奪われた67年。墓さえも取り戻せないままの40年…。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/35bd89be6f72e3eb6ccf30f02c5e35ad
海鳴りの島から 沖縄・ヤンバルより…目取真俊
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2012年05月15日
沖縄は「復帰」などしていない、沖縄をかえせ!/辺野古浜通信
湿度の高い日が続いています。『復帰の日』だというので、報道の方も辺野古を訪れますが「復帰」の意味がわかりません!
沖縄は「復帰」などしていません。沖縄の人間に返されていないからです。
今日、コンベンションセンター日本の首相がきています。
そう沖縄では、みな「日本の」という言葉を当たり前のように使います。「アメリカの」という言葉と同じように、「やまとの」と言うこともありますが…
沖縄がどこに「復帰」したというのでしょう
今日は、米国から日本へ沖縄の「施政権返還」があった日です。
現に、いまも沖縄に民主主義はありません。県民の9割が反対していても基地を押し続ける「日本による施政権」が沖縄を苦しめ続けています。米国国務省、米軍隊の代行者として、日本政府が、防衛局が、内閣府が沖縄県の上を抑えています。
日本が占領し、支配、使用を続けることに「復帰」という言葉をもちいるなら正しい「日本人」ではないですね。
「日本」はの0.6%の沖縄に、75%もの米軍基地を「依存」しています。
私たちは「基地のない沖縄」を返して欲しいとは願っているだけです。
だから「沖縄をかえせ」であり
だから「沖縄にかえせ」なのです。
http://henoko.ti-da.net/e3936305.html
よろしければ、下のマークをクリックして!
よろしければ、もう一回!
沖縄がアメリカから日本に「復帰」して今日で40年。私たちはどこまでその意味をわかっているのだろうか。「基地は本土に引き取って」と運動しているライターの知念ウシさんと、国家や平和の意味を問い続ける哲学者の高橋哲哉さんが、沖縄と日本との関係を語った。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201205140442.html?id1=2&id2=cabcafbf
知念 私は自分で「植民地」と言っていますが、いざ日本の人に言われると、ずしーんと悲しくなりました。沖縄の多くの人は植民地だと、差別されていると認めるのは抵抗があると思います。差別する方が問題だとはいえ、そうされることはすごく嫌なことですから。でも最近そう告発する声が沖縄では高まっています。
知念 まさに「言うほうがおかしい」という発想が、植民地を持つ側のものではないですか。私は「被害者意識が強い」「被害妄想だ」と批判されることもあります。だけど、言われてびっくりして、なぜって考えるのが対等な人間関係でしょう。相手の立場に立って考えたら、わかって、話が進む。もし沖縄と日本の間がそうだったら、今頃はとっくに解決しているはずなんですが
知念 みんな「沖縄が好きだ」って言う。でも、「そんなに沖縄が好きなら基地を持って帰って」と言ったら、黙ってしまう。あるいは怒ったり、逆にお説教したり。
知念 沖縄は平和運動、平和学習をしに来る場所として固定化されているのでしょうか。もしかしたら、基地がある沖縄が面白いのかもしれない。エキゾチックで。
知念 原発事故の後、沖縄に避難してくる人はたくさんいます。でも、本当に沖縄は安全なのかと戸惑っています。9・11テロの後、沖縄は危険だと観光客の大量キャンセルがあった。今度は安全で癒やされる避難所とされる。いつも外から位置づけられるようで、複雑な気持ちです。
知念 高橋さんも、基地を持って帰ってくださいね。
***************
ぼくは67歳で少しは丸くなり、沖縄も復帰40年で丸くなった。だが丸くなっても怒らなければならない時は怒るのだ。だから基地に対しては差別だと怒る。基地は早々にお持ち帰りいただきたい。それが沖縄の人々の40年目の本音だろう。
池澤夏樹
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5・15平和とくらしを守る県民大会宣言
沖縄は、今年、沖縄と本土を分断し沖縄を米軍の統治に売り渡したサンフランシスコ講和条約締結から60年、また1972年の施政権返還「本土復帰」から40年の大きな節目を迎える。戦後沖縄を「基地の島」とし形成した二つの日米合意の基本戦略は今日なお踏襲され、冷戦の構図が崩壊し戦後67年が経過する今なお、沖縄を「基地の島」の鉄鎖につなぎ続けている。
この長い戦後を通じて、県民は、米軍を相手にまた日米両政府を相手に「基地のない平和な島」の実現を要求し行動を続けてきた。しかしながら、日米両政府は、県民の切実な要求に耳を傾けるどころか、辺野古や高江に見られる米軍の新基地建設、また民主党政権になってから突如として浮上してきた与那国島での自衛隊基地の建設問題など県民要求に逆行する動きを強めている。その上、宮古島や石垣島、与那国島など先島諸島における民間空港や港湾の軍事利用がなし崩し的に強化拡大され、さる4月のPAC3配備の一大騒動の際には、大規模に民有地を囲い込んだ上、歩哨の自衛隊員に拳銃の携行をもさせた。さらに、ただでさえ危険極まりないと言われる普天間基地に、県民がこぞって反対するウルトラ欠陥機MVオスプレイの配備を強行すると米側は公言し、そのため普天間基地の継続使用すなわち「普天間基地の固定化」が喧伝される傍ら、その一方で、同基地の嘉手納基地統合の動きも強まっている。
このように米軍基地と自衛隊基地強化の動きが急を告げる中、私たちは、今回2012年平和行進を与那国島でスタートさせた。国境の島を軍事の島に造り替えようとする政府に厳しく抗議するとともに、決して基地建設は許さないという決意を示すために多くの労組員が島に渡った。また、PAC3配備で揺れた宮古島で「戦争反対」の力強い行進が展開され、石垣島でも同様に行進が展開される予定になっている。
沖縄本島では、東西・南の3コースで、高江、辺野古の新基地建設反対、オスプレイ配備阻止、普天間固定化・嘉手納統合反対など新基地建設と基地の機能強化に反対するシュプレヒコールととともに、沖縄戦の風化と教科書改ざんを迫る動きに反対する抗議の声がこだました。
昨年は、突如として発生した3・11東日本大震災の復興支援を最優先する立場から、長年継続されてきた平和行進の全国募集が見送られたが、今年はあらためて全国から1500名に上る大行進団が編成され力強く今年の平和行進に合流した。その中で、福島第一原発事故で深刻な放射能被害に見舞われた福島県から、また同様に上関原発建設問題で揺れる山口県から、そして被爆地長崎県から本土代表団が選出され「反原発」「脱原発」「核兵器廃絶」を「反戦反基地」とともに高らかに訴えた。「基地」と「原発」。国策として押し付けられた「犠牲」を甘受することなく、各地が連帯し中央政府の無謀を許さず堂々と闘い前進していくことが確認された今沖縄平和行進の意義は限りなく大きい。私たちはそのことを確認し、核兵器も原発も、そして一切の軍事基地のない平和な時代を作るために一層団結を強めて闘いぬくことを確認した。そしてそのことを本大会の名において宣言する。
2012年5月13日
復帰40年、講和60年 5・15平和とくらしを守る県民大会
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オスプレイ配備を断じて許さない怒りの県民集会/海鳴りの島から
13日は県民大会のあと午後5時から普天間基地第1ゲート前広場で「オスプレイ配備を断じて許さない怒りの県民集会」も開かれた。主催は基地の県内移設に反対する県民会議/普天間爆音訴訟団/嘉手納爆音訴訟団/高江住民の会。小雨が降る中、200名ほどの参加者があった。
前日12日の県内紙は、米軍が7月にもオスプレイを沖縄に運び込んで那覇軍港で組み立て、試験飛行を行って普天間基地に配備する意向であると報じている。5・15県民大会でも、第1ゲート前広場の集会でも、オスプレイ配備を強行しようとする日米両政府への怒りと批判の発言が相次いだ。
2007年12月14日付沖縄タイムスに〈普天間飛行場 オスプレイ配備規定方針 宜野湾市が米軍情報入手 92年計画に記載〉という見出しの記事が載っている。
〈【宜野湾】米軍普天間飛行場内に海兵隊の垂直離着陸機「MV22オスプレイ」の整備格納庫や駐機場を整備する計画が一九九〇年代初頭に策定されていたことが十三日、分かった。宜野湾市が情報公開法に基づき米政府から入手した九二年六月作成の「同飛行場マスタープラン」に記載されていたもので、オスプレイの配備が同飛行場の移設計画以前から既定方針だった実態が改めて浮き彫りになった。同プランでは、「既存の施設はオスプレイ運用には適さない」とした上で、同飛行場内の北西の森林部分を「オスプレイが配備され駐留する場合に備え、その運用と整備のために確保する」と記述、将来的にオスプレイの配備計画を示した〉…以下略。
1992年6月作成の「普天間飛行場マスタープラン」にすでにオスプレイ配備が記載されていたというから、実に20年も前にオスプレイの沖縄配備が計画されていたわけだ。にもかかわらず、日本政府はこの20年の間、県民の問いにしらを切ってあざむき続け、辺野古「移設」に係る環境影響評価でも調査対象としなかった。その上で、県民の圧倒的多数が反対しているオスプレイを、7月に前倒しして配備しようとしている。
明日15日で沖縄の施政権が日本に返還されてから40年になる。明治の琉球国侵略で併合したが敗戦によって失った領土を、日本国家がナショナリズムを煽りつつ、沖縄基地の自由使用を米国に保証して取り戻し、再併合した。それが「日本復帰」の実態である。過酷な米軍支配から逃れ、平和憲法のもとにある日本に「復帰」しようとした沖縄人の願望は、ナショナリズムと国家への幻想を克服できずにまんまと踏みにじられた。
オスプレイの配備をめぐる日米両政府の対応をみれば、沖縄はしょせん再併合された領土として、米本国・日本「本土」とは違う基準で統治され、軍事的に利用される場所にすぎないことが分かる。ハワイのように環境アセスも行われなければ、岩国のように反対の声が聞き届けられることもない。「日本復帰」は沖縄差別を克服するものではなく、延長するものでしかなかった。
「復帰」30年を迎える前から日本はバブル経済がはじけ、不況と貧困層の増加が進んでいた。3・11から1年2ヶ月経って迎えた「復帰」40年の今、それはさらに深刻化している。日本は右肩上がりの時代が終わり、高齢化と人口減少、市場の縮小が進んでいく。アメとムチの手法は財政危機のもとで、これまでのように振るえなくなるはずだ。
沖縄戦や米軍統治下の沖縄の苦難を知る政治家も一線から消え、これから日本の政治は沖縄に対してさらに粗雑になり、幼稚化し、傲慢さを増していくだろう。それは沖縄と日本の間の断絶を深め広げていく。政治家・官僚・御用文化人たちがいくら「復帰」40年を祝ったところで、「差別」という言葉が示すウチナンチューの不信や苛立ち、怒りを消すことはできない。オスプレイの配備強行は、沖縄に地雷か時限爆弾を仕掛けるような愚行である。日本政府は計画中止を米国政府に求めるべきだ。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/397c29872edd061fcb2a4ee1a2e19f08
反基地の声が続く40年目の5・15
15日は午後2時から普天間基地第1ゲート前広場で開かれた「普天間閉鎖!、ストップ!オスプレイ配備緊急行動」に参加した。国道58号線沿いの広場に市民団体や政党、労組、韓国、グアムから集まった参加者が、音楽やリレートークで普天間基地の閉鎖・返還、MV22オスプレイ配備反対、辺野古新基地・高江ヘリパッド(オスプレイパッド)建設反対を訴えた。
リレートークでは40年前の沖縄の状況や現在に至る基地問題、環境問題、沖縄の自立などが語られ、韓国やグアムとの連帯が呼びかけられた。
40年前の5月15日は土砂降りの雨だった。私は小学校の6年生で、登校すると教室前の廊下で校庭に降る雨を眺めていた。朝の会が始まると、復帰記念のメダルを配られ、教師の話を聞いて学級全員で返却した。沖縄が望んだとおりの「復帰」ではなく、大人たちが多くの不満を抱いていることは、小学生ながらに感じていた。
集会が終わると同時に雨になった。兵士を乗せたトラックが第1ゲートに入っていく。今日も米軍は演習を続けている。14日未明にはPAC3を嘉手納基地から普天間基地、那覇軍港、キャンプ・コートニーに運び込む訓練を行っている。伊江島への移動は中止されたが、5・15にあわせて存在を誇示するかのような訓練だ。リレートークで伊波洋一元宜野湾市長は、これは単なる移動訓練ではなく、各基地に新たにPAC3を配備するための訓練だと指摘していた。
第1ゲートの近くには立派な亀甲墓が並んでいる。戦前からある古い墓には、沖縄戦当時、住民が隠れていた墓もあるだろう。読谷、嘉手納の海岸に上陸し、南下する米軍を日本軍が迎え撃った宜野湾は激戦の地である。金網で隔てられた基地の中にも、沖縄人の祖先が眠る墓がある。墓さえも奪われた67年。墓さえも取り戻せないままの40年…。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/35bd89be6f72e3eb6ccf30f02c5e35ad
海鳴りの島から 沖縄・ヤンバルより…目取真俊
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2012年05月15日
沖縄は「復帰」などしていない、沖縄をかえせ!/辺野古浜通信
湿度の高い日が続いています。『復帰の日』だというので、報道の方も辺野古を訪れますが「復帰」の意味がわかりません!
沖縄は「復帰」などしていません。沖縄の人間に返されていないからです。
今日、コンベンションセンター日本の首相がきています。
そう沖縄では、みな「日本の」という言葉を当たり前のように使います。「アメリカの」という言葉と同じように、「やまとの」と言うこともありますが…
沖縄がどこに「復帰」したというのでしょう
今日は、米国から日本へ沖縄の「施政権返還」があった日です。
現に、いまも沖縄に民主主義はありません。県民の9割が反対していても基地を押し続ける「日本による施政権」が沖縄を苦しめ続けています。米国国務省、米軍隊の代行者として、日本政府が、防衛局が、内閣府が沖縄県の上を抑えています。
日本が占領し、支配、使用を続けることに「復帰」という言葉をもちいるなら正しい「日本人」ではないですね。
「日本」はの0.6%の沖縄に、75%もの米軍基地を「依存」しています。
私たちは「基地のない沖縄」を返して欲しいとは願っているだけです。
だから「沖縄をかえせ」であり
だから「沖縄にかえせ」なのです。
http://henoko.ti-da.net/e3936305.html
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この時私は悔しいことにそれに反論する力を持ちませんでした。シナがつまり中国が攻めてくるなんてどうして言えると言い返すが精いっぱいでした。
そうしたら根拠をたくさん並べて尖閣諸島の為に工作船が海上保安庁を邪魔したとか中国のミサイルはいつも日本を向いているとか証拠写真付で見せられそのほかにもいろいろチベットの例とか挙げて中国の領土的野心を主張し防衛の重要性を説いていました。非常に反論する言葉がなく知識がなく悔しかったです。今後私はどんな本を読んでどういう心構えで理論武装したらいいのでしょうか。
「心構え」は お読みになれば身に着くでしょう。
それと観光ではない(観光のついででもいいので)沖縄体験をお勧めします。
朝日新聞当該記事も ぜひ図書館などで読んでみてください。
沖縄問題は安保問題です、反安保闘争の再構築を
野田が何言っても駄目
宮地達夫
精神科医
それで満足したかに見える。
無哲学・能天気である。天下泰平である。
あるべき姿が提示できない。普遍的なルール作りができない。
大人の勉強がない。あるのは、他者からの習いもの (カルチャースクール) ばかりである。
未来は常に不透明であり、過去は迅速に風化してゆく。
未来時制と過去時制がないので、未来と過去の世界をつじつまの合った内容として脳裏にとどめ置くことが難しい。
せっかくの体験も温故知新の学問にはなりがたい。
その時々の言の葉は、時制のないと歌詠みになる。
夢・幻の人の世は、過去と未来を利用できない日本人の世界である。
過去と未来の内容は構文がないので、つじつまの合う考えにはならない。
雑念は取り留めもなく、想定外としなければならない。
雑念を打ち払って、眼前の事柄に神経を集中する。
刹那は永遠のごとく見えている。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
その背後に日本・韓国などの経済利権をねらっている米国のアジア戦略があることを忘れるべきではないでしょう。これがいわゆるTPPを急ぐ米国の意図です、米国はこの際邪魔だから脇に回ってもらい、外交で、南シナ海の利権を巡る
アジア共同の合意を目指すべきでしょう。既に外務省が中国とこの問題を解決すべく動いています
薔薇さんの勧めに従って、新崎盛暉氏の本を読んで見て下さい.私は沖縄で2年働いた事がありますが、おじい・あばあの戦争体験を聞き取りにいったり 沖縄の女性が,日本軍のいい加減な'恫喝」(捕虜になればレイプされるか殺される)を信じて海に飛び込んだ岸壁や、沖縄の住民が避難したガマも見てきました。現在南京大虐殺を巡って論争が起こっていますが、日本軍はハーグ条約を知らなかった為に、「捕虜への人道的取り扱い」を守らず中国各地で捕虜を殺害したために
1万人が戦後処刑されています(2級戦争犯罪)
こうした歴史の断片を考えてみても我々の祖先は恥ずべき行為を行ってきたし、反省すべきでしょう、