重信房子: 60代、革命女戦士の放棄出来ない希望/月刊ハンギョレ21(韓国)

2009-08-19 19:47:19 | ジャーナリズム
60代、革命女戦士の放棄出来ない希望
東京拘置所で会った日本赤軍指導者、重信房子“国境を越えた市民連帯で新しい世の中を開かなければ”(ハンギョレ紙・東京特派員・キム・ドヒョン記者)
【韓国民衆言論 月刊・ハンギョレ21 2009・08・14―第773号】
http://h21.hani.co.kr/arti/world/world_general/25553.html

東京拘置所へ行く道は、以外に近かった。去る7月14日朝早く、家に近い駅から出発し、一度乗り換え、30分余りぐらいで東京拘置所面会所に到着した。面会対象者申請用紙に‘重信房子’と言う囚人の名前を書いた後、‘関係’欄に事実のまま、‘記者’と書こうとしてから‘知人’と書いた。事前に面会予約をしてくれた重信の後援組織関係者が、記者の身分を明らかにすれば、面会が駄目になるかも知れないので、知人と書く事が良いだろうと勧め、それに従った。

一坪ぐらいの二階の面会室に入っていくと直ぐ、重信房子が女刑務官と一緒に入ってきた。今年2月、癌手術を受けた64歳の初老の、革命戦士とは信じられないほどに色白の顔だった。全身の風格は、風貌は少なくとも‘テロの女王’と言う別名とは似つかわしくなかった。彼女は、記者を見るとすぐ、面会申請者と収監者の間に設置された、間仕切り遊離壁に手のひらを押し付けた。予想できない行動に記者も手のひらを付き合わせた。‘全共闘(全学共闘会議・1960年代末~70年代初めの、日本学生運動勢力)のマドンナ’と言うまた異なる別名が思い出された。‘その別称の正体は間違いなく、最初に会う人も自分の側に引き込む親和力ではないか’と言う気がした。

テロ嫌疑で20年の刑を宣告され

面会許容時間はたった10分。 1970年代、パレスチナ解放運動のため、ヨーロッパなどの地で各種テロを恣行した嫌疑で、2000年日本の大阪で逮捕され20年の刑を宣告され、最終判決を待っている‘日本赤軍’最高責任者に、準備した質問を投げなければならなかった。

単刀直入的に、武装闘争路線に対する反省から問うた。

去る6月<産経新聞>に載せられた、自身の過激な運動方式を後悔する様なそのインタビュウー内容を、直接確認したかった為だ。彼女の口から直接に、武装闘争路線は適切では無かったと言う答えが返ってきた。パレスチナ人民達と生活しながら、自分達の武装闘争路線がどれだけ観念的であったか悟って、更に1970年代末、南米の解放神学者達と接触しながら、民衆の人生の中に根を下した変革運動の必要性を痛感しながら、すでにその時、路線を変更したと言う話を聞いて見るが、10分の面会時間が直ぐ過ぎて行った。

重信は、面会室を出て行く前、また再び記者に、ガラス窓の間仕切りに手のひらを押し付けた。拘置所の面会所を出ながら、すぐ前の店で彼女が好きだと言う薔薇の一束とオレンジ、6個の卵を買い、差し入れしてくれる事を頼んだ。そして、家へ帰る道で、全て問う事ができないインタビュウーの質問が盛られた手紙を送った。

記者が、重信房子に関心を持つ事となったのは、昨年3月、日本の反体制映画監督である若松孝二(72)の<実録連合赤軍への道程>と言うドキュメンタリー映画を見ながらだった。1972年2月、山岳軍事訓練の過程を前後して、同僚14名を共産主義化の名目でリンチ・殺害し、日本学生運動を決定的な壊滅状態に陥れた‘連合赤軍事件’がどうして発生したのかを、学生運動内部の視覚から客観的に描いた作品だ。この映画に、重信が重要な人物の1人として登場する。貧しい家庭で生まれ、商業高校を卒業した後、醤油会社に勤めながらも向学の夢を投げず、1965年明治大学夜間学部の史学科に進学した彼女は、教師を夢見て、詩が好きな平凡な文学少女だった。偶然に、授業料値上げ反対デモに参加する事となった彼女は、日本共産党さえ体制内勢力だとし排斥する、急進新左翼の運動圏に合流しながら、急速度で革命戦士に変身する事となる。全共闘運動の過激化過程には当局の責任もあると言うのが彼女の主張だ。

“我々は過激派と呼ばれたが、それは権力との攻防の結果でもあった。当時、更に暴力的なものは公安警察だった。思うがまま‘別件逮捕’、したり、派出所内で夜中に暴力を振るう事もした。今考えて見れば、最も過激な集団は、赤軍派より権力の尖兵である公安当局だった。”

彼女が社会変革運動に目覚めたのは、父親の影響もあると見える。娘とは正反対に、若い時右翼テロ活動に参加した父だが、“美しい山河の日本は、悪徳な拝金主義の政治家と官僚達によって、ますます悪化された。”と言う若いときの話を、幼い娘に聞かせたと言う。アラブに行こうとする娘に、あらかじめ祖国を知らなければならないと忠告する事もしたが、殺到する非難の電話には“娘を信じている”とし、最後まで娘をかばった。

レバノンを渡って、パレスチナ解放運動へ

赤軍派組織に参加した重信は、1971年2月赤軍派の闘争路線である‘国際根拠地論’に立脚し、パレスチナ問題の解決こそ、世界同時革命の要諦だと言う考えで、レバノンに渡っていった。その後重信等は、パレスチナ解放機構の左派団体である、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の指揮の下、イスラエル・テルアビブ(空港)銃器乱射事件をはじめとし、大使館占拠と航空機拉致事件など各種‘武装闘争’を強行した1974年12月、赤軍派とは別途組織である‘日本赤軍’を結成した。

短い獄中インタビューでは、十分に問う事ができない質問に対する答弁が、面会の10日後くらい、10枚の分厚い手紙に込められて到着した。折りよく出版した彼女の著書<日本赤軍 私事(個人事)―パレスチナと共に>で、隙間の解消に手助けとなった。

重信は手紙で、自身の運動路線がこれからの願いかと言う質問に、“そうではない”とし、その理由を詳しく叙述した。

“社会運動、学園闘争、地域闘争、労組運動、反戦闘争など、多様な次元の闘争があったが、我々は革命と武装闘争で解決の道を探した。状況を考慮して戦術・戦略を立てたのではなく、状況に追われ、そんな中で勝利の為の闘争の方途として、どの様にすれば権力を打倒するかと言う(大衆性や社会性を欠如する)権力との攻防に目を奪われてしまったと考える。”

彼女が例示に‘連合赤軍事件’と言う残酷な事態を“武装闘争に対する幻想を持って突進したことから生じた”ものとし、事件当時、アラブに居た彼女は、ラジオで連合赤軍の同僚殺害事件を聞いて、落ち込み痛哭した。同じ赤軍派に所属し運動を一緒にした親しい女友達も、殺害された。彼女は、事件直後発表した声明で、“こんな革命は必要ない。同僚を殺害する権利は誰も持つ事は出来ない。同志たちはあなた達の革命の私物化を決して容赦することは出来ない。”と批判した。

彼女は、パレスチナ人と一緒に生活しながら、“武装闘争と言う方法を、自己目的化して来た我が闘争の存在方式を振り返って見る事となった。”と言った。

“パレスチナとアラブは、幻想の‘武装闘争’ではなく、歴史・社会・政治的な根拠を持って、人民運動として、武装闘争によって祖国を解放しようとする闘いの場所だった。その地域、その国の歴史と条件に照らして闘争の方途あり、パレスチナにはパレスチナの闘争があるのであって、我々は、自身を矮小化した闘争しか、して来る事が出来なかったと反省した。武装闘争に向う以前に、もう少し多様な方法と戦術で社会変革の要求を実現する闘争をしてくる事が出来なかったし、安易に武装闘争と言う方法にだけ頼ったと思う。”

彼女は、路線だけではなく、赤軍派を含んで、当時日本の学生運動圏の組織運営の方式と体質に対しても、辛らつな自己反省をした。

“自分達の‘正しさ’と‘唯一の党’と言う、コミンテルン第三インターナショナル以後の体質をずっと持っていた。そのため、自分達の正しさを証明する事に価値を付与したまま‘内ゲバ’(党派間の暴力的争い)と言う、有ってはならない悲劇的な独善に逸脱した。こんな間違ったリーダーシップが、運動の主導権をとる事となって、運動に否定的な運営をもたらした。”

彼女は、何年か前獄中面会に来た前赤軍派議長であると同時に、党派闘争の果てに反対勢力を夜間襲撃し暴力的解決方式主導した塩見孝也(68)にも、過去運動方式に対する強力な反省を要求したと、日本赤軍の昔のメンバーであると同時に、後援組織の一員である山本真理子(69)は(記者に)耳打ちした。

連合赤軍と言う悲劇の後にも、全共闘運動の前面に立った‘中核派’と‘革マル派’(革命マルクス主義派)は、同じ根であっても、1970年代の絶える事なき内ゲバで、100名の死傷者を出し、学生運動に対する幻滅感を重爆させた。“大義の為には何をしても良い”と言う思考が、当時運動圏に蔓延したと彼女は語った。

彼女は、組織運営で改善しなければならなかった点が何かと言う質問に、“人々の自治・自決・自立と連帯で真正な意味で民主主義を争取する多様な活動と闘争を軸に、再構築しなければならない”とし、大使館占拠と飛行機拉致など日本赤軍の盲目的な武装闘争に反省をさらけ出す事もした。

“野心とヒューマニズムに頼って、躊躇することとなる闘争は、結局自分達を不健全にした。我々も1970年代、人質作戦などをした。他人の旅券を不正に使用する事もした。革命のプロセスが健全であれば、展望は同じく健全になる。”

そう言っても、彼女は、“過去と同じ方式の革命ではないが、更に一層(革命が)必要な世界となって行っていると、考える。”とし、依然として革命を夢見ると語った。特に昨年末から、荒らしく迫った世界同時不況とともに、新自由主義式グローバル経済体制の問題点が暴かれて、彼女の闘争意欲は、いつの間にか、学生時代に戻って行ったようだった。

“現在、世界が根本的に転換を図る時代に突入していることを、後代歴史家達は記述するだろう。しかし、国際機構を初めとして、現在、各国の政治・経済の指導力では変革は不可能であろう。さらに破綻した対処療法を繰り返したまま、犠牲を国民に押し付けている。資本主義のパラダイムの変化が要求されていると考える。しかし、この為過去ソ連と東欧、中国のように、国家官僚と権力を強化する方法ではなく、法による平等化の方向に社会制度の変化を要求する新しい理論や、政策が生まれるだろう。”

“自覚した市民・・・”ノムヒョンの言葉引用

彼女は、以外にも、新しいパラダイムの可能性を、ノムヒョン前大統領の言葉の中から探し出した。

“あなたの国の前大統領は、‘民主主義の最後の保塁は、自覚した市民の組織化された力’だと言う言葉を好んで使用した。

自国の権力に対するこの提起と変革を、横の連帯で行い、国境を越えた市民の力が、新しいパラダイムをこじ開ける力となるだろうと考える。”

そうであれば、ある時世界同時革命を夢見た昔の革命戦士に、新しいパラダイムの具体的内容は何なのか?“変革の時代に、何よりも‘自明’なものとして考え、深く考えなかった日本憲法9条(海外で武力の不使用)を、徹底して実現する事で、日本から変革の端緒を探すのだ。アジア侵略に対して反省し、核のない世界への念願を主導する日本に変革して行くまで、民主主義の力、自覚された市民の一人の市民となりたい。”

過去の既存体制を、暴力を使っても、打倒したり変化させようとした彼女の革命目標は、40年の年月をへて素朴であるが貴重な平和運動に変わって行った。

同じようで異なる赤軍派・連合赤軍・日本赤軍

1970年代世界革命の目標に、武装闘争

日本公安当局は、1960~70年代の日本とヨーロッパ、中東地域を揺るがせてしまったこの三つの組織を、‘過激派’と言う一束で規定している。しかしこれ等の組織は、互いに同じようで異なる組織だ。1969年9月結成された赤軍派を根として連合赤軍と日本赤軍が後で結成された。赤軍派指導部の主要構成員たちは、同じ年の秋、総理官邸襲撃を準備する為に、山岳地域で軍事訓練を受けた中で、大部分が検挙された。次の年、3月31日、世界革命根拠地論を実行するとし、日本のよど号旅客機を拉致し、北韓に亡命した拉致犯達が即ち赤軍派の元祖メンバーだった。

森恒夫など赤軍派残存勢力が、学生運動圏である全学共闘会議(全共闘)の毛沢東主義者達と手を取り、作った組織が連合赤軍だ。1972年2月、軍事訓練を前後し、同僚を多数殺害する事件を犯し、以後学生運動を破綻状態に追い込んだのも彼らだ。

日本赤軍メンバーたちは、1974年12月、組織が公式に結成される以前から‘アラブ赤軍’と言う名前で、パレスチナ解放運動の武装闘争組織であるパレスチナ解放人民戦線(PFPL)の指揮を受け、各種武装闘争に参加した。1972年、日本人同僚2名と共にイスラエル・テルアビブ空港で銃器を乱射し、100名の死傷者を出した後、銃撃戦の過程で死んだ奥平剛(重信の夫として、偽装結婚説もあり)は、テロリしてストの代名詞で呼ばれるが、中東では、英雄の待遇を受ける。日本赤軍は、重信の逮捕と赤軍派メンバー5名の強制送還などを契機に、2,001年4月武力路線放棄を宣言し、解散した。

○重信房子が獄中で作成し、送ってきた書面インタビューを、要約し載せる。
○日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFPL)の関係と、日本赤軍の解散過程を説明せよ

=1971年以後、ずっと良い関係だった。我々はPFPLの指揮下で、支援奉仕者として出発した。1972年テルアビブ空港闘争以後、更にその関係が深まった。 1973年共同闘争の矛盾を克服する過程で、PFPLから自立した組織として、1974年日本赤軍が生まれた。しかし以後にも、兄弟・家族と同じ関係だった。パレスチナと、日本人民の連帯の始まりを作ったと言う事が出来る。2000年私が逮捕された後、多くの人々に迷惑を掛けたと言う自己批判と、監獄外の同僚達の決断で、解散を公表した。今後、先立って1991年、日本赤軍は既に改編され、日本国内の変革を指向する人民革命党として活動して来た。

○どうしてPFPLだったのか。

=予め我々が、マルクスレーニン主義の立場に立っており、パレスチナ解放運動内でも、PFPLが其の位置にいた点を挙げる事が出来る。また一つは、急進的武装闘争の戦術に対する共感だ。当時PFPLの果敢な闘争は、日本の新聞にも多く報道された。

○新自由主義世界経済の構造は、破綻していると見るのか。

=不幸な破綻状態にある。どうしてかと言えば、新自由主義政策を推進して来た人々が、世界銀行と国際通貨基金を中心として、一つの国際機構を意のままにするので、彼等は破綻したパラダイムの枠内でだけ解決策を探そうとして、結局、臨時の方便を繰りかえさざるを得ないからだ。

○そうであれば、世界は今後、どう変わると見るか。

=情報技術の革命で、進行された情報の平準化と過剰状態で、‘市場の自由な調節に委ねる事が出来る’と言う新自由主義の定義は、これ以上成立する事が出来なくなった。どんな国も国家権力を強化せざるを得ない現実に直面している。ややもすると、昔にケインズ主義を悪用したように戦争の拡大が、‘有効需要の創出’の手段となるのだ。かって、アフガニスタンと韓半島でそうであった様に。

○拘置所生活はどうか。

=日本の監獄法は、明治時代以後ずっと持続されてきたが、2000年に変えられた。しかし、むしろ収監者の既得権は剥奪された。新しい法は収監者を支配し易いように管理が強化された。昔は国家と被告人の人権が対等な位置に置かれていた。それが、どこへか消えてしまい、‘被告人よりは被害者を守れ’と言う変化が、拘置所にも悪影響を促進している。例を挙げれば、法の改定前には、一日一般人に4通の手紙を書く事ができたが、今は1通に減らされてしまった。面会時間は、20分から10分に減った。昨年12月、大腸がんが発見され、今年2月手術をした。現在、手術のあと健康な状態だ。東京拘置所の医者と看護師たちが誠実に良くしてくれるので、安心している。

○愛するものは何か

=人とコミユニケイションをすること。書いたり、語ったり、想像することを愛する。愛する人は過去に共に戦ってきた人達、今も共に居る友達や家族、パレスチナの人々、即ち戦う人だ。

○‘全共闘のマドンナ’‘テロの女王’と言う別名に対し、どう考える  

 か

=どうとも思わない。私自身はこの様に考えた事が無い。普通の人のように生きて来たと思う。先生になりたいと、会社生活をしながら夜間大学に進学した。そこで正義の闘争に目覚めた。私は何処でもいろんな人の中で、1人の人間に過ぎないと考える。誰でも、私のようになる事ができる時代に、私が偶然に重なったのだと思う。ただ、他の人より激情的で、好奇心が少し多いかもしれない。

(訳 柴野貞夫 2009年8月17日)

<重信房子さんを支える会>のサイト(以下)を、参考にしてください。
http://www.geocities.co.jp/setfreemarian/index.html

柴野貞夫時事問題研究会

*写真など上記転載元サイトで。

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