A級合祀、靖国神社、厚生省と綿密協議 /産経新聞の論調

2007-03-29 23:26:48 | 社会
国立国会図書館は28日、靖国神社が提供した内部資料や、これまで非公開だった中曽根内閣当時の「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」(靖国懇)の議事録など、靖国神社に関する資料集を公表した。靖国神社が昭和44年、「A級戦犯」を「合祀(ごうし)可」とする見解を示す文書を厚生省に提示するなど、戦後、両者が一体となり合祀を進めてきた過程が明らかになった。

 旧陸、海軍両省の業務を引き継いだ厚生省援護局と靖国神社は、「合祀基準に関する打合会」などを頻繁に開き協議。この過程で厚生省は41年2月8日、A級戦犯を含む合祀の名簿である「戦争裁判関係死没者に関する祭神名票」を靖国神社に送付した。

 これを受け44年1月31日、靖国神社社務所で開かれた会合で神社側は、厚生省との「再確認事項」として「法務死没者」の「A級(12名)」と「内地未決死没者(10名)」を「合祀可」とすることを提示した。ただ「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」とし、世論の動向を気遣っていたことをうかがわせた

 その後、靖国神社は45年、総代会でA級戦犯の合祀を決定する。実際に合祀したのは53年10月で、その9年前に一定の結論に達していたことになる。合祀されたA級戦犯が14人となったのは、東京裁判の未決勾留中に死亡した松岡洋右元外相と海軍の永野修身元軍令部総長が「内地未決死没者」に含まれているためとみられる。

 BC級戦犯の合祀についても慎重に検討が進められたことも分かった。33年4月9日の打合会(第4回)で厚生省は「個別審議して、差し支えない程度で、しかも目立たないよう合祀に入れてはいかが」と提案。同年9月12日の打合会(第7回)でも「全部同時に合祀することは種々困難もあることであるから、まず外地刑死者を目立たない範囲で了承してほしい」と、BC級戦犯の合祀を先に決定するよう打診した。

 36年8月15日、靖国神社は「終戦後における合祀審議の状況」の中で、A級戦犯は「保留」とし、BC級戦犯のうち外地処刑者は「合祀」、内地処刑者は「合祀予定」とした。

 資料集は「新編靖国神社問題資料集」で、A4判1200ページ。資料集は非売品で、5月の連休をめどに国会図書館のホームページ(HP)に公開される予定。


合祀判断 慎重さ裏付け

 国立国会図書館が公表した「新編靖国神社問題資料集」は、戦後国(厚生省)と靖国神社が一体となって「A級戦犯」を含む戦没者、戦犯刑死者の合祀に努力してきたことを裏付けるものだ。

 靖国神社が全面的ともいえる協力で提供した内部資料は、合祀基準の形成の過程、とりわけこれまで判明していなかった戦前の合祀基準も含まれており、日本の戦没者追悼の歴史を検証する上で一級の資料といえる。

 敗戦に伴い陸、海軍両省は廃止され、靖国神社は宗教法人化された。陸海軍両省の業務を継承した厚生省援護局が、靖国神社と協力して戦没者の合祀作業を進めたのは、戦没者を認定する能力が厚生省にしかない以上、当然のことだ。厚生省が戦没者の「祭神名票」を靖国神社へ送付してはじめて、合祀が行われていた。これを知りながら「政教分離に反する」と批判する向きがあるが、戦没者合祀をやめよと言うに等しい。
 厚生省と靖国神社が戦後、綿密な協議を重ね合祀を進めた事実は、戦没者や連合国の戦争裁判によって処刑された人々への慰霊をまっとうする責任を、当時の政府が果たしていたことを意味する。

 靖国神社が「新聞報道関係の取り扱いいかんで、その国民的反響ははなはだ重要な問題として考えなければならない」(昭和33年9月12日)としたように、協議は時間をかけ慎重に進められたことがうかがわれる。ただ、今回の資料集では、なぜ53年の時点でA級戦犯の合祀に踏み切ったかその理由までは示されていない。(榊原智)

(2007/03/29
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070329/wdi070329000.htm

A級戦犯合祀で激論 中曽根内閣靖国懇
国会図書館が28日に公表した「新編靖国神社問題資料集」には、今まで関係資料が非公開とされてきた中曽根内閣の「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)の議事録が収められている。靖国懇は昭和60年8月、首相や閣僚に靖国公式参拝を促す報告書をまとめ、中曽根康弘首相の公式参拝の道を開いた。今回、初めて明らかになった議事録からは、メンバーが、53年に靖国に合祀(ごうし)されたいわゆる「A級戦犯」をめぐり激論を交わしていたことが分かる。


「犠牲者ではない」「事後法で裁かれた」

 靖国懇は59年8月、当時の藤波孝生官房長官の私的懇談会として設置され、江藤淳・東工大教授、梅原猛・京都市立芸大学長、作家の曽野綾子氏ら憲法、哲学、宗教など各界の識者15人で構成した。

 A級戦犯をめぐっては、59年11月19日の第4回会合で「人間はすべて罪人であるとするキリスト教の立場からは、戦没者の中でA級戦犯だけを区別するのはおかしい」という意見が出た。一方「大平(正芳)総理がそこへ参拝したことは、やはりそれを国が権威付ける、正当化するという意味合いを否定できない」という反論もあった。

 60年2月12日の第8回会合でも「戦犯については、東京裁判で決まり、(サンフランシスコ)平和条約第11条で守ることになっていると言われるが、事後法で裁かれたものであるのでおかしい」と、A級戦犯合祀は問題ないという主張が出ている。

 60年3月6日の第9回会合では、メンバーの一人が「A級戦犯は、まさにそういう戦争に日本国民を導いていった人々であり、戦争の犠牲者であるという要素はほとんどない」と指摘。これに対し、別のメンバーは「裁判の合法性にも疑問がある。とりまとめてA級戦犯というのは不正確であり、抵抗がある」と反論している。

 議論はこのほか(1)「靖国神社が宗教法人であることをやめたらどうか」との靖国の非宗教法人化論(2)「(参拝が公的か私的かという)資格の問題はまさにマスコミが作り出した問題」という意見(3)「(米国は)日本人に戦争はすべて日本人のせいだとの罪悪感を植えつけるため、マスコミを通じて操作を行った」という連合国軍総司令部(GHQ)による宣伝工作への言及-など多岐にわたっている。

 靖国懇の議事録は、懇談会メンバーだった故佐藤功上智大教授の遺族が資料提供した。

 ■A級戦犯 第二次大戦後の昭和21年、連合国は極東国際軍事裁判(東京裁判)を開き「平和に対する罪」などで重大戦争犯罪人(A級戦犯)として28人を起訴した。23年11月に途中死亡者ら3人を除く被告全員が有罪判決を受けた。東条英機元首相ら7人が絞首刑、木戸幸一元内大臣ら16人が終身禁固刑、重光葵元外相ら2人が有期の禁固刑で、東条元首相らは同年12月、巣鴨プリズンで処刑された。

 ■靖国神社 明治維新後の明治2年に設立された東京招魂社が前身で、10年後に靖国神社と改称、軍が所管した。日本軍の戦死者らを「英霊」として祭る。戦前は天皇が参拝し、国家神道の精神的支柱だった。戦後の政教分離で宗教法人となった。合祀(ごうし)者約250万人の大半は第二次世界大戦で死亡した軍人と軍属。東条英機元首相ら東京裁判のA級戦犯14人が53年に合祀された。
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070329/wdi070329001.htm

A級戦犯合祀 終戦時多くの選択肢 全戦災死亡者合祀も検討

国会図書館の「新編靖国神社問題資料」で、これまで詳細が分からなかった戦前、戦中の靖国神社への戦没者合祀(ごうし)の資格基準が明らかになった。終戦直後に陸軍省は戦没者に加え、一般国民の全戦災死亡者を合祀するよう提案したが、政府内で合意を得られなかったことも分かった。

 今回見つかった靖国神社所蔵の資料には、昭和10年代から20年に至る時期の合祀基準に関する書類が含まれている。

 19年7月18日付の陸軍省の「合祀資格審査案」は、軍人について(1)戦死、戦傷死はことごとく合祀(2)病死は内地港湾を出発後、2カ月以上勤務した者は自己の重大な過失でない限り全部合祀(3)自殺は自己の重大な過失や「破廉恥」でない者はなるべく合祀-と規定。軍属は「軍人に比しさらに厳選主義とし、死没当時の任務および状況により詮議する」とした。

 戦前の合祀基準をめぐっては、51年に国会図書館がまとめた資料集で、靖国神社の回答として「陸海軍省で一定の基準を定めていたようであるが、極秘に取り扱われていたため確実なことは分からない」と記述されていた。

 一方、終戦直後の20年8月30日、陸軍省は「靖国神社合祀に関する件」で「敵の戦闘行動により死没せる常人(戦災者、鉄道、船舶などに乗車船中遭難せるもの)」とし、空襲などで亡くなった一般国民も合祀するよう提案した。

 先の大戦で前線と後方の区別がなくなり民間人の戦災死亡者が多数にのぼったことを背景に、敗戦の時点で合祀にはさまざまな選択肢があったことを示すものだ。しかし、海軍省や宮内省が同調せず実現しなかった。

 資料集には20年8月27日の美山要蔵陸軍大佐(後に厚生省引揚援護局次長)による東条英機元首相(陸軍大将)との会見記も含まれ、東条元首相は「未合祀の戦死・戦災者、戦争終結時の自決者も合祀すべきである。これを犬死にとしてはならぬ。人心安定、人心一和の上からも必要である」と、軍人、民間人の区別をしないよう主張していた。

(2007/03/29
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070329/wdi070329002.htm

【主張】靖国新資料 民意踏まえて読み解こう
 靖国神社への戦犯合祀(ごうし)に関する詳細な資料が国立国会図書館によって公表された。国と靖国神社が協力して合祀を進めていたことを改めて裏付ける貴重な記録である。

 特に興味深いのは、昭和30年代から40年代前半にかけ、東京裁判で裁かれたいわゆる「A級戦犯」や、外地で処刑された「BC級戦犯」らの合祀について、厚生省と靖国神社側が何度も協議を行い、慎重に合祀を決定していた事実である。

 しかも、目立たないように、と双方の担当者が戦犯に対する当時の内外の世論にいじらしいほど気を使いながら協議していた様子がうかがえる。

 識者の間には、国が神社の合祀に関与していたことは現行憲法の政教分離の原則に反するとの指摘もある。しかし、合祀の前提となる戦犯も含めて200万人にのぼる第二次大戦の戦没者を特定する作業は、戦後に旧陸海軍省の業務を引き継いだ厚生省の援護担当者の協力なしには不可能である。

 判例では、津地鎮祭訴訟の最高裁判決(昭和52年)以降、国家と宗教のかかわりを一定限度容認する緩やかな政教分離解釈が定着している。憲法が厚生省の合祀協力業務まで禁じているとはいえない。国のために戦死した国民の慰霊のもとになる合祀に国が協力したのは、当然のことだ。

 公表された新資料によれば、戦犯合祀に関する厚生省と靖国神社の協議が始まったのは、昭和33年からだ。戦犯の赦免を願う当時の民意を受けた協議だったと思われる。

 サンフランシスコ講和条約発効(27年4月)後、戦犯赦免運動が全国に広がり、署名は4000万人に達した。28年8月、衆院で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。こうした国民世論を受け、政府は関係各国の同意を得たうえで、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を33年までに釈放した。こうした戦後の原風景を思い起こしたい。

 新資料では、戦前・戦中の合祀基準や、終戦後、空襲などで亡くなった一般国民の合祀が検討されたことも明らかになった。

 大原康男・国学院大教授が本紙で指摘しているように、「この時代の国民の心意に目配りして」新資料を読み解くべきである。

(2007/03/30
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/shucho/070330/shc070330000.htm


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