「日の丸・君が代」 強制最高裁判決と大阪府条例について(2)/渡部秀清

2011-06-05 22:08:01 | 社会
昨日のメールの続きです。
「君が代」起立斉唱は当然、
何度も反する教員はクビにしても当然、
という論理に対する反論です。

まず第一に問題とすべきは、
「現在の日本社会では誰が主権者か」という問題です。

「君が代」は明治初期に作られた天皇制を賛美する歌であり、
明らかに「天皇主権」の歌です。それは歌詞を見れば一目瞭然です。
その歌を「国民主権」の日本社会において人々に強制し、
起立し歌わなければ処分するなどということは、
たとえ教員に対してであっても、あってはならないことです。

だから、そのことを知っていた当時の政府は
繰り返し「強制はしない」と述べ、
天皇も「強制は良くない」と述べているのです。
また、菅首相も「日の丸・君が代」法制化当時、
『天皇主権時代の国歌が、何らかのけじめがないまま、
象徴天皇時代の国歌になるのは、国民主権の
立場から明確に反対した方がいい』と述べていたのです。

問題は、「君が代」の果たした歴史的役割ではなく、
「君が代」が現在果たしつつある役割なのです。

これに対する裁判所の判決は、
昨年11月10日に東京高裁で出された
Nさんへの判決だけだと思います。

Nさんは「陳述書」で、「君が代」の違憲性を問いました。

それに対して東京高裁は
①「国旗・国歌法」は旗や歌詞の意味内容について
  特定されているわけではない」
②「国民に対して・・・法律的尊重義務を課してたり、
  これに違反したりした場合に不利益を課するなどと
  いったことは一切規定していない」
とし、(ここから先がさらに詭弁になりますが)、
③「国旗及び国歌に関する法律の存在が、
 直ちに、思想及び良心の自由の侵害、信教の自由の侵害、
 表現の自由の侵害と結びつくことはない」
④「法律自体極めて抽象的であって具体性がなく、
 裁判規範性としての意味を持たないものであるから、
 同法が憲法に違反するか否かという
 司法判断にはなじまないものと言わざるを得ない。」
と司法判断を回避しているのです。

しかし、「君が代」の「君」は天皇であると言うことは
政府も法律制定時に答えています。
にもかかわらず、
裁判所は「特定されていない」と誤魔化しているのです。
つまり、裁判所は「君が代」の<意味内容>が明らかにされると
「まずい!」と考えているのです。

また、実際に「君が代」によって、「尊重義務」や「不利益」が
生じているから問題にしているにもかかわらず、
「法律の存在が、直ちに・・・自由の侵害と結びつくことはない」
などと訳の分らないことを言っています。
しかしNさんは、「法律の存在」を問題にしているのではなく、
「法律」そのものの違憲性を問題にしているのです。

要するに、「君が代」の意味内容が問題になっては、
強制と処分に道理がないことが
白日の下に晒されるので、大変困るということです。
だから、いろいろな詭弁・強弁を使い、判断を回避しているのです。

それゆえ、最高裁も橋下知事も
決して「君が代」を問題にしようとはせず、
単なる「国歌」(あるいはシンボル=象徴)として
その本質を覆い隠そうとしているのです。

したがって、「君が代の強制」を問題にするのではなく、
「シンボルの強制」を問題にするというのは、
問題の本質を見失わせることになります。

問題は「国民主権」の現在の日本社会で
「天皇主権」の「君が代」が強制されているということです。
これは「強制」より前に「主権」の問題です。

だから、何人かの教員が「強制」されなければよい、
何人かの教員の「思想・良心の自由」が守られればよい、
という問題ではありません。

ちなみに、
現在問題になっている「育鵬社」と「自由社」の教科書では、
架空の神武天皇を初代天皇と記述し、
明治憲法を賛美し、
昭和天皇もコラムで大きく取り上げるという扱いです。
「育鵬社」の教科書に至っては、皮肉にも、
最高裁長官が皇居で天皇に頭を下げている
任命式(!)の写真が掲載されているようです。

本日(6月5日)はここまでとします。

 「日の丸・君が代」 強制最高裁判決と大阪府条例について(3)/渡部秀清へ続く
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