「今後の外国人の受け入れについて」(中間報告)へのパプコメ/富永さとる

2006-07-16 00:29:29 | 社会
多国籍化、多民族化していく社会では、共存・共生のために、誰にとっても納得できるフェアな正義が必要であることを指摘しておく。多数者が一方的に自分たちにだけ通じる価値観で少数者の権利を否定すれば、必ず社会的な摩擦が深刻化する。
 この「フェアな正義の不在」という危惧の象徴が難民認定の実態である。法改正によって導入された難民認定参与員制度においても、
入国管理局による事務的サポートのもと、審問において「日本に来られたということは裕福だということではないか」といった趣旨の難民認定とは何の関係もない、予断と偏見に満ちた質問が参与員から出ている。これでは公正な審査が行われているとはとても考えられない。


法務副大臣のプロジェクト・チームの
「今後の外国人の受け入れについて」(中間報告)
http://www.moj.go.jp/NYUKAN/nyukan51.html
 へのパブリック・コメントを出しましたので、
 皆さまにお送りします。

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TOMINAGA Satoru
     富永さとる
MBA in Social Design Studies
(非営利組織とアドボカシー)
  satoru @ jca.apc.org
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1.「本音と建前の乖離の解消」の方向性を支持する。

 まず冒頭に、パブリック・コメントを実施した
河野副大臣の見識に敬意を表するものである。

 多文化共生を求めるキャンペーン団体
「1435虹の架け橋キャンペーン」の事務局長として、
「今後の外国人の受入れについて」の叩き台について
コメントするものである。

 今回の叩き台の最も注目される点は、
これまでの日本の外国人政策
(旧植民地出身者に係るものを除く)の
本音と建前の乖離を認めた点である。
これは画期的なことであるが、
日本社会が海外からの新しいメンバーを
迎え入れなれければやっていけないほど
行き詰まりつつあることの必然的な反映とも言える。

 合計特殊出生率は1.25まで低下、
人口はついに自然減へと転換し、
生産年齢人口の比率は下がり続けている。
2000年の国連の報告書の試算によると、
日本が移民受け入れに政策を転換することなく、
生産年齢人口と非生産年齢人口の比率を95年水準に保とうとすれば、
2050年には生産(定年)年齢を77歳まで切り上げなくてはならないと言う。
外国にルーツをもつ者に対する社会的排除のシステムを克服しなければ、
日本の国民は77歳まで働き続けなければならないところまで
追い詰められているのである。

 従って、外国人政策を転換し、
日本社会が新しい仲間を必要としているという現実(本音)に
制度(建前)の方をあわせる政策転換は、
日本の国民自身のためにも必要なことである。
もちろん、外国籍の人々の人権と
人間としての尊厳のために何よりも求められることであることは
言うまでもない。

以上から、
「本音と建前の乖離の解消」という見直しの基本的考え方は支持できる。
この出発点に立つ限り、政府とNGOとの間には対話の回路が拓けたと言え、
この考え方を高く評価するものである。
NGOとの対話を行っていく中で、より良い政策を作り上げていくことを
求めたい。

2.残念ながら、政策の中味が「乖離の解消」になりきっていない。
/単純労働者の公式の受け入れに踏み切り、アムネスティを実施すべき
である。

 しかしながら、
この基本的考え方と、叩き台の個々の政策内容を比べると、
両者の間には齟齬が大きいと言わざるを得ない。
本当は単純労働者として働いてくれる人々を
日本社会が必要としているにもかかわらず、
「単純労働者は受け入れない」という建前を維持し、
その乖離を埋め合わせるために、本来の趣旨からはずれてまで
研修・技能実習制度を利用しつづけるという点が象徴的である。

また、これまでの乖離のしわ寄せをされてきた日系人たちに、
最後までツケを払わせる形で「厄介払い」しようとする方針は、
ドミニカ移民に見られるのと同じ「棄民化」政策と評さざるを得ない。
永住資格を帰化への単なる通過点のように位置づける整理も、
避けられない多国籍化の進行という現実の前に、
再び現実と建前の乖離を深くするものとなるであろう。

 「単純労働者は受け入れない」という建前を維持したまま、
客観的な区分の不明な「中間技能労働者」なる便宜的カテゴリーを導入して、
労働力需要にその都度アドホックに対応するという鵺(ぬえ)的対応ではなく、
真正面から単純労働者を受け入れる政策に転換し、
公正な手続き制度を整備すべきである。

 さらに、この政策転換にあわせて、
これまでの「本音と建前の乖離」のしわ寄せによって不正規滞在となり、
無権利状態で現在在留している人々に、
一斉アムネスティを実施して正規化すべきである。
日系ブラジル人については、日本政府の側が最後まで責任をもって
サポートすべきである。

3.「労働力」導入ではなく、人間の共生の施策の構想を
  /市民権と出生地主義を導入し、教育基本法の改正を

 小生は、本音と建前の乖離を抜本的に解消する政策基軸として、
(1)国籍と区別される〈市民権の創設〉と出生地主義の導入、
その第一歩としての(2)外国籍市民の権利(「義務」)教育化と
教育基本法への多文化共生教育の位置づけを提言するものである。

 「労働力を入れたと思ったら、やってきたのは人間だった。」

 これまで、外国人労働者を受け入れて、
いわゆるローテション政策が成功した国は一つもないと言われている。
今回の政策がおっかなびっくりに根拠のわからない「3%」という
上限をつけて外国人労働者の受け入れを拡大しようとしているのは、
このことを政策当局が知っているからではないかと思われる。
また、永住許可について、
「我が国社会の多様化に資するよう、永住者の国籍についても考慮する」
との文言は、おそらく、在日コリアンのような民族マイノリティ集団が
日本に一定の「市民権」をもった状態で他にも成立することを防ぎたい
という本音の表れであろう。
これらは、トーマス・ハンマーの言う「3つのゲート」を
無理に絞り込むことを意味する。
帰化について永住許可を通過させようとするのも、
国籍取得というゲート通過のためのハードルを高くすることに
なるからである。

しかし、人口に占める割合上限を人為的に3%に設定したところで、
経済法則が鉄の必然性をもって自己貫徹することは目に見えている。
その結果、この政策は、非合法の人口を大量に生み出し続けることにしか
ならないであろう。国籍取得や永住許可を絞り込むことは、
新しい仲間たちを無権利状態に放置することを意味する。
これらの無理な政策がもたらす結果は、社会の分裂の深化である。
分裂した社会は、日本国籍を持つ者にとっても不利益をもたらす。
例をあげれば、公衆衛生政策は健康保険制度から排除された
大量の人口の前に無力化し、感染症に対して社会全体が脆弱化する。
人生の展望を奪われた若年の世代からは必然的に非行や犯罪に走る者も
生み出されてくる。これらは「外国人が持ち込む害悪」ではなく、
日本の社会政策の歪みという原因がもたらす帰結であるが、
これらの現象は日本社会にこれまで以上にヘイト・クライムや
レイシズムをもたらし、
ネガティブなフィードバック・システムを発生させてしまうであろう。
諸外国の過ちを繰り返すべきではない。

 日本社会が新しい人々を必要とする以上、
こうした問題を回避するための唯一の道は、
諸外国で既に失敗している、
無理な上限を設けたりゲートを絞ったりする政策ではなく、逆に、
「労働力が必要ならば人間を迎え入れる他はない」という真理を受け入れ、
移民として正当な地位をニューカマーたちに与えることである。

 その基軸は市民権の創設と出生地主義の導入である。
現在の日本においては、市民権が存在しないために
〈人権の享有主体であること〉と〈国籍を有すること〉がイコールになって
しまっており、さらに、国籍法が血統主義オンリーであるために、
結果として日本国内で出生した住民でありながら無権利の人々を
必ず生み出すシステムとなってしまっている。
人間は誰も、生まれてくるにあたって生まれてくる場所と親を自分で選ぶこと
はできない。このシステムは、門地による差別を禁止する日本国憲法14条に
違反する状態であり、人間の尊厳という観点からみて、奴隷制に類するものと
言わざるを得ない。
国境を越えた人口の移動がますます多くなっていくグローバリズムのもとで、
このシステムを維持しつづけることは、多くの無権利の子ども達を生み出して
いくことを意味し、正義に反する。
従って、日本社会のメンバーシップに出生地主義を導入すべきである。
国内で出生する者だけでなく、移動してきた1世にも、文明化された
civilized社会において奴隷身分でない住民が享受できるべき権利civil rights
を保障することができるように、市民権を創設することが適当である。
 この観点からは、国籍をもたない市民権保有者と言える永住権者について、
その資格を在留状況のみで奪うという政策には賛成できない。
また、特別永住者を含めた外国籍の住民に対して、
社会を構成するメンバーの当然の権利として、
地方参政権と公務就任権を保障すべきである。
相互主義の観点に立ったとしても、
韓国では永住外国人に地方参政権が与えられ、
既に選挙が実施された事実を指摘しておく。

4.義務教育化を留保付きで支持する。
/公教育を市民教育へと転換させ、教育基本法に多文化共生教育の位置づけを

 国の形を上記のように変える一里塚として、
外国籍の子どもの義務教育化は意義深いものであるため、賛成する。
ただし、いくつかの留保がある。
 第1点は、子どもにとっては教育は義務ではなく権利であり、
学習機会を提供する義務・責任は国が負うということを明確化することである。
1.5世と呼ばれる多文化の子ども達の教育には、
母語と日本語のためのサポートが必要であり、
そのための費用負担を自治体に押しつけている現状は早急に是正されなければ
ならない。
日本語教員や生活全般のソーシャル・ワーカーなどを
国が責任をもってきちんと制度的に位置づけるべきである。
病院や役所の手続きのために通訳として子ども達が
学校を休まなくてはならない現状を是正するため、
親に対するサポートを整備することも必要である。
 第2点は、義務教育化によって公教育の目的が質的に転換することに
自覚的たるべきことである。
これまで、日本の教育は「国民」を形成するための教育であった。
外国籍の子どもについて義務教育化するということは、
日本の公教育の目的が、国民形成のためではなく、
市民形成のために転換することを意味する他はない。
くれぐれも「同化教育」になることがあってはならない。
 第3は、民族等、精神的なルーツを確認するための教育の機会を
保障することである。
日本の公立学校においてと、民族学校やブラジル人学校等の
独自の学校においてとの両面を保障する必要がある。
前者については民族学級などを制度的にきちんと位置づけるとともに、
後者についてはこれらの学校に通う子ども達が義務教育違反とならないように、
きちんと日本の学校制度の体系の中でこれらの学校に正当な位置づけを与え、
私学助成などの対象にすることが必要である。
公立校に通う代わりにフリースクールに通うこともできるようにして、
個別の学習ニーズに柔軟に対応すべきである。
 第4は、学齢期の子どもの強制送還はしないという原則を確立すること
である。
子どもにとって、言語環境は学習を通した人格形成に極めて大きな影響を与え、
間違いがあれば取り戻すことは一生できない。
日系ブラジル人の棄民化政策に見られるような、
日本から追い出してしまえば、
本人や受け入れる先方の社会がどのように困ろうが構わないとでもいうかの
ような態度は慎まなくてはならない。
仮に子どもの不正規滞在が、親の違法行為によるものだとしても、
親の責任を子どもに課すことは近代法の精神に反する。
しかも現在までの不正規滞在については、
そもそも本質的には日本の側の「本音と建前の乖離」に起因して
生まれた違法状態であるから、
その違法状態の責任を個人の側に帰すことは正義に反する。
単純労働者を受け入れないという建前の制度を維持し続けるならば、
これからも同様となる。
 第5は、これらの施策の根拠として、
教育の基本法である教育基本法を国民教育ではなく市民教育の法に改正し、
多文化共生教育を同法のなかに位置づけることである。

5.「(仮称)人権擁護・多文化共生省」の創設を

 最後に、多国籍化、多民族化していく社会では、共存・共生のために、
誰にとっても納得できるフェアな正義が必要であることを指摘しておく。
多数者が一方的に自分たちにだけ通じる価値観で少数者の権利を否定すれば、
必ず社会的な摩擦が深刻化する。
 この「フェアな正義の不在」という危惧の象徴が難民認定の実態である。
法改正によって導入された難民認定参与員制度においても、
入国管理局による事務的サポートのもと、
審問において「日本に来られたということは裕福だということではないか」と
いった趣旨の難民認定とは何の関係もない、予断と偏見に満ちた質問が
参与員から出ている。
これでは公正な審査が行われているとはとても考えられない。
 社会の分裂、相互不信と紛争に至る事態を避け、
共生のための正義を実現するため、
退去強制事務を司り、収容施設と矯正施設を運用する法務省から
独立した機関として、
人権擁護、難民認定及び総合的な多文化共生政策を主管する官庁
「(仮称)人権擁護・多文化共生省」を創設すべきである。
(以上)


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1 コメント

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昨今の坊っちゃん (役人や議員は)
2006-07-16 12:53:08
底辺への同情や現場の実情って物を知らなさ過ぎて、本当に。

どんなに学校で優秀でも、結局現実と乖離して無能になっちゃうって言うか。
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