転載・「彼ら」が教科書を標的にする理由;「戦争とジェンダー」若桑みどり/Author:碧猫

2007-12-22 23:00:20 | 社会
「彼ら」が教科書を標的にする理由;若桑みどり氏の「戦争とジェンダー」より
 10/4のこと、目についた報道があった。
asahi.com2007年10月03日21時11分で「美術史家の若桑みどりさん死去」
 ジェンダーの視点からの美術史研究で知られる、千葉大名誉教授の若桑みどり(わかくわ・みどり)さんが、3日午前3時ごろ、虚血性心不全のため、東京都世田谷区の自宅で死去した。71歳だった。(略)東京生まれ。東京芸大卒業後、イタリア留学を経て東京芸大教授、千葉大教授、川村学園女子大教授を歴任。イタリア美術史が専門で、美術における女性の位置についてのジェンダー研究や発言も多く、ジェンダー文化研究所を主宰している。80年に「寓意(ぐうい)と象徴の女性像」でサントリー学芸賞、「薔薇(ばら)のイコノロジー」で84年度芸術選奨文部大臣賞、03年に紫綬褒章。04年には「クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国」で大佛次郎賞を受賞している。(後略)


 若桑氏の文章を最初に読んだのは、「ジェンダー白書3 女性とメディア」(明石書店 2005年3月初版)の「アニメとジェンダー -少女を取り込むプリンセス神話/消費される少女像」と題された寄稿だった。前半がディズニーのプリンセスストーリーについてのジェンダー視点での論評であり、後に私が読んで、このブログでも取り上げた「お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門 (ちくま新書 2003年6月第一刷)」のダイジェスト版という感じ。後半が、
家父長制文化が生産してきたもっとも量の多い女性像が、「処女にして母なるもの」であったことを論じる。これは西欧社会では聖母マリアに表像されるが、日本で生産され、これもまた世界で認知され消費されている宮崎駿の「美少女英雄」ストーリーがまさしく対応する。

とはじまっている文章で、宮崎アニメで「大人の男たち」が破滅させた世界を救うのは「少女」であるという定型的な図式と、その背景にある、あるいはその図式が人気を博する意識の考察は大変印象深いものだった。

 だから、後に、「慰安婦」問題関連で興味をもち、戦争と女性との関わりの本を探した時に、若桑氏にそういう著作があることを見つけると真っ先に手に取ったものだった。
「戦争とジェンダー」(大月書店 2005年4月発行)
予想通り、非常に面白くて、すでに「戦争とレイプの相関」の箇所は当ブログにて取り上げた。

 しかし、この著作は戦争とレイプに限定して論じたものではない。この著作の内容は、アメリカ兵の強姦事件や、財務省官僚の強姦事件、それにこのところの社会の「空気」から、もっと紹介したくなるものだったので、、、あちらこちらで言及していることもあり、興味を持ってくれる人が増えてほしくて、もう少し、この若桑氏の遺作を紹介しておこうと思う。

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この本は、
序論 理論的前提 家父長制社会とジェンダー
第一章 ひとはなぜ戦うか-若者を死に赴かせる「男らしさ」の文化的構築
第二章 戦争のない時代があった
第三章 「男らしさ」と戦争システム
第四章 国家、それが戦争を起こす
第五章 女性差別と戦争
終章 翌朝に向かって

から構成されている。

その序論の冒頭で、若桑氏は「現代を切迫した危機に瀕した時代とうけとり、その最大の危機こそは「戦争」であり、「戦争」を生み出すものは「家父長制的男性支配型国家」であることを明らかにする目的で書かれる」とはじめ、以下のように続ける。

 戦争を憎み、平和を愛する人びとは数限りなくいて、そのなかのひとりがこの本の読者になってくれる人だと思う。しかし、そのような読者の大部分が、戦争を生み出すものが、家父長制国家であるという私の論の主旨には、とまどうか、違和感を抱くかするであろう。しかし、すでにジェンダー理論を学んだ人びとには、この結論は意外でもなく、驚きでもないこと、むしろあたりまえのことであろう。
 私と問題意識を共有するフェミニスト思想家の大越愛子は、一九六〇年代のヴェトナム反戦運動を経た第二期フェミニズムにおいて、「戦争は性差別、性暴力を主柱とする男根中心的な家父長制体制を維持する暴力装置として再定義された」と述べている。この言い方は、とても正しいにもかかわらず、ジェンダー理論を知らない人にはわかりにくいし唐突かもしれない。(中略)
 いうなれば、古来、戦争を語ってきたのは「戦争を遂行する側のジェンダー」である男性権威者によってだったのが、歴史上はじめて、どちらかといえば戦争を起こす男性に奉仕したり、男性が起こした戦争によって被害を受けたりしてきた女性たちによって再定義された、ということになる。また、その結果として、一口に言ってしまえば、戦争は「男たちが自分を中心に組織している体制を維持するための暴力装置だ」ということになる。
 もっとひらたくいえば、戦争とはマッチョな男たちが利益を独占し、自分たち以外の人間にはうまい汁を吸わせない為に、組織的な暴力を振るって自分が強いことを見せ、皆を恐怖で支配しようとするシステムだという事である。


そして、若桑氏は、このまとめ方が乱暴であると違和感を持つ読者もいるはずだと述べた後に、「戦争はヤクザの暴力ではない、国家が合法的に行う集団暴力であるから正当」と考えるかもしれない読者に向け、

 実は、それこそが問題なのだ、ということをこの本は指摘する。今たとえ違和感があっても、反論があっても、あなたは戦争がこの世界でもっともむごたらしい集団的な殺しあいであり、非戦闘員を含めての集団的殺人であるということは認めているだろう。(中略)
 これほどに賢明で、これほどに進歩してきた人間が、どうしてこの愚行をやめることをできないのか。答はある意味で簡単である。戦争をしたい人間たちがこの世を支配しているからだ。そしてそれは疑いもなく「ジェンダーとしての男性」である。むろん、彼らを定義するのには、「ジェンダー」だけでは十分ではない。これほどのことを遂行するからには、彼らは「権力をもった支配階級」であることが必要である。(中略)
 戦争を遂行する側の男性の戦争論は、それを肯定し、また維持してきた。そのことは当然である。またいっぽう、男性が書いた反戦論が無力だったことはもうはっきりしている。なぜなら戦争は止まらなかったからだ。

と述べ、第一章以下の本論に移る。そこで述べられる戦争に反対する意志は、終戦時、既に物心つく年齢であった著者であればこその明確さで語られ、「第五章 女性差別と戦争」にて、「戦争とレイプの相関」(このリンクは、上述でのと同じ)が考察される。
(P.175ー)
戦場のレイプは、戦時暴力の一形態であり、「性的表現をもちいた攻撃である。それは、相手に精神的肉体的苦痛と死の恐怖を与えるために集団の面前で行われるのが普通であり、敵である男性に自分らの力を示すと同時に相手の無力を誇示する。(中略)なぜなら、今も昔も、女をものにすることが男の成功のあかしであるのと同様に、女を守ることは男の誇りのあかしであるからだ。」(中略)とする。このことは、近年小林よしのりが「戦争論」で、若い男に戦争に行くように説得するために、「女は自分を守ってくれる男としか結婚してはいけない」とけしかけていること、また中山義活議員が「男は女を守り、国を守る」と発言していることに通じる。(-P.176)



そして、第二次世界大戦下のドイツ軍やソ連軍の強姦事件例とともに、南京事件を主とした日本軍の大量強姦事件が紹介される。また、これら強姦の事実が再び否定されようとしていること、とりわけ日本でその動きが強いことが、「国民の油断」にある記述「南京大虐殺はなかった。性奴隷としての日本軍慰安所はなかった。従軍慰安婦は性奴隷ではなく単なる商行為であり、彼女らは売春婦に過ぎない」といった記述を例に引きつつ紹介したうえで、若桑氏は以下のように続ける。
(P.186ー)
内外の、複数の継続的な調査と証言によって歴史的事実として国際的に認定されているこのことがらを、彼らはなぜ執拗に否定しなければならないのか。最初に考えられる理由は、戦争をこれほどに醜悪で、非人間的で、犯罪的なものだということを隠蔽し、否定するためである。それはむろん、戦争を美化し、肯定するためである。第二に、彼らは強姦を大したことではないと考えているのである。それこそは骨髄に徹した女性蔑視である。(略)



次の項では、戦場におけるレイプの一形態として「3 戦地における強制売春ーー従軍慰安婦 (P.188ー)」が考察対象となり、以下の文章でまとめられる。
死ぬことを前提にして苛酷で非人間的な組織のなかで希望もなく生きている兵士と、その兵士によって一日に70人にも「使用されている」慰安婦、そして死ぬまでに強姦されている占領地の女性、それはもっとも悲惨な構図である。小林よしのりは「明日をも知れぬ兵士の性欲を許せ!」と怒鳴っているが、それでは、その兵士に殺されたり、犯されたりしている植民地の女性の苦しみは見捨てていいのか?日本人の男性の苦しみだけを憐れみ、占領地の女性の苦しみはどうでもいいというのか?
 むしろ、家族からも平静な暮らしからも男性を引き離し、明日をも知れぬ恐怖と絶望の極限状況におき、女を抱かせてごまかしていたのは誰なのか、そのすべての根源を暴くべきではないのか。あわれな男とその男に無惨に殺されたり犯されたりした女性のいる陰惨な構図をつくりだしたのは「戦争」であり、この一切に責任をもたなければならないのは戦争の最高責任者達である。歴史修正主義者たちは、なぜ、この自明なことがらにあえて背を向け、(中略)すべての罪が戦争とその責任者にあることを認めようとしないのだろうか?(-P. 195)



そして、若桑氏は直後に、その理由にも言及する。

彼らのほんとうの狙いはふたたび戦争をすることにあるからだ。戦争がいかに醜悪で陰惨なものであるかを、彼らは若い男性たちに教えたくない。国際的批判を浴びている戦時性暴力を否定し、それをみずから明らかにし、日本の責任をみずから裁こうとする歴史家や女性たちを攻撃し、威嚇しているのは、ふたたび日本を天皇をいただく軍事国家にするための確かな意志と戦力にもとづいている。その目的のためには、植民地の女性の尊厳の回復など問題外である。全ての好戦家は、男性中心主義者であり、人種差別主義者であり、ナショナリストである。韓国や台湾の「女」の尊厳など、彼らには問題ではない。
 それゆえに、慰安婦となった女性はなんとしても「職業的娼婦」でなければならず、「公娼制度」は正当でなくてはならない。(中略)したがって、歴史家やフェミニストは、慰安婦となった人びとは、自由な娼婦ビジネスをやっていたのではなく、強制的な売春をさせられ、人権を侵害されていたのだという事を明らかにしてきた。また彼らが隠れ蓑として是認する「公娼制度」もまた重大な人権侵害であることを証明してきたのである。(-P. 196)



この後の記述で、上述の内容が詳しく紹介される。そして、
慰安婦問題は帝国主義近代国家の抱えるもっとも深刻な矛盾が凝縮した象徴的黒点である。なぜならば、この植民地公娼制度には植民地支配機の帝国主義国家のもつ四重の権力装置が凝縮しているからである。


その四つとは「国家権力」「植民地支配」「家父長的な価値観にもとづく性差別」「人種差別」の和であることが図示され、(P. 204ー)
慰安婦問題が、このように、帝国主義的国家の支配構造を圧縮したモデルケースであるからこそ、修正主義者はこの問題を標的とし、これを全力をもって否定しようとしているのである。いいかえれば、この事実を否定する行動は、これらの権力構造の維持を目的としているのである。すなわち男性支配的、女性差別的、人種差別的、弱者排除的社会構造の維持、家父長制イデオロギーと家族制度、天皇を頂点とする国家制度の堅持である。(中略)
 彼らは戦争システム、軍国主義、戦争行為がいかに人間性を破壊し、人間を暴力的に醜悪にするかを、若い日本人、とくに子供たちに知らせたくないのである。なぜならば彼らは戦争を肯定してるからである。(中略)敗戦の時、私は10歳だった。私は、あの地獄を私の子孫に断じて味あわせたくはないと思っている。そしてそう思っている女性や男性がこの国に数多くいることを信じている。(-P. 206)



…そうして「彼ら」は教科書を標的にし、「慰安婦」や「南京大虐殺」の記述を削り、今また「沖縄集団自決」の記述から軍の強制性を薄めようとしている。

 この著作の執筆時点は2005年の1月。若桑さんの文章を改めて読み返し、その後の経緯をどのように見ておられたのかと思ってしまう。
若桑みどり氏の冥福を改めて祈りたい。


この本は、
序論 理論的前提 家父長制社会とジェンダー
第一章 ひとはなぜ戦うか-若者を死に赴かせる「男らしさ」の文化的構築
第二章 戦争のない時代があった
第三章 「男らしさ」と戦争システム
第四章 国家、それが戦争を起こす
第五章 女性差別と戦争
終章 翌朝に向かって

から構成されている。

その序論の冒頭で、若桑氏は「現代を切迫した危機に瀕した時代とうけとり、その最大の危機こそは「戦争」であり、「戦争」を生み出すものは「家父長制的男性支配型国家」であることを明らかにする目的で書かれる」とはじめ、以下のように続ける。

 戦争を憎み、平和を愛する人びとは数限りなくいて、そのなかのひとりがこの本の読者になってくれる人だと思う。しかし、そのような読者の大部分が、戦争を生み出すものが、家父長制国家であるという私の論の主旨には、とまどうか、違和感を抱くかするであろう。しかし、すでにジェンダー理論を学んだ人びとには、この結論は意外でもなく、驚きでもないこと、むしろあたりまえのことであろう。
 私と問題意識を共有するフェミニスト思想家の大越愛子は、一九六〇年代のヴェトナム反戦運動を経た第二期フェミニズムにおいて、「戦争は性差別、性暴力を主柱とする男根中心的な家父長制体制を維持する暴力装置として再定義された」と述べている。この言い方は、とても正しいにもかかわらず、ジェンダー理論を知らない人にはわかりにくいし唐突かもしれない。(中略)
 いうなれば、古来、戦争を語ってきたのは「戦争を遂行する側のジェンダー」である男性権威者によってだったのが、歴史上はじめて、どちらかといえば戦争を起こす男性に奉仕したり、男性が起こした戦争によって被害を受けたりしてきた女性たちによって再定義された、ということになる。また、その結果として、一口に言ってしまえば、戦争は「男たちが自分を中心に組織している体制を維持するための暴力装置だ」ということになる。
 もっとひらたくいえば、戦争とはマッチョな男たちが利益を独占し、自分たち以外の人間にはうまい汁を吸わせない為に、組織的な暴力を振るって自分が強いことを見せ、皆を恐怖で支配しようとするシステムだという事である。


そして、若桑氏は、このまとめ方が乱暴であると違和感を持つ読者もいるはずだと述べた後に、「戦争はヤクザの暴力ではない、国家が合法的に行う集団暴力であるから正当」と考えるかもしれない読者に向け、

 実は、それこそが問題なのだ、ということをこの本は指摘する。今たとえ違和感があっても、反論があっても、あなたは戦争がこの世界でもっともむごたらしい集団的な殺しあいであり、非戦闘員を含めての集団的殺人であるということは認めているだろう。(中略)
 これほどに賢明で、これほどに進歩してきた人間が、どうしてこの愚行をやめることをできないのか。答はある意味で簡単である。戦争をしたい人間たちがこの世を支配しているからだ。そしてそれは疑いもなく「ジェンダーとしての男性」である。むろん、彼らを定義するのには、「ジェンダー」だけでは十分ではない。これほどのことを遂行するからには、彼らは「権力をもった支配階級」であることが必要である。(中略)
 戦争を遂行する側の男性の戦争論は、それを肯定し、また維持してきた。そのことは当然である。またいっぽう、男性が書いた反戦論が無力だったことはもうはっきりしている。なぜなら戦争は止まらなかったからだ。

と述べ、第一章以下の本論に移る。そこで述べられる戦争に反対する意志は、終戦時、既に物心つく年齢であった著者であればこその明確さで語られ、「第五章 女性差別と戦争」にて、「戦争とレイプの相関」(このリンクは、上述でのと同じ)が考察される。
(P.175ー)
戦場のレイプは、戦時暴力の一形態であり、「性的表現をもちいた攻撃である。それは、相手に精神的肉体的苦痛と死の恐怖を与えるために集団の面前で行われるのが普通であり、敵である男性に自分らの力を示すと同時に相手の無力を誇示する。(中略)なぜなら、今も昔も、女をものにすることが男の成功のあかしであるのと同様に、女を守ることは男の誇りのあかしであるからだ。」(中略)とする。このことは、近年小林よしのりが「戦争論」で、若い男に戦争に行くように説得するために、「女は自分を守ってくれる男としか結婚してはいけない」とけしかけていること、また中山義活議員が「男は女を守り、国を守る」と発言していることに通じる。(-P.176)



そして、第二次世界大戦下のドイツ軍やソ連軍の強姦事件例とともに、南京事件を主とした日本軍の大量強姦事件が紹介される。また、これら強姦の事実が再び否定されようとしていること、とりわけ日本でその動きが強いことが、「国民の油断」にある記述「南京大虐殺はなかった。性奴隷としての日本軍慰安所はなかった。従軍慰安婦は性奴隷ではなく単なる商行為であり、彼女らは売春婦に過ぎない」といった記述を例に引きつつ紹介したうえで、若桑氏は以下のように続ける。
(P.186ー)
内外の、複数の継続的な調査と証言によって歴史的事実として国際的に認定されているこのことがらを、彼らはなぜ執拗に否定しなければならないのか。最初に考えられる理由は、戦争をこれほどに醜悪で、非人間的で、犯罪的なものだということを隠蔽し、否定するためである。それはむろん、戦争を美化し、肯定するためである。第二に、彼らは強姦を大したことではないと考えているのである。それこそは骨髄に徹した女性蔑視である。(略)



次の項では、戦場におけるレイプの一形態として「3 戦地における強制売春ーー従軍慰安婦 (P.188ー)」が考察対象となり、以下の文章でまとめられる。
死ぬことを前提にして苛酷で非人間的な組織のなかで希望もなく生きている兵士と、その兵士によって一日に70人にも「使用されている」慰安婦、そして死ぬまでに強姦されている占領地の女性、それはもっとも悲惨な構図である。小林よしのりは「明日をも知れぬ兵士の性欲を許せ!」と怒鳴っているが、それでは、その兵士に殺されたり、犯されたりしている植民地の女性の苦しみは見捨てていいのか?日本人の男性の苦しみだけを憐れみ、占領地の女性の苦しみはどうでもいいというのか?
 むしろ、家族からも平静な暮らしからも男性を引き離し、明日をも知れぬ恐怖と絶望の極限状況におき、女を抱かせてごまかしていたのは誰なのか、そのすべての根源を暴くべきではないのか。あわれな男とその男に無惨に殺されたり犯されたりした女性のいる陰惨な構図をつくりだしたのは「戦争」であり、この一切に責任をもたなければならないのは戦争の最高責任者達である。歴史修正主義者たちは、なぜ、この自明なことがらにあえて背を向け、(中略)すべての罪が戦争とその責任者にあることを認めようとしないのだろうか?(-P. 195)



そして、若桑氏は直後に、その理由にも言及する。

彼らのほんとうの狙いはふたたび戦争をすることにあるからだ。戦争がいかに醜悪で陰惨なものであるかを、彼らは若い男性たちに教えたくない。国際的批判を浴びている戦時性暴力を否定し、それをみずから明らかにし、日本の責任をみずから裁こうとする歴史家や女性たちを攻撃し、威嚇しているのは、ふたたび日本を天皇をいただく軍事国家にするための確かな意志と戦力にもとづいている。その目的のためには、植民地の女性の尊厳の回復など問題外である。全ての好戦家は、男性中心主義者であり、人種差別主義者であり、ナショナリストである。韓国や台湾の「女」の尊厳など、彼らには問題ではない。
 それゆえに、慰安婦となった女性はなんとしても「職業的娼婦」でなければならず、「公娼制度」は正当でなくてはならない。(中略)したがって、歴史家やフェミニストは、慰安婦となった人びとは、自由な娼婦ビジネスをやっていたのではなく、強制的な売春をさせられ、人権を侵害されていたのだという事を明らかにしてきた。また彼らが隠れ蓑として是認する「公娼制度」もまた重大な人権侵害であることを証明してきたのである。(-P. 196)



この後の記述で、上述の内容が詳しく紹介される。そして、
慰安婦問題は帝国主義近代国家の抱えるもっとも深刻な矛盾が凝縮した象徴的黒点である。なぜならば、この植民地公娼制度には植民地支配機の帝国主義国家のもつ四重の権力装置が凝縮しているからである。


その四つとは「国家権力」「植民地支配」「家父長的な価値観にもとづく性差別」「人種差別」の和であることが図示され、(P. 204ー)
慰安婦問題が、このように、帝国主義的国家の支配構造を圧縮したモデルケースであるからこそ、修正主義者はこの問題を標的とし、これを全力をもって否定しようとしているのである。いいかえれば、この事実を否定する行動は、これらの権力構造の維持を目的としているのである。すなわち男性支配的、女性差別的、人種差別的、弱者排除的社会構造の維持、家父長制イデオロギーと家族制度、天皇を頂点とする国家制度の堅持である。(中略)
 彼らは戦争システム、軍国主義、戦争行為がいかに人間性を破壊し、人間を暴力的に醜悪にするかを、若い日本人、とくに子供たちに知らせたくないのである。なぜならば彼らは戦争を肯定してるからである。(中略)敗戦の時、私は10歳だった。私は、あの地獄を私の子孫に断じて味あわせたくはないと思っている。そしてそう思っている女性や男性がこの国に数多くいることを信じている。(-P. 206)


…そうして「彼ら」は教科書を標的にし、「慰安婦」や「南京大虐殺」の記述を削り、今また「沖縄集団自決」の記述から軍の強制性を薄めようとしている。

 この著作の執筆時点は2005年の1月。若桑さんの文章を改めて読み返し、その後の経緯をどのように見ておられたのかと思ってしまう。
若桑みどり氏の冥福を改めて祈りたい。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (way)
2008-02-11 04:35:45
若桑みどりもそうですが、この種の人間に共通するのは、過去にこだわりすぎて現実を見ていないということなんですよね。
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助け合いより (殺し合いって靖国原理主義が)
2008-02-11 19:18:04
大好きなら、自分の腹を割いてれば?
何か、平岡公威だっけ?腹を割くのは今で言うジェンダーの逆転だのなんだの、海外では分析され。
でもねぇ、李明博が過去を忘れたとかって本気にしてると、今にシッペ返しが来るよ?
右翼が見てる現実は、カルトとヤクザの景気のヨさだろ?
サーベラスがプリンスホテルの第一株主になってるとか、さ。
中川秀直が仲イインだったな?覚えとくよ。
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