強制労働 朝鮮女子挺身隊8人
三菱重工業に徴用 年金で認定
社保庁「慰安婦」誤解解く形
太平洋戦争中に朝鮮半島から徴用され、名古屋市の三菱重工業で働いていた韓国人女性8人(うち2人は死亡)について、
社会保険庁は、徴用当時に厚生年金に2~11カ月間加入していたことを3日付で認定した。
終戦時の混乱や伊勢湾台風で記録の一部が失われていたが、本人の申告や、同じ工場で当時働いていた日本人の
例などを参考に判断した。
女性たちは韓国で「慰安婦」と同一視されてきただけに、日本政府が工場で働いていたことを公的に認定したことが誤解の
解消につながると期待している。(青瀬健)
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名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟
太平洋戦争末期、「学校に通いながら働けて給料ももらえる」と勧誘されて朝鮮半島から名古屋市内の軍需工場に
動員されたが、実態は違ったとして、韓国人女性と遺族計7人が、国と三菱重工業(東京)に慰謝料や未払い賃金など
総額2億4千万円の損害賠償と謝罪を求めた。
07年5月の名古屋高裁判決は強制労働だと指摘して連行の違法性を認定。
元隊員が韓国で「従軍慰安婦」と同一視され、現在も被害が続いているという点も主張の一つで、判決は「離婚など
被害が生じている」と認めた。
ただ、個人の賠償請求権放棄をうたった日韓請求権協定を根拠に訴えは退けた。
08年11月、最高裁で原告敗訴が確定した。
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社保庁が認定したのは、7人については全く記録のない富山県での勤務も含めた44年10月~45年9月の11カ月間、
戦時中の44年に死亡した女性については同年12月までの2カ月間の厚生年金の加入。
8人は、国と三菱重工に損害賠償と謝罪を求めた名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の元原告ら。
1人は、44年12月の東南海地震で就業中に14歳で死亡。
別の1人は01年に死亡した。
残る6人は現在、78~81歳と高齢だ。
名古屋地裁・高裁判決によると、8人は戦争末期の44年6月ごろ、当時の朝鮮から労働力として徴用され、三菱重
工
名古屋航空機製作所道徳工場(同市南区)で部品のやすりかけや塗装に従事した。
44年の東南海地震の被害で操業できなくなった工場は富山県に移転し、地震で亡くなった1人を除く7人も45年3月ごろ、
転勤させられた。
終戦を迎えて7人はそれぞれ故郷に帰ったものの、韓国では「挺身隊」は「男に体まで尽くす」と誤解されていた
ため、
日本に行ったことを夫が死ぬまで隠し続けた女性もいた。
女性たちを支援してきた「訴訟を支援する会」(名古屋市)は、提訴の準備のため、98年に熱田社会保険事務所に
厚生年金の記録を照会したが、4人分しか記録が見つからなかった。しかも、移転先の富山での記録がなく、加入期間が
特定できなかった。
名古屋高裁で敗訴した翌年の08年には、同会が交渉先を熱田社会保険事務所から社保庁に切り替え、改めて8人の
加入状況調査を求めた。
その結果、4人については44年10~12月に加入していたことが、08年6月に確認された。
さらに、三菱重工の資料が、伊勢湾台風で一部は消失していたこともわかった。
社保庁がその後、当時道徳工場で働き、挺身隊の女性と同様に富山に転勤した同市南区の男性の例を参考に調査を
続けたところ、今年7月までに、残る4人についても、最初の資格取得日だけは記録が見つかった。
社保庁は、本人や遺族に8人の履歴申立書の提出を求めたうえ、「当時の三菱重工勤務者に対しては、消失した記録を
証言その他から復元した
実績がある」として今月3日、厚生年金の加入を認定した。
申請すれば、6カ月以上という要件を満たす7人に対しては脱退手当金が支払われるが、過去の例などから1人あたり数十円
程度になる見込みだ。
挺身隊訴訟弁護団長を務め、厚生年金の手続きを代行した内河恵一弁護士は「三菱重工は挺身隊の勤務を公式には
認めていない。
公的に認定されたことで、従軍慰安婦と同一視されていた彼女たちが企業で働いていた証明になり、女性たちの苦悩が
晴れたと思う」と評価している。
*2009.9.23朝日新聞
名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会
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三菱重工業に徴用 年金で認定
社保庁「慰安婦」誤解解く形
太平洋戦争中に朝鮮半島から徴用され、名古屋市の三菱重工業で働いていた韓国人女性8人(うち2人は死亡)について、
社会保険庁は、徴用当時に厚生年金に2~11カ月間加入していたことを3日付で認定した。
終戦時の混乱や伊勢湾台風で記録の一部が失われていたが、本人の申告や、同じ工場で当時働いていた日本人の
例などを参考に判断した。
女性たちは韓国で「慰安婦」と同一視されてきただけに、日本政府が工場で働いていたことを公的に認定したことが誤解の
解消につながると期待している。(青瀬健)
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名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟
太平洋戦争末期、「学校に通いながら働けて給料ももらえる」と勧誘されて朝鮮半島から名古屋市内の軍需工場に
動員されたが、実態は違ったとして、韓国人女性と遺族計7人が、国と三菱重工業(東京)に慰謝料や未払い賃金など
総額2億4千万円の損害賠償と謝罪を求めた。
07年5月の名古屋高裁判決は強制労働だと指摘して連行の違法性を認定。
元隊員が韓国で「従軍慰安婦」と同一視され、現在も被害が続いているという点も主張の一つで、判決は「離婚など
被害が生じている」と認めた。
ただ、個人の賠償請求権放棄をうたった日韓請求権協定を根拠に訴えは退けた。
08年11月、最高裁で原告敗訴が確定した。
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社保庁が認定したのは、7人については全く記録のない富山県での勤務も含めた44年10月~45年9月の11カ月間、
戦時中の44年に死亡した女性については同年12月までの2カ月間の厚生年金の加入。
8人は、国と三菱重工に損害賠償と謝罪を求めた名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の元原告ら。
1人は、44年12月の東南海地震で就業中に14歳で死亡。
別の1人は01年に死亡した。
残る6人は現在、78~81歳と高齢だ。
名古屋地裁・高裁判決によると、8人は戦争末期の44年6月ごろ、当時の朝鮮から労働力として徴用され、三菱重
工
名古屋航空機製作所道徳工場(同市南区)で部品のやすりかけや塗装に従事した。
44年の東南海地震の被害で操業できなくなった工場は富山県に移転し、地震で亡くなった1人を除く7人も45年3月ごろ、
転勤させられた。
終戦を迎えて7人はそれぞれ故郷に帰ったものの、韓国では「挺身隊」は「男に体まで尽くす」と誤解されていた
ため、
日本に行ったことを夫が死ぬまで隠し続けた女性もいた。
女性たちを支援してきた「訴訟を支援する会」(名古屋市)は、提訴の準備のため、98年に熱田社会保険事務所に
厚生年金の記録を照会したが、4人分しか記録が見つからなかった。しかも、移転先の富山での記録がなく、加入期間が
特定できなかった。
名古屋高裁で敗訴した翌年の08年には、同会が交渉先を熱田社会保険事務所から社保庁に切り替え、改めて8人の
加入状況調査を求めた。
その結果、4人については44年10~12月に加入していたことが、08年6月に確認された。
さらに、三菱重工の資料が、伊勢湾台風で一部は消失していたこともわかった。
社保庁がその後、当時道徳工場で働き、挺身隊の女性と同様に富山に転勤した同市南区の男性の例を参考に調査を
続けたところ、今年7月までに、残る4人についても、最初の資格取得日だけは記録が見つかった。
社保庁は、本人や遺族に8人の履歴申立書の提出を求めたうえ、「当時の三菱重工勤務者に対しては、消失した記録を
証言その他から復元した
実績がある」として今月3日、厚生年金の加入を認定した。
申請すれば、6カ月以上という要件を満たす7人に対しては脱退手当金が支払われるが、過去の例などから1人あたり数十円
程度になる見込みだ。
挺身隊訴訟弁護団長を務め、厚生年金の手続きを代行した内河恵一弁護士は「三菱重工は挺身隊の勤務を公式には
認めていない。
公的に認定されたことで、従軍慰安婦と同一視されていた彼女たちが企業で働いていた証明になり、女性たちの苦悩が
晴れたと思う」と評価している。
*2009.9.23朝日新聞
名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会
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とはいえ日本企業に雇用されたのを「徴用」というのは如何なものか。
公権力の強制があれば何事であれ「徴用」。
けっこう重要なニュースだと思うのですが。。
って日本語が読めないらしい
>太平洋戦争末期、「学校に通いながら働けて給料ももらえる」と勧誘されて朝鮮半島から名古屋市内の軍需工場に
>動員されたが、実態は違ったとして、韓国人女性と遺族計7人が、国と三菱重工業(東京)に慰謝料や未払い賃金など
って書いてあるやん、どっちにしろ自分で来たんでしょ?
慰安婦と同一視されていたのは気の毒ですね。
国策会社とかって言葉すら知らないだろ。
オマケに、昭和19年当時なんてモウ既に「敵機来襲」してたとか、女子高生が広島とか電車を動かしてた位人手不足とか、中高生の女子が朝鮮半島から海を越えるなんて自由気侭な旅行でない事情とか、全く知るまい。
控え目に言って、国が後押ししているのでなければ、三菱重工が当時稼動すらしてる筈無い程の物資不足が既に来てたとか、全く知らない癖に。
適当に「徴用」に噛み付く様な、自ら求めて恥を掻く行為は止めとけばイイのに。
てか、徴用と強制労働を混同してるな?
麻生炭鉱の強制労働でさえも、徴用は入り口。
強制労働は入り口の後の話。
しかも、強制労働すら実は給料はあるけど、ドレもコレも物資不足の国家的困窮から単なる「紙切れ上の数字」である事も知らないらしいな。
「>慰安婦と同一視」も、日本人が野蛮と信じられて居た証だ。
それだけの事を遣ってるから。
(私の母も日本海側の町から東京近郊の衣料品製造工場へ近所の女性達と共に動員されて働いていました)慰安婦と同一視されたのは韓国側の国内事情ですね。
従軍慰安婦についての韓国側の主張を見ると、推測を果てしなく膨らませた結果であり(慰安婦と女子挺身隊を混同していることからも分かるように)、日本がこんな悪い国であってほしい、そうであったはずだ、という願望の中の最悪の部分だけを採用しているように思えます。戦後生まれの世代が当時の事情も分からずに、こうだったんでしょ?ああだったんでしょ?と煽り立ててきたのではないでしょうか。韓国の反日教育が皆さんの今日を作っているように思います。賃金その他に差別があったとは思えないが・・・・。日韓条約で戦勝国でもない韓国に巨額の賠償金を支払っておりますが韓国政府は自国民にこのことを知らせていないのではないでしょうか。韓国政府に対して請求を行うのが正しいのです。私としては日本に協力して頂いた皆さんには一個人として何か民間でお礼ができたら良いと考えています。日本への憎しみを煽り立てている反日教育を止めていただけませんか。これはアジア諸民族を互いに憎しみ合わすことによって利益を得る国々を利するだけです。
戦地に出た兵隊さん達が帰って来た時に国が在るように、
続きから仕事が出来る様に仕事場を守る、
戦地に出られている兵隊さんに後方支援で必要物資を送る為、
それまで工場で仕事をしていた兵隊さん達に代って、
労働した人達です。
それまで女性は、
兵隊さん達が帰って来た時に、きちっとした家庭で迎えられるように、
家を守り子供を御国の役に立てる立派な人間に育てる役割をしていました。
御国の役に立てるというのは、自分の領分の事をきちっと遣りこなす事。それぞれの仕事、漁師は漁師の、農家は農家の、議員は議員の、労働者は労働者の、自営業は自営業の、学生は学生の、子供は子供の、家庭婦人は家庭婦人の、それぞれの領分の事を誠意と善意を持って善良にやる行う事。
要は自分達自身や身近な人達や好きな人達の住む社会環境の為です。
それが、兵隊さんが大勢戦地に向かわれたので、
どこもかしこも皆人手不足となってしまいました。
そこで、それまで家庭を守って居た所から一歩外に出て、
外で御国の為に身を挺して工場労働や作業をしたのが、「女子挺身隊」です。
現地の女性に被害が及んではいけないと、出先の他国での強姦を防ぐ為、
礼儀としてなるべく自分達の国から慰安の為に仕事をする人達を募集し、
その仕事に就いていたのが、「慰安婦」です。
日本では古来、「言葉が違えば、ものが違う」が常識です。
どうやら特に初期段階では日本男児が優先的に戦地に行ったようで、内地は圧倒的に男手が不足していました。そこで、台湾や朝鮮からの援助を募集し、戦争末期になってそれで足りなくなって労働は国民の義務として、国民総掛りでの国の維持経営を行ったのです。それは、戦争になったどこの国でも在った事です。
<女子挺身隊:歴史>
昭和17年12月:国民勤労報国協力令により勤労奉仕が義務化、学校単位で勤労報国隊が結成され軍需工場への動員開始。
昭和18年9月:女子挺身隊、創設(14歳以上25歳以下)。
(昭和18年秋:学徒出陣)
昭和19年1月:「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定。
昭和19年3月:女子挺身隊制度の強化を図る目的で「女子挺身隊制度強化方策要綱」が閣議決定。卒業と同時に組織された女子挺身隊の第1陣を、全国一斉に軍需工場等へ動員。動員期間は、長い者で1年4か月、短い者で数か月だった。
<女子挺身隊の歌>
♪桜花に誓う♪♪輝く黒髪 ♪等の女子挺身隊の歌も作られました。
♪輝く黒髪 ♪
靡く黒髪きりりと結び
今朝も朗らに朝露踏んで
行けば迎える友の歌
ああ愛国の陽は燃える
我等乙女の挺身隊
撃てど払えど数増す敵機
北も南も無念の歯噛み
勇士想えば胸痛む
ああ愛国の陽は燃える
我等乙女の挺身隊
可愛い工具に頬擦り寄せて
花の命も姿もいらぬ
早く翼が送りたい
ああ愛国の陽は燃える
我等乙女の挺身隊
産んだ増産にっこり仰ぎ
窓の夕日に手を取り交わし
明日の努力をまた誓う
ああ愛国の陽は燃える
我等乙女の挺身隊