「1937年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋近くで・・・」辺見庸ブログ  私事片々から 2014.7.7

2014-07-08 02:04:10 | 社会
http://yo-hemmi.net/article/400848803.html

・冬、月の夜、盧溝橋の欄干に手で触ってみたことがある。
あれは大理石だったか、えぐられた弾痕を指でなぞったら、指が凹みにはりつき、皮膚が剥がれそうなほど冷たかった。
永定河のことは憶えていない。
ひとりで車を運転し、なんどか行ってみた。
橋のたもとで、兵士に誰何されたこともあった。
怖かったな。
1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋近くで、日本の「支那駐屯軍」部隊が夜間演習をはじめ、その最中に、数発の射撃音があり、点呼したら日本軍兵士1人が足りなかったという。
その兵士は腹痛で草むらにかけこんでいただけだったのだが、これは中国軍の「奇襲作戦」にちがいないと断定した牟田口連隊長は日本の主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した
。わたしは学校でそう習った。
関東軍がみずから満鉄の線路を爆破した1931年の柳条湖事件もそうだが、日中戦争はリーベンの謀略だらけだ。
さて、37年7月9日に停戦交渉がおこなわれ、11日には両軍間で停戦協定が調印されて事態は収拾されたかにみえたのだが、日本政府はただちに「華北派兵に関する声明」を布告。
「満州国」に駐屯していた関東軍などが次々に侵攻し、北京・天津地方を占領。
8月には第1次近衛内閣が「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」と宣言、約10万の大部隊の華北派兵を決定して、上海方面にも戦線を拡大する。
やりたいほうだいである。
9月には天皇ヒロヒトが「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争責任を押しつけ、明かな侵略行為を「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するため……などと、正当だと強弁した。
これをうたがったリーベンレンはほぼ皆無。
それでもヒロヒトは戦犯にもならず、「人道に対する罪」にも問われなかったのだから、リ-ベンてのはものすごいクニなのだ。
「暴支膺懲」を口実にした侵略と殺戮は、昭和天皇のお墨付きをえて勢いづく。
戦線はひろがる一方だった。
他国の軍事占領は是か非か、人道上よいかわるいか、国際的準則にもとずいているか……など、かえりみられたふしはない。
12月にはついに南京を「攻略」。
このときである、南京大虐殺がおきたのは。せいかくな数はわからない。
だが、どんなに少なくても、数百、数千なんていう人数ではない。
最低でも数万人が殺された。
大虐殺記念館ができるというニュースをわたしは、20世紀後半に、リーベンに送った。
南京で取材した。
ほっつきあるいた。
足が棒になったな。
汗をいっぱいかいたな。
日本軍が中国の都市を占領するたびに、日本では提灯行列をし、万歳三唱をして祝った。
12月13日の南京陥落のときは、とくに日本中が大パレードでわきたった。
大フィーバー。
東京の「奉祝」提灯行列には40万人が参加し、「日本勝った、日本勝った、また勝った、シナのチャンコロまた負けた!」などととはやしたてた。
中国人なんてだれもいわなかった。
かりに南京大虐殺の事実が報じられていたとしても、提灯行列のもりあがりは、なにも変わらなかっただろうな。
軍は中国各地に際限なく戦線を拡大して、「連戦連勝」に酔いしれ、宣戦布告のないまま、全面戦争に発展していった。
それに異をとなえる者は、なきにひとしかったのだから、massacreは「戦勝」とほとんど同義であったはずだ。
吉本隆明が「戦争中の気分」について語ったことがある。
こちらは太平洋戦争時らしいが、「社会全体が高揚していて、明るかった」そうなのだ。
「戦争中は世の中は暗かった」というのは戦後左翼や戦後民主主義者の大ウソ、戦争中は、世の中がスッキリしているというか、ものすごく明るいんです……云々と話している。
それはそうだったかもしれぬが、吉本さん、どうもおかしい。
「かわいさあまって憎さが百倍」がもっとねじれ、高じて、戦後左翼や戦後民主主義者は、戦争発動者より、ヒロヒトよりもっとわるい、てな舌鋒になっていく。
歴史はボロボロである。
盧溝橋事件なんてもうだれも知らない。
日中戦争でどれだけひとが殺されたか知らない。
先生も知らない。
先生が知らないのだから、生徒がわかるわけもない。
南京大虐殺もなかったことにされる。
けふは七夕。
盧溝橋事件の数日前、現地駐屯日本軍将兵のあいだには、「七夕の日になにかかがおこる」という噂が流れていたという。
エベレストにのぼらなかった。
(2014/07/07)

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・ニッポン外務省のホームページをみて仰天した。
絶句。
みまちがいとおもい、目をこすった。
新たな対中戦争がはじまっている。
あるいは、日中戦争はいまもまだつづいているのだ。
「盧溝橋事件の発生」にかんし外務省はいう。
1937当時の外務省ではない。
2014年現在の外務省が、である。
「昭和12年7月7日、北京郊外で日中間に軍事衝突(盧溝橋事件)が発生しました。
日中外交当局は南京で善後処理交渉を行いましたが、事件の責任の所在をめぐって双方の主張は平行線をたどりました。
現地では両軍の間に停戦合意が成立しましたが、中国政府は関東軍の山海関集結に対抗して華北方面へ中央軍を北上させたため、17日、日本は中国政府に対して、挑戦的言動を即時停止し、現地解決を妨害しないよう要求しました。
これに対し中国側は19日、日中同時撤兵と、現地ではなく中央での解決交渉を求めました。
その後、北京周辺で日中間の軍事衝突事件が相次いで発生したため、27日、日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った旨を声明、翌28日、華北駐屯の日本軍は総攻撃を開始し、31日までに北京・天津方面をほぼ制圧しました」。
中国による「挑戦的言動」「現地解決を妨害」という事態があり、ゆえに「日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った」「日本軍は総攻撃を開始」云々というロジックは、77年前、すなわち、「大日本帝國」の国号時代とかわってはいない。
ここからはニッポンによる中国の侵略、軍事占領、半植民地化という重大な歴史的事実が、ごそっとえぐりとられている。
なんということだろう。
基本的な歴史的事実という認識の根底がないのだから、もちろん、反省もあるわけがない。
現地責任者であった牟田口連隊長(のちに陸軍中将)が1945年12月、A級戦犯容疑で逮捕された事実の記載もない。
中国による「挑戦的言動」「現地解決を妨害」、ゆえに、「日本政府は自衛行動をとるのやむなきに至った」は、いまのアベ政権でもそのまま再現可能な、「自衛」または「自存自衛」という名の「戦争の論理」以外のなにものでもない。
こんな調子では、かの悪名高い「対華21ヶ条要求」を、現在のニッポン外務省はどう説明するのか。
傀儡国家「満州国」建国をどういちづけるのだ。
満州事変をも「自衛行動」というのだろうか。

このホームページはだれの指示で、だれが書いたのか。
すごいことがおきている。
どうも気流がおかしい。
気圧が尋常ではない。
息が苦しい。
気象病か。
気色わるい。
精神がささくれだっている。
ひとの感情がいきなり爆発したりしている。
神経が剥きでている。
いろんなことが狂いだしている。
欧州、中東、中国、アフリカ。わけのわからないことが横行していないところはない。
基底に狂気じみたなにかがあって、それが連鎖しあい、日々ふくらんでいる。
どこでも極右と民族主義者、国家主義者が台頭している。
歴史が映像のように巻きもどされている。
友人が死刑には反対だといったら、そんなにニッポンがいやなら北朝鮮に行け、と周囲からひどく反発された。
佐藤とかいう評論家が、集団的自衛権行使容認に賛成した公明党を堂々と賞賛している。
なにがおきているのだろうか。
アベ政権支持率は50パーセント以下になったが、まだ40パーセント以上が支持している。
犬とコビトが、ブログをやめることもかんがえてもよいのではないか……などと提案のようなことを、さりげなくいう。
もっとストレートにいえばよいのに。
コビトの父が骨髄性白血病だ。
治療にお金がかかる。
毎日なにかがおきる。
静まるには本を読むしかない。
おなじ本をなんども読む。
〈原ファシストはその潜在的意志を性の問題にすりかえる〉〈男根の代償として武器と戯れる〉〈戦争ごっこは永久の男根願望に起因する〉〈これがマチズモの起源だ〉〈原ファシズムにとって個人は個人として権利を持たない〉〈量として認識される民衆が、結束した集合体として「共通意志」をあらわす〉〈だが、人間存在をどのように量としてとらえたところで「共通意志」をもつことはない〉〈したがって、指導者はかれらの通訳をよそおうだけだ〉〈委託権を失った市民は行動にでることもなく、全体をあらわす一部としてかりだされ、「民衆の役割」を演じるだけだ〉〈こうして、民衆は「演劇的機能」にすぎないものとなる〉――。
エベレストにのぼった。
(2014/07/08)

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