転載【 PUBLICITY 】 1579 :「無責任一代男~青島幸男と植木等の時代」

2007-03-31 09:33:24 | 社会

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青島幸男の〈思想〉は名作『無責任一代男』(映画『ニッポン
無責任時代』の主題歌)に明らかである。

おれはこの世でいちばん
無責任といわれた男
ガキのころから調子よく
ラクしてもうけるスタイル

人生で大事なことは
タイミングにC調に無責任
とかくこの世は無責任
こつこつやる奴ぁご苦労さん!

私は昭和37年夏に『シャボン玉ホリデー』のなかで、カンカ
ン帽、チョビひげ、毛糸の腹まき、ステテコといういでたちで
、丸メガネをかけた植木等が、いきなり、この歌をうたったと
きのショックを忘れることができない。

うたい終わった植木は、カメラから遠ざかりながら、もう一度
、こちらを向いて、「ハイ、ご苦労さん」と言った。

安保の騒動は片づき、東京オリンピックに向って、日本じゅう
が浮き足立っているようなときであった。日本経済はすさまじ
い成長をつづけていた。

小林信彦『日本の喜劇人』p169-170、新潮文庫
第7章「クレージー王朝の治世」から
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■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1579 2007/03/31土■■


▼青島幸男のあとを追うようにして、小松政夫の興行が終わる
のを待つようにして、植木等が死んだ。


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植木等さん死去、肺気腫10年延命拒む
(日刊スポーツ - 03月28日 09:35)

「クレージーキャッツ」のメンバーとして高度成長時代に爆発
的な人気を博したコメディアンで俳優の植木等さんが27日午
前10時41分、都内の病院で呼吸不全のため亡くなった。8
0歳。「お呼びでない?」のギャグや大ヒット曲「スーダラ節
」、映画「無責任男シリーズ」で60年代の日本に笑いを振り
まいた。今年1月に入院し、3月中旬から病状が悪化していた
。故人の遺言で通夜・告別式は密葬で営み、後日、お別れ会を
開く予定。喪主は長男広司(ひろし)さん。植木さんは、妻の
登美子さんと3人の娘さんにみとられながら、静かに息を引き
取った。

実家は三重県の浄土真宗常念寺。住職の父が「平等」にちなみ
「等」と名付けた。小学6年で僧りょ修行のため上京したが、
音楽活動にのめり込み、57年「クレージーキャッツ」に参加
。61年から日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」に出演し「
お呼びでない?」のヒットギャグを生み、故青島幸男さん作詞
の「スーダラ節」も大ヒット。62年からの映画「無責任男シ
リーズ」で明るく調子のいいサラリーマンを演じ、同世代から
圧倒的支持を受けた。

植木さんは、70年代後半から性格俳優として活躍し、85年
には黒沢明監督「乱」に出演。脇役で渋い演技をみせた。最後
の仕事は昨年11月。金沢で1シーンだけ出演した映画「舞妓
Haaaan!!!」(6月公開)。一昨年11月の渡辺プロ設
立50周年パーティーでは、谷が歌い、犬塚がベース、桜井が
ピアノを演奏し、植木さんが「こりゃまた失礼いたしました~
」とセリフを入れて「クレージー-」を再現した。「『また4
人でドラマをしたいね』と話していた。やりたかったなあ」。
かなわぬ夢に終わった。 
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▼「植木等の時代」と呼ばれる時代があったとすれば、それは
既に終わっていたんだなあ、と実感したのはテレビの原稿だ。
28日の各局の朝の報道番組をみてみました。

▼日テレの「Oha!4」の原稿が、4時1分の段階で、彼の
肩書きを「俳優」にしていたのに驚愕。4時2分には「俳優、
コメディアン」になっていたが、順番が逆でしょう。

▼その後にやっている「ズームイン!! SUPER」の原稿
では、なんと「俳優、歌手」になっていた。さらに後にやって
いる「スッキリ!!」でも、一度は出演者が「コメディアン」
と言いながらも、結局原稿は「俳優」だった。

▼フジテレビの「めざにゅ~」はテロップで「コメディアン」
と出たが、アナウンサーが読んだ原稿は「俳優」のみだった。

いちおう書いておくと、日テレ「スッキリ!!」には小松政夫
(元付き人)が電話出演。映像資料は充実していた。

日テレと、フジ「めざにゅ~」の記者は、「植木等とは誰なの
か」を知らなかったのではないか。

▼NHKの「おはよう日本」は「コメディアン、俳優」で一安
心。あとの番組も、だいたい「コメディアン、俳優」だった。
せっかくいろいろ観たので、他の番組の内容メモもいちおう書
いておこう。

▼フジテレビ「とくダネ!」は「おとなの漫画」の映像を放映。
小松政夫が電話出演。去年のインタビュー映像も。

デーブ・スペクターが、当時のテレビのバラエティ番組の「脚
本」の素晴らしさ、完成度の高さを評価。いまは「楽屋話」の
延長だ、と。また、「ドリフもそうだったが、昔は基礎を重視
していた。中身で勝負。その実力が素敵だった」とも。いいこ
と言うね。

▼植木等の訃報は、全スポーツ紙が1面トップで取り上げたの
だが、テレ朝「やじうまプラス」は番組冒頭で、出演者たちが
その全紙を広げて見せた。この番組は、スポーツ紙や全国紙の
記事をそのまま取り上げる体裁なんですね。

「ミュージシャンという枠にとどまらず」(4時50分~)、
「日本を代表するコメディアン、歌手、俳優」(5時36分~
)と的確な表現が原稿に入っていて小気味よかったが(植木等
はギタリスト)、圧巻は、毎日新聞に載った「個人の幸福に関
して何の責任ももたぬ体制に対しては無責任な態度で居直るよ
りない」(作家の小林信彦氏)という一言を紹介したところだ
。この言葉は『日本の喜劇人』に出てくる。

▼テレ朝「スーパーモーニング」では、唯一「コメディアン、
歌手、俳優」と紹介。映像資料も充実。電話取材がダントツで
多かった。鳥越俊太郎のコメントが丁寧でよかった。

なお「スーパーモーニング」は翌29日にも植木等の特集を組
んだ。なべおさみ(ハナ肇の元付き人)、平尾昌晃、すぎやま
こういちらのインタビュー。スタジオには前田武彦が出演。夢
のあった時代でしたね、と司会者が振ると前田は、「夢」が半
分と、「有頂天」が半分だった、と話した。

▼TBS「みのもんたの朝ズバッ!」は、資料映像は充実して
いて、浜美枝が生出演していたが、なんといってもみのもんた
の不遜さが雰囲気をぶち壊していた。みのが植木等を尊敬して
いないことがありありと伝わってくる番組だった。あの傲慢さ
が好きな人にはいい番組なんだろうネ。ぼくはダメだわ。


▼NHKは、「無責任一代男~青島幸男と植木等の時代」を、
「NHKスペシャル」で2時間かけてやるべきだろう。青島幸
男が死んだときには、都知事になったことで取り上げにくかっ
たのかも知れないが、これで遠慮無くできるはずだ。

なぜNHKかというと、自局がやっているバラエティ(という
名のゴミ番組)に、最も遠慮しなくてすむだろうからだ。そし
てNHKの人気番組「美の壺」には谷啓が出演している。

勝手に司会を決めると、永六輔と伊集院光。この世代差を活か
す編集にする。で、徹底的にインタビューするのだ。思いつく
だけでも、谷啓、犬塚弘、小松政夫、伊東四朗、小林信彦、萩
本欽一、坂上二郎、ドリフターズ、三宅裕司、さんま、たけし
、タモリ、談志、まだまだいるだろう(ああ、渥美清といかり
や長介が生きていれば!)。

「クレイジー王朝」がコント55号、ドリフターズの登場など
によって没落する過程。そして、ドリフの次の世代として台頭
したさんま、たけしらの回想を丁寧に構成すれば、クレイジー
・キャッツが目指し、体現した「ドライな喜劇」がこの社会に
定着しなかった理由と背景が、そして何故「コメディアン」「
喜劇役者」という言葉が定着せず、「お笑い」という低劣な言
葉が蔓延ってしまったのか、その理由と背景が、浮き彫りにな
るのではないか。

どこの局がやってもいいが、こういう仕事は、今はおそらくN
HKにしか出来ないのではないかと思う。やってほしいなあ。

植木等主演の最高傑作『ニッポン無責任時代』は今、DVDで
簡単にレンタルできる。物語はくだらないが、彼のとびきりの
「美声」と「勢い」を堪能できる。その画面には、一世風靡、
という言葉を彷彿とさせるスターがいる。因みにぼくがいつも
使う「ニッポン」は、竹中労の言い回しであるとともに、この
軽やかで堂々とした映画の表題からいただいたものだ。

60年代のテレビ番組もDVDにしてくれないかなあ。


▼あとは新聞のコラムから。

中日新聞が3月28日付「中日春秋」で取り上げた。

「役の上での植木さんは、責任感や使命感から解放されたいサ
ラリーマンの夢想を体現した。子どもも、まねをしあうことで
自由というものを味わった気がする▼今は無責任が珍しくない
社会。無責任男に笑えるわけもなく、植木さんの思い出ととも
にあの時代が懐かしい」

▼あとは29日付。何紙か観れなかったものがあるが、ここに
要約したものだけで計26紙にのぼる。いつものとおり、並べ
替えるのは面倒なので読んだ順。


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・毎日新聞「余録」3/29
父は戦前、労働運動や解放運動に身を投じ、また出征兵士
に「戦争は集団殺人だ」と説く反骨の僧侶だった。その父が治
安当局に拘束されると当時小学生だった等少年は父の代わりに
僧衣を身にまとい、檀家を回って経をあげた▲ある日檀家から
帰る途中、近所のいじめっ子らが道に仕掛けた縄で転び、顔を
強打して鼻血を流した。等少年は近くに潜む連中に仕返しした
い衝動を必死でこらえ、泣き声も罵声もあげることなく、血だ
らけの顔のまま静かにその場を立ち去った▲「衣を着た時は、
たとえ子供でもお坊さんなのだから、けんかをしてはいけませ
ん。背筋を伸ばし、堂々と歩かねばなりません」。そんな母の
言葉が等少年の頭にあった。家に帰ると母は何も言わず手当て
をし、血が止まると等少年を抱きしめ「よく辛抱したね」と涙
を流したという

植木さんの訃報を耳にした知人の多くは、デタラメな無責任男
を求道者のようにひたむきに演じた見事な所作をたたえている

「無責任男」という時代の僧衣をまとい、堂々と自らのなすべ
きことをやりとげた生涯である。

・京都新聞「凡語」
無責任男は不愉快なはずなのに、サラリーマンらは腹を抱えて
笑いころげた。いいかげんでお調子者を演じる植木さんの演技
や歌に、サラリーマンとしてのうっぷんを紛らわせたといえる
。かくして植木さんは「サラリーマンは気楽な稼業」と追い打
ちをかけた

・神戸新聞「正平調」
高度経済成長期だった。収入も暮らしも右肩上がりだが、管理
される息苦しさも漂う。そんな世相にカラッとした笑いが合っ
た。植木さんが「見ろよ青い空白い雲、そのうちなんとかなる
だろう」と歌うと、よどむ気分に晴れ間が広がった

・伊勢新聞「大観小観」

・中国新聞「天風録」
谷啓さんらとのクレージーキャッツは、プロの技で裏打ちされ
たコミックバンド。歌にも本物の力が伴っていた

・福井新聞「越山若水」
講談社の「日録20世紀1962」で、映画監督の大島渚さん
は植木さんの映画を「日本の喜劇は、喜劇とはいえお涙頂戴だ
った。でもあの映画は泣き笑いじゃなくて、本当に笑い飛ばし
たところがミソだった」と評した

・岐阜新聞「編集余記」

・北日本新聞「天地人」
「植木等」は本名。「平等」から取った。キリスト教の洗礼を
受け、社会主義や解放運動にかかわり、後に真宗大谷派の
僧になった父、徹之助さんが付けた。平等が人間社会の根本だ
と宣言するこの名を、誇らしく思っていた。だから芸名は付け
ず、本名で一生通した。

・神奈川新聞「照明灯」
植木さんが歌い演じる無責任男は、そうした硬直した集団社会
の価値観に笑いの風穴をあけた。地道な頑張りや競争を否定し
たのではない。「無責任」の異名を借りてこそ、少しばかりは
みだしたっていいじゃないか、と問い掛けた。青い空や白い雲
を見上げるゆとりと喜びを説いた

・新潟日報「日報抄」
小学生のときである。教師の引率で伊勢神宮に行く途中で拾っ
た号外を見て、胸が張り裂けそうになった。治安維持法違反で
逮捕された人々の中に、父がいる▼「人間みな平等」の思いか
ら息子に等と命名した僧侶の父は、被差別の解放運動に身
を投じていた。級友に「共産党」と言われる。その意味も理解
できない子どもの肩に、住職の役目がのしかかった▼学校から
帰ると檀家を回る。軽く見られたのだろう。お布施を減らされ
ることが多かった。そんな夏のある日、貧しい檀家でお経を上
げていた植木さんは、ふと涼しい風が流れてくるのに気付く。
おばあさんが、うちわであおいでくれていた▼お経が終わると
おばあさんは、深々と頭を下げて礼を言う。小学生を一人前の
僧侶として扱う心の持ち主との、初めての出会いだった。「私
の方こそが今、畳に額を付けてお礼を言いたい」と、二十三年
前に出版した「夢を食い続けた男」で述懐している

・河北新報「河北春秋」
青島さんに負けぬ天才だった

・秋田魁新報「北斗星」
「だっこちゃん」が空前のブームとなった翌年の昭和36年。
高度経済成長の波に乗るように、今度は「スーダラ節」が大ヒ
ットした。右手と右足をぶらぶらさせる格好は当時、子供の間
でもはやったほど

・岩手日報「風土計」
平成の世は一転「自己責任」の言葉が幅を利かせる。「無責任
男」がいたならば「ハイそれまでョ」か。

・東奥日報「天地人」
昭和改元の日に生まれた植木さん。一つ下の城山さん。

・北海道新聞「卓上四季」
終戦を伊達で迎えた。学生だったが、農作業の手伝いに動員さ
れていた。登別温泉に出かけ、敬愛していた歌手ディック・ミ
ネさんのショーを聴く。ミネさんから東京に来いよと声をかけ
られたこともあり、音楽の道に入った

・四国新聞
もし今、誰かがかつてのような無責任男を演じても、その映画
はヒットするかどうか。裁量労働制の導入や年功序列の崩壊で
、かつて笑いを誘ったタブーがタブーでなくなっている。

何より世の中、右も左も無責任。まさに「ニッポン無責任時代
」。スクリーンの無責任男をわざわざ見に行く必要なんてない。

・熊本日日新聞「新生面」
日曜日の夜、我々子どもはテレビの前に陣取っていた。双子の
ザ・ピーナツが歌うテーマ曲が流れてくる。「シャボン玉、ラ
ン、ラ、ラン…」。今日はどんな面白いものが飛び出してくる
のか、わくわくしながら画面を見つめていた▼一九六〇年代。
商売をしていた両親は忙しかった。サラリーマンの給料が大幅
に上がったので、商品がよく売れた。日本中が活気に満ちてい
た時代、植木等さんはハナ肇さん率いるクレージーキャッツの
メンバーとして「シャボン玉ホリデー」に現れた▼太い下がり
眉の植木さんは、田舎っぽい感じがした。声がよく、明るかっ
た。「チョイト一杯のつもりで飲んでいつの間にやらハシゴ酒
」「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」。冗談じゃない
よと思いながらも、お父さんたちはくすっと笑っていた

・西日本新聞「春秋」
いまごろ青島さんとどんな話をしているだろう。

・愛媛新聞「地軸」植木等さんの時代
約三カ月前、亡くなった青島幸男さんをしのんで「やはり青島
さんのおかげで今の私がいるんです」

「昭和二万日の全記録」(講談社刊)は「人並みになることに
悪戦苦闘する人々に、時に痛快な、時にホロ苦い、さまざまな
笑いを与えた」と振り返っている

・高知新聞「小社会」
(無責任シリーズについて)「高度経済成長下の管理社会での
下級サラリーマンの悲哀を自嘲(じちょう)的、爆発的に歌と
体で表現した」(キネマ旬報・日本映画俳優全集)。

・朝日新聞「天声人語」
世の中の「無責任感」を一身に背負うという責任感が、あの笑
顔を支えていたのではないか。耳に残る数々の「植木節」は、
戦後の昭和という時を共にする多くの人の道連れであり、応援
歌でもあった。

・讀賣新聞「編集手帳」
雑誌「暮しの手帖」にそのアンケート結果が載ったのは196
2年(昭和37年)の12月である。全国の小学6年生、15
00人に「将来、就きたい職業」を聞いた◆男子の第1位はプ
ロ野球選手でも、パイロットでもなく、「サラリーマン」だっ
た。映画の影響も多少はあったかも知れない。この年の夏、植
木等さん主演の「ニッポン無責任時代」が封切られている

・日経新聞「春秋」
「人類が生きているかぎり、この“わかっちゃいるけどやめら
れない”という生活はなくならない。そういうものを真理とい
うんだ。上出来だ。がんばってこい」「それで腹決まったんだ
けど、歌えば歌うほど、腹が立ってくるというか」(女優沢村
貞子さんとの対談を収めた岩波ブックレットから)

「コツコツやるヤツぁご苦労さん」と笑い飛ばしながら、現実
の植木等は「コツコツ」をバカにしてはいない。それが伝わる
のが人気の秘密だったのだろう。

・産経抄

・東京新聞「筆洗」
七八年に八十三歳で亡くなった父・徹誠(てつじょう)さんは
戦前、浄土真宗大谷派の僧侶ながら、運動と農民運動を
連携させ、三重県における明治以降の三大民衆闘争の一つとい
われた「朝熊(あさま)闘争」を指導、投獄された経歴がある
▼本(『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』)は、妹の
夫で歴史学者の川村善二郎さんとともに、自らの記憶と関係者
からの聞き取りで父の足跡をたどり、北畠清泰さんの協力でま
とめたものだ
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freespeech21@yahoo.co.jp
http://www.emaga.com/info/7777.html
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