犬と日常と絞首刑・作家 辺見 庸/朝日新聞

2009-06-18 09:48:41 | 社会
国家”演出”の儀式 この国に融けこみ 個人は口つぐむ
容量こえる悲しみ <なかったこと>に これでよいのか


私は一匹の小さな黒い犬と毎日をごく静かにくらしている。
私は一日三食を食べ、犬は二食である。ぜいたくはしない。
時々ずいぶん気ばったことをいったり書いたりもするけれど、世間と悶着をおこさぬよう
それなりに気をつかっている。
歳のせいか私は泣かなくなった。犬も無口というのか、あまり吠えない。
できればこの日常が大きく変わることのないように願っている。
私には脳出血の後遺症で右半身に麻痺がある。
犬の排泄物はだから左手で処理している。しんどい。必死である。
だいぶ以前の昼下がりにこんなことがあった。
テレビに尻をむけ前かがみでふうふういいながら犬のトイレを掃除していたとき、短い
ニュースが流れ、背中でそれを聴いた。
その日の午前中に三人の確定死刑囚に刑が執行されたというのだ。
丸太ん棒でしたたか打ちすえられたような衝撃を背に感じた。
ニュースに驚いたのではない。
犬の糞をつまんでいた私の体勢と絞首刑の関係にショックを受けたのだ。
恥辱か罪の影が胸裡をさっとかすめた。
テレビ画面に背をむけたまま犬めと眼が合う。たがいにたがいの眼の奥をのぞきこんだ。
吠えない犬が突然かん高くひと声吠えた。
私が別人のように緊張をはらんだ眼をしていたからだろう。
なにがあったというのではない。たったそれだけの話である。
夕方にはいつもどおりチェット・ベイカーを聴きながら無添加のドッグフードを計量カップで
七十㏄分と粉末サプリメントを犬にあたえた。
日常はそうするうちに屈託をほどき、ゆっくりと凪いでいった。
なにがあったというのでない。それだけの話だ。
ただ、あの姿勢で聴いた死刑のニュースがいまもわすれられない。
私はべつに違法行為をしたわけではない。
いつもどおりのさもない日常をくりかえしていただけだ。
なのに、いうにいえない深い罪か畏れのようなものを感じたのはなぜなのか。
世界には麻痺した身体で犬のトイレを掃除している老人もいれば、おなじ日に絞首刑に
処される人もいる。
二つの事実にはなんらの相関も因果もない。うちわすれればよいではないか。
そうおもわないでもない。だが、呑みこんだ鉛の玉のようにあの日の記憶が心に重たい。
なぜかはわからない。
わからないけれども、あの日、死刑の問題についてなにか大事なヒントをえた気がしている。
ヒントといっても名状は容易でないが、私は心底ぞっとしたのだ。
ややあって想到した。私たちは絞首刑執行のしらせを家族で食事中に知るかもしれない。
恋人とセックスの最中に、はたまた私のように犬の糞の処理中に耳にするかもしれない。
知ったとて、快哉をさけぶ人はまずいないだろうし、食事や恋人との語らいを中断する人も
あまりいはしないだろう。
死刑執行の報にたまゆら暗たんとする人はいるだろうが、しかし、ほどなく日常は完ぺきに
復元することを、じつはだれもがわきまえている。
この間題を過度に詰めない、議論しない、想像しない、はやくわすれる、ことあげしないほうが、
おのれの内面にも世間にも波風たてずにすむことを、じつはこの国のみんなが暗黙のうちに
弁別している。
そういったある種ジャパネスクなたちいふるまいこそ、私たちの日常に滑らかな譜調と
無意識のすさみをもたらしているのではないか。ヒントとはそういったことであ
る。
死刑制度とは、おもえらく天皇制同様に、この国のなにげない日常と世間の一木一草、
はては人びとの神経細胞のすみずみにまでじつによく融けいり、永く深くなじんでいる
ジャパネスクな"文化"でもある。
この国にあっては、したがって死刑制度は予測できる将来にわたり廃止されることはあるまいし
その必要もない、と私がいいたいのではない。まったく逆である。
あの日、いなずまのようなショックを受けて私が犬と顔を見合わせたのは〈いったい、ほんとうに
これでよいのか〉という年来の自問の原点に一瞬たちかえったからである。
それは世間の声を追い風に死刑をためらわずつづける国家への不信だけにとどまらない。
多少の葛藤はしつつも、とどのつまりは膠のような日常と世間に足場をとられている私と犬の
生活への疑念でもあった。
■■
意外に知られていない、そしてあまり知ろうとされてもいない歴史的事実がある。
罰金刑や自由刑などよりはるかな昔から、おそらくは有史以前の原始共同体の起源とともに、
死刑が地球のいたるところですでに法以前の自然の掟として存在していたらしいということだ。
死刑は人の集団化およびアニミズムの発祥ともかさなる人類最古の刑だという説も有力である。
自然の掟は集団の掟でもあっ
た。集団の利益をそこなう者(原初にあっては殺人者よりも近親相姦者や各種の禁忌抵触者
たちだったという見方がある)は死刑に処されるか集団から追放された。
死刑は共同体、宗教、戦争の起源ともどこかで通底する、
こういってよければ、人類史上"普遍的"な行事だったのだ。
人の世のこうした否定しがたい暗部から、いまさしあたり強引に演繹できることが二つある。
一つは、だからこそ、日本や中国や北朝鮮やイランなどの死刑制度には、共同体のことわりに
根ざした永きにわたる人類史的知恵と根拠がある、という考え方。
もう一つは、だからこそ、日本や中国やイランの死刑制度は、原始共同体と本質的には
大差ない野蛮性をあらわに残すものなのであり、早急になんとしても克服しなければならない
という思想。
中国、北朝鮮、イランなどと日本をあえて同列においたのは、処刑のプロセス、方法、多寡こそ
ちがえ、死刑存置という発想では究極的に大きく変わるところがないからである。
私個人はもちろん死刑反対にくみするのだが、ことはそう簡単ではない。
とりわけ日本における死刑制度のありようは、その秘密主義、その隠微、その曖昧、
その多義性、その非論理性においてまことに独特である。
それはなぜかことなる磁極のように天皇制ともどこかで微妙に引きあい、すでに文化や思想、
社会心理の基層部にまでなごやかに融けこんでいるのであり、死刑廃止はしたがって自己像の
解体にひとしいほどむつかしいだろうと私は内心おもっている。
にしても不思議でならないことがある。
ファッション、グルメ、音楽、文学、絵画、旅、エコロジー、現代思想、建築などあらゆる分野に
わたり、滑稽なほどに欧州趣味の日本という国の人びとは、いざ国内で凶悪犯罪がおきるや突如
バタンと戸でもたてるように自閉して、この国にしかありえない、いわば非言語系の感情的な閉域
=世間にたてこもってしまう。
あげく「犯人を極刑に!」という世間の声がマスコミ(とくにテレビ)報道と相乗しつつ勢いをいやまし、
考える個人はそれに怖れをなして口をつぐむかちぢこまってしまうのである。
ときには凶悪事件被告人の弁護側まで、世間から"公共敵"呼ばわりされたりもするのだから、
まるで悪しき社会主義なみである。
こうなると、現代司法の理念や世間の「外」にある客観世界が視界から忽然として消えうせ、
ただ世間という「内」しかこの国には現前しなくなる。
不可解としかいいようがない。世間は新世紀に入ってさえ、じつはまったく社会化していないのである。
■■
さて、欧州好きの日本人のどれだけが以下の事実を知っているのか、これにどのように
反論するのか、私にはいささかの関心がある。
欧州連合(EU)の加盟国はすべて死刑を廃止しており、死刑廃止はEU加盟の条件でもあること。
2002年初夏以降は全加盟国が、戦時をふくむ すべての状況下での死刑の完全廃止を規定した
欧州人権条約・第13議定書の署名国になっていること。
EUの死刑廃止宣言の趣旨は「いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳がそなわって
おり、その人格は不可侵であるという信念に基づく。
これはあらゆる人にあてはまることであり、あらゆる人を守るものだ。
有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も例外ではない。
暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできない」「死刑は最も基本的な人権、すなわち生命にたいする
権利を侵害するきわめて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰なのである」とうたっていること。
日本の司法と世間はこれをせせら笑うのだろうか。
EUの標榜する右のような理念が、かくも永きにわたる人類史的習慣への無謀な「反逆」なのか、
それともあるべき共同体の理想にのっとった英明な「革命」なのか、EUはいったいどうやってこの理念を
実現しえたのか---
せめていま一度なぞってみる価値はある。
EUには移民政策などで救いがたい偽善のあることを私は知っている。
だが、死刑存置派、死刑反対派、無関心派のべつなく、死刑廃絶のことばをみずからの心底に静かに
かさねて、しばし黙考してみることは、死刑にかかわる自己像を知るためにもけっしてむだではない。
世界というよりもっぱら世間にぞくする私たちは、がいして悩むことのできる悩みしか悩まない。耐えることの
できる悲しみしか悲しまない。
おのれの"苦悩容量"をこえる巨きな悩みや悲しみをわれわれは無意識に〈なかったこと〉にしてしまう傾向が
ある。
日常はだからこそ、たとえどんなに累卵の危うきにあっても、表面はいつに変わらぬなにげない日常でありえる。
おなじ文脈で、死刑くらいこの国の日常と文化とそれらのすさみにうまく融けこみ、よくなじんでいる国家的
儀式はない。日本における死刑の執行計画、刑場のありさま、絞首刑の手順、死刑囚の"人選"、
それらの法的根拠は、いまだにほとんど開示されてはいない。
まして死刑執行状況の可視化などもってのほかである。
が、死刑はだれかによって周到に政治的タイミングが選ばれ、いわばひそかに"演出"されている。
セケンはむしろ知らされないことを望んでいるかのようだ。
実相は知らされずに、しかし、殺ってはほしいのだ。
セケンを背にした死刑という表現はかくも繊細であり、陰影に富み、これを美とするか醜とするかはべつにして、
あくまでもジャパネスクなのであり、私たちの心のありようにしんしんとつながっている。
同居する犬が死んだら私はたぶん、さめざめと泣くであろう。しかし明朝だれかが絞首刑に処されたのを
知るにおよんでも、悩乱をつのらせることはあれ、涙を流すまではすまい。
私もまた悲しむことのできる悲しみしか悲しんではいないのだ。
今日もまた私はふうふういいながら左手で犬のトイレを掃除する。
犬と眼が合う。
私はなごみ、同時にぞっとする。
日常がこれでよいわけがない。そう自答する。

*朝日新聞2009.6.17朝刊「オピニオン」欄

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1 コメント

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復活 (ミヤカワ)
2009-06-23 22:54:41
はじめまして。

辺見さん、蘇りました。
いつ以来でしょう、新聞に、読むに値する、を感じたのは。
脳出血で倒れられてる以前の力強さがありました。

世相、現状は辺見さんの憂いを遥かに上回って悪化。
加速度的に転がり落ちています。
死刑だけでなく司法も世間も日常も、
北朝鮮、中国、イランの如きへと逆戻りすることを暗示されています。

もの食う人々での暗示が思い出されます。

より辛辣な言葉を期待しています。

ご回復、何よりです。

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