★☆救う会全国協議会ニュース★前北朝鮮統一戦線部要員の 11 年ぶりの暴露(1)

2008-12-09 18:29:26 | 北朝鮮
すでにお知らせしているとおり、家族会・救う会・拉致議連は、来る12月12日、
国際シンポジウム「北朝鮮の現状と拉致被害者の救出」を開催します(下記)。
シンポでは、金正日重病説、北朝鮮の権力構造の変化、北朝鮮の対外政策等北朝
鮮の現状を探り、今後の展望を踏まえ拉致被害者救出運動のありかたを検討しま
す。

「第一部 北朝鮮情勢と拉致問題について」の報告者として、米国からアーサー
・ブラウン(CIA元アジア部長)氏が来てくださることについても本ニュース
でお伝えした通りです。韓国からの報告者、張哲賢(国家安保戦略研究所専任研
究委員)は元・北朝鮮統一戦線部要員であり、1997年に金正日の直接指示により
行われた韓国宗教人拉致事件について詳細な報告を今年、韓国の雑誌で公表して
います。シンポジウムでは日本人拉致につき証言をする予定です。

シンポジウムの参考資料として、張氏が韓国月刊誌『新東亜』10月号に発表し
た「独占公開、前北朝鮮統一戦線部要員の11年ぶりの暴露、『呉益済(前天道教
教領)は、自発的な 亡命(越北)ではなく拉致』」の日本語訳全文を本ニュース
でお送りします。
(西岡力)

■国際シンポジウム「北朝鮮の現状と拉致被害者の救出」
日時 平成20年12月12日(金)午後1時半~5時半 開場午後1時
会場 星陵会館 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650
主催 家族会・救う会・拉致議連
参加費 無料(事前申込み不要 会場カンパ歓迎)
会場案内 地下鉄有楽町線・半蔵門線・南北線永田町駅下車(6番出口)徒歩3
分(参院議長公邸・北海道東京事務所の坂を下り右側)、千代田線国会議事堂前駅
下車(5番出口)
徒歩5分、銀座線・丸の内線赤坂見附駅下車徒歩6分
連絡先 救う会事務局 03-3946-5780 FAX03-3946-5784
〒112-0013 東京都文京区音羽1-17-11-905



■独占公開、前北朝鮮統一戦線部要員の11年ぶりの暴露

「呉益済(前天道教教領)は、自発的な 亡命(越北)ではなく拉致」

張哲賢(前・北朝鮮統一戦線部要員)

(『新東亜』2008年10月号掲載)



■工作員が書いた偽物の手紙で誘引

私は北朝鮮統一戦線事業部(韓国では統戦部、または統一戦線部というが、固
有名称は統一戦線事業部が正しい)で勤務中、2004年金浦空港を通じ入国した脱
北者だ。そして私は今日ソウルに来て4年ぶりに、私がその過程の一部に関与し、
全過程を見た、呉益済氏の拉致事件を世の中に公開するためにこの文を書く。

この事実を公開するのに4年の時間がかかったのは、今まで国策研究機関で勤
務する特殊な身分だったため、盧武鉉政権の対北政策に反するいかなる証言も公
開的にやれないように統制されていたからであった。そのような状況の下でも、
北朝鮮の実状を知らせなければならないという使命感から、北朝鮮で起きた大型
事件を、匿名の手記の形で『新東亜』などに寄稿したことがあり、外国言論との
匿名のインタービューーを通じて北朝鮮政権の権力構造や実状に関し証言した。
その過程で私は盧武鉉政権の間、公式的な不利益を受けたこともある。

そうしながらも、私が韓国では自ら入北したと知られている呉益済氏が、実は
拉致されたという事実をあえて公表しなかったのは、この事件の性格が、匿名で
公開する場合、事実の可否を検証するのが容易でないだろうという判断のためだっ
た。この事件に関する私の証言の信頼性を証明する次元で、必ず実名で証言でき
るその日を待ってきたのだ。

韓国の大勢の人々、特に一部の北朝鮮専門家まで、北の統戦部を韓国の統一部
と比較したりする。過去の統一部と違い、現在の統一部は南北間の対話と交流を
専担する公式チャンネルとして位置付けられた状況だ。だが、私が務めていた北
の統戦部は、「統一外交」を前面に掲げ、そのシステムを徹頭徹尾赤化統一の次元
で逆利用する二重的な機能の部署だ。もっと的確に言うと、対話や交流も対南工
作の延長線の上で推進することを原則とする対南工作部署だ。

とくに、統戦部は、北朝鮮では唯一体系的かつ総合的な巨大な韓国研究の専門
組織と技術的な心理戦部署などを持っており、これに基づいて対話と交渉を企画
し主導する赤化政策の頭脳部署でもある。また韓国内の親北・左翼組織を管理し
ており、そのような基盤を通じて韓国に直接影響力を行使もする。実際に韓国に
工作員を浸透させる方式に頼る35号室[旧・調査部、訳註]や対外連絡部が出来
ないことを、統戦部は韓国内の親北左翼らを動員して時には攻撃的に遂行もする。

北朝鮮は独裁国家だから、対内的に強度の統制を敷き、対外的には一体感を誇
示できるが、韓国は違う。韓国政府は、野党や市民団体、言論と世論に常に露出
されており評価される。統戦部はこの点を巧みに利用する。私が、呉益済拉致事
件を公開する理由も、統一外交を名分に南北関係の前面に出て露骨的に、あるい
は陰性的な方法で、赤化の目的を実行する統戦部の実態を正確に知らせるためだ。

■真夜中の緊急会議

黄長X【火扁に華、以下同】前労働党秘書が脱北した1997年は、北朝鮮の全域
のあちこちで数多くの餓死者が発生したいわゆる「苦難の行軍」の時期だった。当
時、人民たちは死んだ金日成の政治と比較し、金正日政権に対して露骨に不満を
表し始めた。北朝鮮政権は、数百万の餓死の原因を、「米帝国主義の経済圧殺政
策」と「自然災害」のせいにしたが、北朝鮮式で表現すれば、あまり「教養価値」が
なかった。

沸騰する民心を統制するため北朝鮮政権は「先軍政治」を大々的に宣伝し人民武
力部、保衛司令部を前に出して軍事を強調した暴圧政治を加速化し、粛清の悪循
環が絶えなかった。黄長X書記の越南[韓国亡命・訳註]が伝えられたのはまさ
にこの頃である。これは北朝鮮に、原子爆弾を落としたほどの大きな衝撃を与え
た。黄長X書記の脱北は、最初は人々の口を通じて噂として広まり、国家保衛部
は流言飛語を広める者を探し出すと言い、この事件を隠蔽しようと試みた。この
時までも黄長X書記がまだ韓国に入国せずフィリピンに滞在していたため、金正
日の指示通り再び捕まえて連行して来るか、現場で刺殺すれば、事件を最小化で
きるという打算からであった。

黄長X書記にテロを加えるために国家保衛部と人民武力部、保衛司令部はもち
ろん、35号室、対外連絡部、統一戦線事業部、作戦部のような対南工作部署など、
さらには海外外交公館まで総動員されたが、現場からの報告は「不可能だ」という
ことだった。

仕方なくテロリストらと関連組織などに撤収命令を下した金正日は、その日の
夜、党の書記たちと各部の部長及び第一部部長との緊急会議を開くように指示し
た。黄長X書記の脱北を知っていた高位幹部らは緊張した顔で木蘭館に集まった。
その場に出席した人々から直接聞いた話をそのまま伝えると、高齢の高位幹部た
ちは死色になった顔で震えていた。長い間黄長X書記と一緒に党事業をやってき
たため不安感は一層大きかっただろう。

木蘭館にきた金正日はしばらくの間、沈黙して座っていたそうだ。不安な雰囲
気がもっと加重されたことは問わずして知れることだ。だが、金正日が吐き出し
た言葉は意外だった。

「私が今日ここに来るまで首領様の肖像画と向かい合って座っていた(金正日は
内部行事の際には絶対に誰にも尊敬語は使わない)。首領様に聞いてみた、あの
黄長Xに間違いないないのかと、私たちと一緒に一生を共にしたあの黄長Xなの
かと。私は今日のように辛くて苦しむ時はなかった」。

金正日がため息をついた姿を見た幹部の一人が泣き始めた。そんな時は一緒に
泣くのが忠誠であるはずで、すべての幹部がハンカチを取り出した。雰囲気が高
まると、金正日は叫び出した。

「ここにまた誰か黄長Xのような奴がいるか? 私を裏切り行きたいなら出て行け、
行けというのだ!」

そのとき、対南担当書記である金容淳が立ち上がって涙で叫んだ。

「将軍様、私たちは将軍様と運命を共にします。私たちは死んでも将軍様のひざ
をまくらにして死にます」

すると、すべての幹部が口を揃えて「将軍様、私たちを信じてください」と泣き叫
んだそうだ。

■三人の拉致候補

数日後、私が働いていた統一戦線事業部など関係部署に、関連した論説を書く
ように指示が下された。まもなく『労働新聞』は「革命の裏切り者」、「行きたけ
れば行け、われわれは社会主義を守る」のような以前になかった表現を使い始め
た。このように黄長X書記の脱北は、数十年間北朝鮮を支配してきた社会主義革
命の一貫主義の情緒を、「裏切りと忠誠」という二重構造として浮き彫りにさせた。
それだけではなく、『労働新聞』をはじめ北朝鮮のすべての宣伝物は、将軍様の
ひざを枕にして死ぬという「自決忠誠」を訴えた。これに従い、軍は「自爆精神」、
民は「自決忠誠」、さらには学生や子供たちは「銃爆弾や弾丸の誓い」をするように、
全社会的な運動を行うようになった。

黄長X書記の韓国行きがほぼ確実視され、なおテロは不可能だという現地報告
を受けた1997年3月の中旬頃、金正日は対外連絡部長の姜寛周、作戦部長の呉克
烈、統一戦線事業部長の林東玉、35号室部長(室長)の権煕京を呼び、「黄長X対
応工作」の次元で、彼程度の韓国人士を越北[北朝鮮への亡命、以下では分かり
やすくするため亡命と訳す・訳註]させるか拉致せよ、と指示した。金正日は「
部署の特殊性などは考慮せず、相互連帯して今度の工作を必ず成功させろ」と言っ
た。

この場で、金正日は中国の指導部に対しても原色的な表現を使い、激怒をしば
らく爆発させたそうだ。35号室に対して対中諜報事業を行え、という指示もこの
とき下されたという。これによって大同江区域の衣岩招待所(前平壤市寺洞区域
国際関係大学の後ろに位置する招待所地域で、ここには作戦部長、対外連絡部長、
統戦部長の招待所が密集している)で、日夜対南工作部署長らの連合会議が行わ
れた。

亡命、または拉致する人物の選定は、韓国の事情に詳しく人物リストがよく整
理されている統戦部が担当することになった。1課と2課に分類されている統戦部
の交流課に、直ちにこの課業が下された。1課は、親北及び左翼団体を管理する
課で、ここには全教組、民主労総、汎民連、統一連帯の担当組織がある(以前、
韓総連を担当した組織は、2001年大学生を過去のように理念化することは困難と
いう判断で閉鎖された)。1課は、韓国内の団体を直接管理する課で、いかなる
部署よりも韓国の事情に詳しく、韓国内とよく連繋されていた。

2課は、宗教担当課だ。北朝鮮のキリスト教[プロテスタント・訳註]、カソ
リック、仏教、天道教、社会民主党に偽装した1?5局で構成されたこの課は、い
わゆる韓国との宗教交流を掲げている。2課も、このようなチャンネルを通じて
韓国について相当なレベルで把握しており、内的関係を構築している。また、平
壤第2百貨店の隣の、看板もない建物にある南朝鮮問題研究所も人物の選定に加
わった。統戦部傘下であるこの研究所は、韓国の政治、経済、軍事、社会文化の
研究や分析、予測・対策報告書を生産する研究所であり、人物分析及び管理は基
本だ。

統戦部は、拉致疑惑を受けないように自発的な亡命として誘導するためには、
越南者出身[本来北朝鮮に住んでいて、分断時期か朝鮮戦争中などに韓国に逃げ
た者・訳註]であるか、最小限北朝鮮に縁故者がいる人を対象にしなければなら
ないという結論を出した。人物選定の範囲が、1950-60年代の越南者などに絞ら
れると、思想性向分析に入った。左翼性向の人士を亡命させる場合、韓国政局に
与える波及効果は大きくなりえない。反面、右翼性向の人士は攻略し難い、と判
断した統戦部は、宗教界が時間的にも可能性から見ても最も適合すると判断した。
一方、以前北朝鮮と連携があった人々、あるいは統戦部が北朝鮮内の縁故者を通
じて工作次元で接近した人物リストからも選別作業を進めた。

その結果、呉益済と他の二人(彼らは実名を明かさないことにする)にするとい
う最終結論に至った。統戦部が呉益済を指名した根本的な理由は、柳美瑛・天道
教青友党委員長が1993年10月、ソウル-平壤交換訪問及び東学革命100周年記念
行事の共同主催協議のため中国北京を訪問した時、呉益済に北朝鮮の平安南道成
川に住んでいる本妻と娘の安否を伝えたことがあったからである。

そもそも、このような工作は、在北平和統一促進協議会(現在、平壤大劇場の
後ろの「祖平統」の建物の中に、平壤駐在の韓国民族民主戦線代表部と一緒に入っ
ている)の主な業務だった。在北平和統一促進協議会は、亡命者で構成され、韓
国にいる縁故者に手紙を発送したり、放送心理戦や直接接触などを通じて人物を
包摂する仕事を担当している。だが、交流という公式チャンネルを通じても人物
の包摂を推進してきたので、統戦部は柳美瑛に呉益済の心理情緒を打診する次元
で、成川に住む本妻と娘の消息を伝えさせたのだ。

当時、柳美瑛からの伝言を聞いた呉益済は、非常に感情的な反応を見せ、統戦
部はこの点を重視し、彼を工作次元の包摂対象の名簿にすでに載せた状態だった。
呉益済と他二人を亡命させるか拉致するという戦術対策案が金正日に報告された。
金正日は三人に分散させず、一人を選択し、間違いなく成功させろと指示し、最
も重要なことは黄長Xの脱北衝撃を最小化するため時間を最大限短縮することだ
と言った。

■「どうして、こともあろうにとうもろこし畑で・・・」

工作対象を一人に絞れ、という金正日の指示で、35号室と対外連絡部、統戦部
は3人をめぐってお互いに意見が食い違った。35号室と対外連絡部は、呉益済で
はなく他の人を固執した。現職であり海外への誘引も可能だということだった。
反面、呉益済の場合すでに公式の肩書きがない状況であるので波及効果が落ち、
しかも金大中当時新政治国民会議総裁と連携している人であったため、拉北した
後その被害が大統領選挙を控えている金大中総裁に及ぶかも知れないということ
だった。しかし、統一戦線事業部の第1副部長の林東玉は、時間を短縮すること
が最優先だ、と言った金正日の指示に従うためには最も適合な対象は呉益済だと
固執し、結局彼の意見が通った。

先決条件は、まず呉益済を海外に誘引することだった。この部分は統戦部が担
当することとし、亡命偽装まで統戦部が担当すると結論がなされた。拉致の実行
は、35号室、対外連絡部、作戦部が担当することにした。林東玉は、直ちに祖国
平和統一書記局の安京浩[別名、安炳洙・訳註]を実務責任者に任命した。一方、
35号室と対外連絡部は、アメリカと日本、中国、ソウルの現地にある工作ライン
をどのような方法で呉益済に集中させるか、拉致疑惑をかわす偽装形態とルート
の確保のための戦術は何かについて協議に突入した。

具体的な戦術案の報告を受けた金正日は、その最初のページに、「今回の機会
に党の対南工作部署長たちの能力を検証する」と親筆でサインした。その圧迫感
がいかに重かったか、呉益済拉致工作期間中、対南工作の部署長たちは退勤せず、
衣岩招待所で寝泊りしながら工作を指揮した。祖国平和統一書記局の局長安京浩
は、祖平統と各連絡所の優秀人力で実務陣を構成し、金正日に必ず今度の作戦を
成功させるという決議文まで作成し、他の部署との差別性を強調した。

呉益済を誘引するための方法として、安京浩は写真と手紙を用意させた。この
ため祖国平和統一委員会の職員たちを平安南道の成川に行かせ、呉益済の本妻と
娘、老母の写真を撮って来るようにした。これにはエピソードも一つある。呉益
済の本妻と娘は、越南者の縁故者であるため、北朝鮮での最悪の暮らしをしてい
た。写真を撮ろうとしてもまともな服もないぐらいだった。このため祖平統要員
らは、56連絡所から日本の古着を準備して行った。56連絡所の上級部署は統戦部
の56課であるが、56課は在日朝鮮総連の担当課であり、総連と一緒に総連の基地
を利用した外貨稼ぎの会社も持っている。当時、北朝鮮では中古商品の輸入を統
戦部56課がほぼ独占していた。

祖平統職員たちは、日本にいる統戦部傘下のカンナム貿易会社から持ってきた
古着を持って成川へ向かった。古着の準備までは完璧だったが写真の背景が問題
だった。祖平統要員らが持ってきた写真に対して林東玉は、後日私に私的な席で
このように説明した。

「写真を撮るところがなくて、こともあろうに田舎臭いとうもろこし畑を背景
にして撮って来たのだ。私がその問題を指摘し怒った。1分1秒が惜しい時に、
写真を撮り直さなければならなかった」。

北朝鮮は道路事情がひどくて、1回出張することは容易ではなかった。祖平統
職員たちは林東玉が出してくれた車に乗って再び成川に行って、白く塗ったアパー
トの壁を背景にして写真を撮って戻ってきた。持って行った古着も回収して持っ
て戻って来たぐらい「越南者」家族に対して当時の職員たちはひどい敵対的な心理
を持っていた。

写真が完成すると、安京浩は平壤市中区域リョンファ洞にある101連絡所に呉
益済の妻と娘の名前で手紙を書くように指示した。101連絡所は、「対南文化連絡
所」であって、韓国の作家や詩人の名義で新聞、映像、小説、詩集などを偽装制
作して1970年代から民主化運動陣営や韓国の大学街へ浸透させることを主な業務
としていた。

呉益済へ送る手紙は、政治・理念的な勧誘より感性的な誘導が優先であるとい
う判断が下され、101連絡所の5局19部(詩・文学部署)の朴チョルが作成を担当し
た。

呉益済の本妻の名義の手紙の主な内容は、「たった一回も再婚せず、統一のそ
の日を待って、老母と一緒に夫を待ち続けてきたある女性の長い何十年の歳月」
に関する話だった。娘の名で書かれた手紙は、「今まで母が未亡人の悲しみと涙
を噛みながら、おばあさんの世話をしながら一人で苦労してきた話と、父の顔も
知らずに成長してきた娘の悲劇的な心情」を吐いた。特に、呉益済の本妻の手紙
に書かれた老母の話には「死ぬ前一度でも息子の顔が見たい」という切実さが満ち
溢れていた。

そのように何度かの検証や繰り返しを経て統戦部が手紙を完成した。だが、こ
の手紙の内容は多くの部分が事実と異なった。まず、呉益済氏の本妻はそれまで
二度結婚し、娘もそのため姓を二度も変えなければならなかった。また越南者の
家族だという理由で彼らが受けた虐待は手紙に一文字も反映されなかった。

1997年5月頃、統戦部の手紙は、対外連絡部の工作ラインを経て韓国内の現地
35号室の工作ラインを通じて呉益済氏に渡された。呉益済氏が後日、北朝鮮にき
て告白したところによると、彼はその手紙と写真を見て、トイレの便器の上に座っ
て1時間も泣いたそうだ。




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