テレビ朝日の精力的な取材により、日本の原爆開発計画の輪郭がほぼ明らかになりました(注1)。その番組をもとに全体計画の全貌に迫りたいと思います。
1943年初、日本の原爆開発は、東条英機首相の「原子爆弾により今次大戦の死命
が決される」という大号令のもとで本格的に推進されました。開発を主導したのは陸
軍省および海軍省でした。両省は、縦割り組織そのままに、それぞれが独立して開発
を推進しました。当然、人的資源や物資、予算、開発成果などすべてが分散されまし
た。
それらのケースを具体的に見ることにします。
1.海軍のプロジェクト
1943年春、海軍は原爆開発を京都帝国大学の荒勝文策研究室に命じました。荒勝
教授は原子核物理学の専門家であり、ウラン235の1原子が核分裂する時に放出され
る中性子の数は平均2.5個であることをほぼ正しく測定した研究者でした。
その中性子は他のウラン235に衝突して核分裂の連鎖反応を引きおこしますが、
その反応をコントロールしない原爆は、一瞬にしてとてつもない破壊力、殺傷力を生
みだし、強力な大量殺戮兵器になります。
京都大学の原爆開発はF研究と名づけられ、予算は60万円、現在の価値でいうと
2億円が当てられました。そのメンバーには、後日ノーベル賞を受賞した湯川秀樹
や、前回紹介した清水栄などが加わりました(注2)。
清水は、1944年冬、上海で酸化ウラン 50kgを購入しましたが、問題はそれから
どのようにウラン235を濃縮するかでした。京大が考えた濃縮方法は遠心分離法でし
た。
その原理は洗濯機の脱水槽と同じで、ガス化したウランを超高速の遠心分離機に
入れ、わずかに重さの違うウラン235と238を少しずつ分離し、それを何段もつなげて
運転し、ウランを濃縮します。現在ではこの濃縮方法が主流になりました。
濃縮の原理は簡単ですが、当時、超高速の遠心分離機を製造するのは至難でし
た。ちなみに、通常の交流モーターの回転数は 60ヘルツ地区では原理的に毎秒 60回
転が限界であり、これに増速ギヤーをつけても毎秒1万回転で回すのはかなり困難で
す。
ところが、ウラン濃縮用の遠心分離機では毎秒10万回転が必要とのことでした。
清水氏が描いた遠心分離機のポンチ絵は、同氏自身が番組で証言したように「机上の
空論」に終り、ウランの濃縮実験すら行われませんでした。
2.陸軍のプロジェクト
1941年、陸軍の鈴木辰三郎中佐が、世界的に著名な理化学研究所の仁科芳雄を訪
問し、原爆開発を打診したのが皮切りでした。
これを受けた仁科は原爆の偉力を計算して、通常火薬18,000トンに相当するとの
見解を 1943年初、陸軍の安田中将に示しました。この頃から原爆開発の「ニ号研
究」が正式にスタートしました。予算は2,000万円、60億円相当の巨費が当てられま
した。予算額だけ見ても、日本政府の期待がいかに大きかったかがわかります。
当時の戦況ですが、日本はミッドウェー海戦に惨敗し、サイパンで全滅し、米軍
の本土空襲が目前に迫っていました。日本軍は神風にたよるわけにもいかず、起死回
生の新兵器として原爆開発に一縷の望みを託しました。それだけに陸軍も必死でし
た。原爆関連の技術将校を11人も理化学研究所へ派遣し、二号研究を支援・督促しま
した。
理化学研究所の研究体制ですが、仁科は若い研究者を下記のような班に分けまし
た。
(1) 化学班、木越邦彦
原爆製造の第一ステップは、イエローケーキと呼ばれる酸化ウランからガス化の
容易な六フッ化ウランを製造することにあります。1944年春、木越はセトモノの釉薬
に使う硝酸ウラニルから、困難の末に六フッ化ウランを製造するのに成功しました。
ついで量産工程を確立する必要がありますが、陸軍化学班の川村清がいかに協力
しようとも、予算や物資が払底していた日本では、試験管レベルが精一杯だったよう
でした。
1945年4月、理化学研究所が爆撃されるや、木越は研究室を山形県にある山形高
校の理科室へ移し、そこで細々と六フッ化ウランを製造しました。製造量は 8kgに達
したとのことですが、原爆1個を製造するには数トン必要だったので、成果は雀の涙
ほどの微々たる量でした。
(2) 分離班、竹内征
原爆開発における最大の難関は、六フッ化ウランからいかにウラン235を濃縮す
るかにありました。その濃度を 0.7%から 90%以上に濃縮する方法ですが、仁科は
熱拡散法を採用しました。その際、誰でも思いつく、今日主流の遠心分離法を採用し
なかったのは、当時の技術では手が届かなかったためでしょうか。
番組では竹内が画いた分離筒のスケッチが紹介されましたが、それは数メートル
の長さの二重円筒からなり、銅でできた内筒をヒーターで熱する一方で外筒を冷や
し、温度差を利用して軽いウラン235を上方へ拡散させる構造でした。
分離筒は44年2月に完成しましたが、濃縮は最後まで成功しませんでした。濃縮
度の測定方法がまずかったのか、あるいは分離筒の設計計算が間違っていたのか、と
もかく徒労に終りました。
一般に、軽いガスは上に、重いガスは下に集まるはずだと思われがちですが、こ
れは時には正しくありません。たとえば、空気は重さが二倍も違う窒素ガスと炭酸ガ
スが一様に混ざっており、決して重い炭酸ガスが地表面に集まっているわけではあり
ません。ましてや、重さがたった1パーセントしか違わないウラン235と238を熱拡散
で分離するのは困難を極めたことでしょう。
ちなみに他の濃縮方法ですが、今から数十年前はガス拡散法が主流でした。圧縮
した六フッ化ウランのガスを直径が100オングストロームくらいの無数の細孔をとお
してウランを濃縮しましたが、その技術も戦時中は不可能だったことでしょう。
ウランの濃縮研究は大きな壁に突きあたっていましたが、陸軍の鈴木辰三郎中佐
は最後まで濃縮をあきらめませんでした。理化学研究所が爆撃されるや、研究室を大
阪中之島の大阪帝国大学へ移し、そこで巨大な分離筒を3本製作しました。しかし、
苦労して製作した分離筒は稼働することはありませんでした。
設備が十分でない大阪大学では、毒ガスが発生する恐れのある危険な六フッ化ウ
ランを扱いかねていたようでした。そのうち、空襲による停電で研究の続行が不可能
になりました。
しかし、執念の鈴木は研究室を兵庫県尼崎市にある住友金属に移し、わずかに残
る銅や鉄で分離筒を5本製作しました。そこも空襲で研究続行が不可能になるや、鈴
木は三重県名張の実家で研究を続行したとのことでした。こうした熱意だけは、キュ
リー夫人のラジウム発見にかけた熱意に劣らないようです。
戦後、鈴木は雑誌に秘話「完成寸前にあったニッポン製原子爆弾の全貌」を雑誌
に発表しましたが(注3)、自分の研究が必ずや成功すると夢みていたようでした。
こうして、原爆開発の核心となる濃縮は夢物語に終りました。
(3) 検出班、山崎文男
ウランの濃縮が成功したかどうかの判定は、検出班がサイクロトロンを用いてお
こないました。この装置は感度にすぐれ、かつて理化学研究所ではこの装置で核実験
で発生したウラン237を検出したこともありました。
最初の検出は 1944年11月におこなわれ、濃縮は失敗と判定されました。最終的
には 1945年5月に測定が行われ、やはり「ネガティブ」との判定が出されました。こ
の結果をうけ、陸軍は二号研究の中止を決定しました。二号研究は完全な失敗に終り
ました。
(4) 原料班、飯盛里安
原爆の原料になる酸化ウランは、下記のように各地から集められました。
○マレー半島
スズの鉱山から出る鉱石のアマンが 0.1%のウランを含有
○朝鮮半島
黒砂(ピッチフレンド)中のモナズ石が 0.5%のウランを含有
○アメリカ
別目的で輸入しておいたカルノー石から酸化ウランを300kg抽出
○ドイツ
ヒトラーの協力を得てウラン560kgを潜水艦Uボートで運ぶも、ドイツの降伏に
よりアメリカに押収される
○日本国内
福島県石川町でとれるサマルクス石が酸化ウランを20%含有、石川中学校の生徒
を動員して採掘。原料班も石川町へ移転
3.結論
アメリカ公文書館に保管されている極秘資料「スネル レポート」には「日本は
終戦の3日前に原爆を完成し、その実験に成功した。色鮮やかな蒸気が成層圏内に巻
き起こった」と記されました。
このソースを元にしてか、アメリカの新聞 The Atlanta Constitution は、
"Japan Developed Atom Bomb"(1946.10.3)「日本は原爆を開発した」と題する記事を
掲載しました。それによると、1945年8月12日、北朝鮮の興南沖で閃光とキノコ雲を
伴った大爆発があったとのことでした。
これらは、アメリカ軍が日本軍将校・若林を尋問した内容をもとに書かれたとさ
れますが、若林の供述を裏づける資料は何一つありません。たしかに、キノコ雲は原
爆特有の雲ですが、その一方で、興南で核爆発に伴う被害が知られていないことか
ら、核爆発が実際にあったとみるのはむずかしいようです(注3)。
さらに、上記に書いたような日本の研究水準からすると、日本の原爆は完成する
目途は皆無で、五里霧中の状態でした。テレビ朝日の番組もスネル レポートは誤り
で、日本は原爆を完成していなかったと結論づけました。
原爆開発に失敗した仁科博士は、広島に新型爆弾が落とされたことを知った時、
開発失敗の責任を感じて「文字どおり腹を切る時がきた」と記しました。同時に、か
れは日本が頓挫した原爆製造をアメリカの科学者が成し遂げた事実にたいへんな
ショックを受けたようでした。
そのころ、仁科は原爆を確認するために広島に行きましたが、そこで一面廃墟と
化した市街地を目の当たりにして原爆の恐ろしさをこう記しました。
--------------------
この(核分裂の)エネルギーが広島や、長崎にあの通りの暴威を振ひ潰滅をもた
らしたのである。これでも解る通り、原子核の研究といふ最も純学術的の、しかも何
等応用ということを目的としない研究が、太平洋戦争を終結せしむる契機を作った最
も現実的な威力を示すことになったのである。
これは如何なる外交よりも有力であったといはねばならぬ。科学が現代の戦争と
いはず文化といはず、凡ての人類の活動上、如何に有力なものであるかといふことを
示す一例である。
更に原子爆弾の今後の発達は恐らく戦争を地球上より駆逐するに至るであらう。
否、吾々は速やかに戦争絶滅を実現せしめねばならぬ。・・・原子爆弾は最も有力な
戦争抑制者といはなければならぬ(注4)。
--------------------
仁科は原爆の脅威をつぶさに見て、原爆は「太平洋戦争を終結せしむる契機を
作った」と語りましたが、これはアメリカの主張「原爆が対日戦の終結を早めた」と
いう主張に一脈つうじるものがあります。
それほどに核の脅威を重大にとらえた仁科は、核兵器の脅威が戦争を抑制すると
いう核抑止論者になってしまいました。残念なことに、そのような核抑止論がその後
の世界的な流れになってしまい、核兵器をもつ国がアメリカ以外にもぞくぞく登場
し、最近では遺憾にも北朝鮮までもが核保有国であることを宣言するまでになりまし
た。
ま、核兵器が毛沢東のいう「張り子の虎」にとどまり、核兵器が使用されない限
り核抑止論も一理あるのですが、いざ戦争が始まると軍人は戦争勝利を口実にとかく
暴走しがちです。たとえば、劣化ウラン弾を開発したブラー博士はこう語りました。
「さまざまな危険があることは知っている。しかし、軍の仕事は戦争に勝つことに
ある。そのためには最も優れた兵器を提供しなければならない(注5)」
勝つためには手段や兵器を選ばない、これが軍人の共通した根本思想です。そう
した暴論は朝鮮戦争(1950)当時にも見ることができます。朝鮮戦争を指導したマッ
カーサー元帥は、アメリカが満州に原爆を30発おとせば戦争に勝てるという計画を
立案しました。
この計画に反対して、トルーマン大統領はマッカーサーを解任して事なきを得ま
したが、この世に核兵器がある限り、それが実戦に使用される危険性は常に存在しま
す。
また、軍人を抑えるべき政治家にしても、本当は戦争はしてはならないと考えて
いても、時には軍人を抑えるどころか、かけひきから往々にして「戦争も辞さない」
という発言をしかねません。
さらに始末が悪いことに、そうした勇ましい発言は、えてして民衆から拍手喝采
を受け、歓迎されがちなので、成りゆきは予断を許しません。
あるいは、戦争と明言しなくても、政治屋は「自衛のために」を大義名分に「先
制攻撃」などを口走ったりするものです。ともかく、情勢の成りゆき次第でおろかな
戦争は起きるし、同時に危険な核兵器使用も起きかねません。
そうした愚を避けるためにも、人類を破滅に導く恐れのある核兵器は廃絶される
べきであるし、また、そもそも戦争自体が放棄されるべきです。
こうした観点から私は日本の「非核三原則」と、戦争の放棄をうたった「平和憲
法」を世界に誇るべき「道しるべ」として高く評価しています。
(注1)テレビ朝日、ザ・スクープスペシャル「終戦61年目の真実、幻の原爆開発計
画」2006.8.6
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/
(注2)半月城通信「日本の核兵器、過去と未来」
http://www.han.org/a/half-moon/hm121.html#No.912
(注3)半月城通信「日本の原爆開発」
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.834
(注4)中央公論社『自然』300号記念、1971, P15
(注5)NHKスペシャル番組「調査報告 劣化ウラン弾」2006.8.6
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
1943年初、日本の原爆開発は、東条英機首相の「原子爆弾により今次大戦の死命
が決される」という大号令のもとで本格的に推進されました。開発を主導したのは陸
軍省および海軍省でした。両省は、縦割り組織そのままに、それぞれが独立して開発
を推進しました。当然、人的資源や物資、予算、開発成果などすべてが分散されまし
た。
それらのケースを具体的に見ることにします。
1.海軍のプロジェクト
1943年春、海軍は原爆開発を京都帝国大学の荒勝文策研究室に命じました。荒勝
教授は原子核物理学の専門家であり、ウラン235の1原子が核分裂する時に放出され
る中性子の数は平均2.5個であることをほぼ正しく測定した研究者でした。
その中性子は他のウラン235に衝突して核分裂の連鎖反応を引きおこしますが、
その反応をコントロールしない原爆は、一瞬にしてとてつもない破壊力、殺傷力を生
みだし、強力な大量殺戮兵器になります。
京都大学の原爆開発はF研究と名づけられ、予算は60万円、現在の価値でいうと
2億円が当てられました。そのメンバーには、後日ノーベル賞を受賞した湯川秀樹
や、前回紹介した清水栄などが加わりました(注2)。
清水は、1944年冬、上海で酸化ウラン 50kgを購入しましたが、問題はそれから
どのようにウラン235を濃縮するかでした。京大が考えた濃縮方法は遠心分離法でし
た。
その原理は洗濯機の脱水槽と同じで、ガス化したウランを超高速の遠心分離機に
入れ、わずかに重さの違うウラン235と238を少しずつ分離し、それを何段もつなげて
運転し、ウランを濃縮します。現在ではこの濃縮方法が主流になりました。
濃縮の原理は簡単ですが、当時、超高速の遠心分離機を製造するのは至難でし
た。ちなみに、通常の交流モーターの回転数は 60ヘルツ地区では原理的に毎秒 60回
転が限界であり、これに増速ギヤーをつけても毎秒1万回転で回すのはかなり困難で
す。
ところが、ウラン濃縮用の遠心分離機では毎秒10万回転が必要とのことでした。
清水氏が描いた遠心分離機のポンチ絵は、同氏自身が番組で証言したように「机上の
空論」に終り、ウランの濃縮実験すら行われませんでした。
2.陸軍のプロジェクト
1941年、陸軍の鈴木辰三郎中佐が、世界的に著名な理化学研究所の仁科芳雄を訪
問し、原爆開発を打診したのが皮切りでした。
これを受けた仁科は原爆の偉力を計算して、通常火薬18,000トンに相当するとの
見解を 1943年初、陸軍の安田中将に示しました。この頃から原爆開発の「ニ号研
究」が正式にスタートしました。予算は2,000万円、60億円相当の巨費が当てられま
した。予算額だけ見ても、日本政府の期待がいかに大きかったかがわかります。
当時の戦況ですが、日本はミッドウェー海戦に惨敗し、サイパンで全滅し、米軍
の本土空襲が目前に迫っていました。日本軍は神風にたよるわけにもいかず、起死回
生の新兵器として原爆開発に一縷の望みを託しました。それだけに陸軍も必死でし
た。原爆関連の技術将校を11人も理化学研究所へ派遣し、二号研究を支援・督促しま
した。
理化学研究所の研究体制ですが、仁科は若い研究者を下記のような班に分けまし
た。
(1) 化学班、木越邦彦
原爆製造の第一ステップは、イエローケーキと呼ばれる酸化ウランからガス化の
容易な六フッ化ウランを製造することにあります。1944年春、木越はセトモノの釉薬
に使う硝酸ウラニルから、困難の末に六フッ化ウランを製造するのに成功しました。
ついで量産工程を確立する必要がありますが、陸軍化学班の川村清がいかに協力
しようとも、予算や物資が払底していた日本では、試験管レベルが精一杯だったよう
でした。
1945年4月、理化学研究所が爆撃されるや、木越は研究室を山形県にある山形高
校の理科室へ移し、そこで細々と六フッ化ウランを製造しました。製造量は 8kgに達
したとのことですが、原爆1個を製造するには数トン必要だったので、成果は雀の涙
ほどの微々たる量でした。
(2) 分離班、竹内征
原爆開発における最大の難関は、六フッ化ウランからいかにウラン235を濃縮す
るかにありました。その濃度を 0.7%から 90%以上に濃縮する方法ですが、仁科は
熱拡散法を採用しました。その際、誰でも思いつく、今日主流の遠心分離法を採用し
なかったのは、当時の技術では手が届かなかったためでしょうか。
番組では竹内が画いた分離筒のスケッチが紹介されましたが、それは数メートル
の長さの二重円筒からなり、銅でできた内筒をヒーターで熱する一方で外筒を冷や
し、温度差を利用して軽いウラン235を上方へ拡散させる構造でした。
分離筒は44年2月に完成しましたが、濃縮は最後まで成功しませんでした。濃縮
度の測定方法がまずかったのか、あるいは分離筒の設計計算が間違っていたのか、と
もかく徒労に終りました。
一般に、軽いガスは上に、重いガスは下に集まるはずだと思われがちですが、こ
れは時には正しくありません。たとえば、空気は重さが二倍も違う窒素ガスと炭酸ガ
スが一様に混ざっており、決して重い炭酸ガスが地表面に集まっているわけではあり
ません。ましてや、重さがたった1パーセントしか違わないウラン235と238を熱拡散
で分離するのは困難を極めたことでしょう。
ちなみに他の濃縮方法ですが、今から数十年前はガス拡散法が主流でした。圧縮
した六フッ化ウランのガスを直径が100オングストロームくらいの無数の細孔をとお
してウランを濃縮しましたが、その技術も戦時中は不可能だったことでしょう。
ウランの濃縮研究は大きな壁に突きあたっていましたが、陸軍の鈴木辰三郎中佐
は最後まで濃縮をあきらめませんでした。理化学研究所が爆撃されるや、研究室を大
阪中之島の大阪帝国大学へ移し、そこで巨大な分離筒を3本製作しました。しかし、
苦労して製作した分離筒は稼働することはありませんでした。
設備が十分でない大阪大学では、毒ガスが発生する恐れのある危険な六フッ化ウ
ランを扱いかねていたようでした。そのうち、空襲による停電で研究の続行が不可能
になりました。
しかし、執念の鈴木は研究室を兵庫県尼崎市にある住友金属に移し、わずかに残
る銅や鉄で分離筒を5本製作しました。そこも空襲で研究続行が不可能になるや、鈴
木は三重県名張の実家で研究を続行したとのことでした。こうした熱意だけは、キュ
リー夫人のラジウム発見にかけた熱意に劣らないようです。
戦後、鈴木は雑誌に秘話「完成寸前にあったニッポン製原子爆弾の全貌」を雑誌
に発表しましたが(注3)、自分の研究が必ずや成功すると夢みていたようでした。
こうして、原爆開発の核心となる濃縮は夢物語に終りました。
(3) 検出班、山崎文男
ウランの濃縮が成功したかどうかの判定は、検出班がサイクロトロンを用いてお
こないました。この装置は感度にすぐれ、かつて理化学研究所ではこの装置で核実験
で発生したウラン237を検出したこともありました。
最初の検出は 1944年11月におこなわれ、濃縮は失敗と判定されました。最終的
には 1945年5月に測定が行われ、やはり「ネガティブ」との判定が出されました。こ
の結果をうけ、陸軍は二号研究の中止を決定しました。二号研究は完全な失敗に終り
ました。
(4) 原料班、飯盛里安
原爆の原料になる酸化ウランは、下記のように各地から集められました。
○マレー半島
スズの鉱山から出る鉱石のアマンが 0.1%のウランを含有
○朝鮮半島
黒砂(ピッチフレンド)中のモナズ石が 0.5%のウランを含有
○アメリカ
別目的で輸入しておいたカルノー石から酸化ウランを300kg抽出
○ドイツ
ヒトラーの協力を得てウラン560kgを潜水艦Uボートで運ぶも、ドイツの降伏に
よりアメリカに押収される
○日本国内
福島県石川町でとれるサマルクス石が酸化ウランを20%含有、石川中学校の生徒
を動員して採掘。原料班も石川町へ移転
3.結論
アメリカ公文書館に保管されている極秘資料「スネル レポート」には「日本は
終戦の3日前に原爆を完成し、その実験に成功した。色鮮やかな蒸気が成層圏内に巻
き起こった」と記されました。
このソースを元にしてか、アメリカの新聞 The Atlanta Constitution は、
"Japan Developed Atom Bomb"(1946.10.3)「日本は原爆を開発した」と題する記事を
掲載しました。それによると、1945年8月12日、北朝鮮の興南沖で閃光とキノコ雲を
伴った大爆発があったとのことでした。
これらは、アメリカ軍が日本軍将校・若林を尋問した内容をもとに書かれたとさ
れますが、若林の供述を裏づける資料は何一つありません。たしかに、キノコ雲は原
爆特有の雲ですが、その一方で、興南で核爆発に伴う被害が知られていないことか
ら、核爆発が実際にあったとみるのはむずかしいようです(注3)。
さらに、上記に書いたような日本の研究水準からすると、日本の原爆は完成する
目途は皆無で、五里霧中の状態でした。テレビ朝日の番組もスネル レポートは誤り
で、日本は原爆を完成していなかったと結論づけました。
原爆開発に失敗した仁科博士は、広島に新型爆弾が落とされたことを知った時、
開発失敗の責任を感じて「文字どおり腹を切る時がきた」と記しました。同時に、か
れは日本が頓挫した原爆製造をアメリカの科学者が成し遂げた事実にたいへんな
ショックを受けたようでした。
そのころ、仁科は原爆を確認するために広島に行きましたが、そこで一面廃墟と
化した市街地を目の当たりにして原爆の恐ろしさをこう記しました。
--------------------
この(核分裂の)エネルギーが広島や、長崎にあの通りの暴威を振ひ潰滅をもた
らしたのである。これでも解る通り、原子核の研究といふ最も純学術的の、しかも何
等応用ということを目的としない研究が、太平洋戦争を終結せしむる契機を作った最
も現実的な威力を示すことになったのである。
これは如何なる外交よりも有力であったといはねばならぬ。科学が現代の戦争と
いはず文化といはず、凡ての人類の活動上、如何に有力なものであるかといふことを
示す一例である。
更に原子爆弾の今後の発達は恐らく戦争を地球上より駆逐するに至るであらう。
否、吾々は速やかに戦争絶滅を実現せしめねばならぬ。・・・原子爆弾は最も有力な
戦争抑制者といはなければならぬ(注4)。
--------------------
仁科は原爆の脅威をつぶさに見て、原爆は「太平洋戦争を終結せしむる契機を
作った」と語りましたが、これはアメリカの主張「原爆が対日戦の終結を早めた」と
いう主張に一脈つうじるものがあります。
それほどに核の脅威を重大にとらえた仁科は、核兵器の脅威が戦争を抑制すると
いう核抑止論者になってしまいました。残念なことに、そのような核抑止論がその後
の世界的な流れになってしまい、核兵器をもつ国がアメリカ以外にもぞくぞく登場
し、最近では遺憾にも北朝鮮までもが核保有国であることを宣言するまでになりまし
た。
ま、核兵器が毛沢東のいう「張り子の虎」にとどまり、核兵器が使用されない限
り核抑止論も一理あるのですが、いざ戦争が始まると軍人は戦争勝利を口実にとかく
暴走しがちです。たとえば、劣化ウラン弾を開発したブラー博士はこう語りました。
「さまざまな危険があることは知っている。しかし、軍の仕事は戦争に勝つことに
ある。そのためには最も優れた兵器を提供しなければならない(注5)」
勝つためには手段や兵器を選ばない、これが軍人の共通した根本思想です。そう
した暴論は朝鮮戦争(1950)当時にも見ることができます。朝鮮戦争を指導したマッ
カーサー元帥は、アメリカが満州に原爆を30発おとせば戦争に勝てるという計画を
立案しました。
この計画に反対して、トルーマン大統領はマッカーサーを解任して事なきを得ま
したが、この世に核兵器がある限り、それが実戦に使用される危険性は常に存在しま
す。
また、軍人を抑えるべき政治家にしても、本当は戦争はしてはならないと考えて
いても、時には軍人を抑えるどころか、かけひきから往々にして「戦争も辞さない」
という発言をしかねません。
さらに始末が悪いことに、そうした勇ましい発言は、えてして民衆から拍手喝采
を受け、歓迎されがちなので、成りゆきは予断を許しません。
あるいは、戦争と明言しなくても、政治屋は「自衛のために」を大義名分に「先
制攻撃」などを口走ったりするものです。ともかく、情勢の成りゆき次第でおろかな
戦争は起きるし、同時に危険な核兵器使用も起きかねません。
そうした愚を避けるためにも、人類を破滅に導く恐れのある核兵器は廃絶される
べきであるし、また、そもそも戦争自体が放棄されるべきです。
こうした観点から私は日本の「非核三原則」と、戦争の放棄をうたった「平和憲
法」を世界に誇るべき「道しるべ」として高く評価しています。
(注1)テレビ朝日、ザ・スクープスペシャル「終戦61年目の真実、幻の原爆開発計
画」2006.8.6
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/
(注2)半月城通信「日本の核兵器、過去と未来」
http://www.han.org/a/half-moon/hm121.html#No.912
(注3)半月城通信「日本の原爆開発」
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.834
(注4)中央公論社『自然』300号記念、1971, P15
(注5)NHKスペシャル番組「調査報告 劣化ウラン弾」2006.8.6
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
戦争の主体が軍から軍産石油複合体に移ったとも、表現できるが。
ちなみにレーダーは、旧日本軍も研究していて、鼠一匹殺すのに30分掛かったとか。