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勇払の史跡:(1)開拓使三角測量を訪ねる

2016-06-27 16:02:19 | 旅行
2015年10月2日
苫小牧ウトナイト湖道の駅で小休憩の後、「勇払ふるさと公園」内にある測量の史跡を訪ねた。
国道沿いに史跡の案内や石碑が見え、公園内に進んだ。
勇払ふるさと公園の石碑と案内図がある。



やや高台になった所に、階段と「北海道指定文化財 史跡開拓使三角測量勇払基点」の石柱が建てられ、その少し後ろ側に石碑や標石、青いカプセルがある。

緑の三角カプセル

一つ目の石碑には「開拓使三角測量による北海道図」とマップが刻まれているもの。

『北海道の沿岸部については、江戸時代かの伊能忠敬などの調査によって、ほぼ正確な形が把握されていたが、開拓使は内陸部のより正確な地図を必要とした。三角測量による北海道の調査は1873(明治6)年から、1876(明治9)年に中止になるまでの4年間にわたり、沿岸部の測量を完了するとともに、勇払基線から出発した三角網は全道のほぼ5分の2の面積を覆うに至った。』とその歴史が刻まれ、開拓使地理課 1875(明治8年)
勇払基点の施設で、現存しているのはディーの計画図にある花崗岩の石柱のみである。
 函館補助基線の基点発掘調査の結果、標塔の遺構が発見されたため、勇払にも、同様の施設が存在したと考えられている。
(因みに私たちは、大野町(現北斗市)にある、三角測量の標塔や、大野郷土資料館内で測量の櫓などの資料を見学してきている。 ブログ:2015年の「大野町の歴史に触れて歩く82)北海道指定史跡:開拓使三角測量一本木でアップしてます。)
参考まで・・・一本木の史跡を訪ねた時の写真
 

勇払の二つ目の石碑は中央に鎮座している標石(右側に説明版がある)

『この標石は1877(明治10)年、刊行された「北海道測量報文」にある図解を基にし、亀田郡大野町に現存する箱館助基線の標石を参考に復元したものです。現在、この史跡では勇払の基点を示す約30cm角の花崗石柱が保存され見ることが出来ますが、当初は基点の花崗石柱の上に目印となる標石や保護するための大が設置されていたようです。
 基点を保護するために置かれた石の大きさからも、基点の重要隻を知ることができます。
                                  苫小牧教育委員会』

三つ目には石碑の中に当時の外国人ディーと日本人の助手たちの様子の写真が写されている。

 『開拓使は三角測量による正確な北海道地図を作成するため、1873(明治6)年3月からお雇い米国人JAMES・R.WASSONを測量長に任命し、4月から三角測量で最初の作業となる基線のの設定に取りかかった。
ジェームス・R・ワッソン(米国人)は初め、石狩川上流に基線を考えたが、設定に必要となる見通し距離を得れることが出来ず、計画を変更し、勇払原野での調査となった。
 その結果、勇払と鵡川川の直線約14㎞に基線を設定、区間の両端に目標台と石柱を建てて基点とし、勇払基線のおおよその計測を行った。
 翌1874(明治7)年ワッソンを継いだ米国人DAY(ディー)の指揮により、勇払基線の本格的な測量が行われることとなった。
ディーと日本人助手によって計測を精密にするため、天体測量を実施した。・・・(中略)・・・
もう一方の鵡川基点は発見されていないが、この勇払基点は当時の最新技術を駆使したわが国、最初の本格的三角測量議場施設であり、ここからは多くの日本人測量技術者が祖だったと北海道史上、ならびにわが国測量史上、貴重な文化である。
         昭和42年3月17日指定
           北海道教育委員会
           苫小牧測量設計事業協会』
石碑の右下の写真について
  1874(明治7)年、全道の測量に出発するディーら一行   
と刻まれている。
測量の記念碑のあるところから、隣地にある蝦夷地開拓移住隊の碑の所へ行った。

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