気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

黒部峡谷鉄道・トロッコの旅(ツアー4日目)最終日

2014-07-21 11:43:44 | 旅行
2014年7月2日(水)、ツアー4日目も天気は晴れ・・・富山の呉羽山の温泉ホテルから黒部峡谷鉄道のある宇奈月に向かった。
途中バスの車窓から「黒部峡谷・宇奈月へ 12㎞」の標識。

ガイドさんが富山県五箇山の民謡「こきりこ節」を竹製の道具を使って唄い、手拍子・・・。

宇奈月鉄道駅

ミニトロッコのお出迎え

この鉄道は関西電力の資材などを運搬するために造られ、以後観光に利用されるようになったという経緯があります。深い山々の谷を利用した水力発電所が出来たのですから、秘湯の地ともいえよう。
 宇奈月温泉街にはたくさんの旅館やホテルが立ち並んでいる。富山の奥座敷かな・・・。
私たちのコースは始発の宇奈月から鐘釣まで。(終点は欅平)
 駅前にロケ中の芸能人が2人いた。大阪のお笑い芸人とか・・・その方々も同じトロッコに乗った。

トロッコ内のガイドアナウンスは富山県出身の女優室井滋さん。ビューポイント毎に説明があるので、分かりやすい。
テレビではお馴染みの峡谷に懸る赤い橋、テレビでのアングルは空撮のような記憶なので、トロッコに乗っていると、赤い橋のイメージと同じ写真は写すことが出来ない。(やはり、秘境のイメージでは上から目線が森林の渓流の映る赤い橋美しい・・・やまびこ展望台や山彦橋から見るのが絶好のスポット)
黒部峡谷鉄道の歩みによると『大正8年、タカジャスターゼで有名な高峰譲吉博士が、東洋アルミナムという会社を起し、黒部峡谷でアルミ精錬のための電源開発が始まり、資材運搬用として工事が始まった』
という。その後黒部峡谷探勝をしたいという希望にこたえ、観光用に活用されている。
 まずは、発車・・・室井滋さんのアナウンスが始まる。
間もなく、例の赤い橋「新山彦橋」を渡り、トンネルに入る。
新山彦橋

宇奈月ダムと発電所


「湖面橋」赤い半円形の橋が湖面に映っている、更に進み、ヨーロッパのお城のような発電所がある。
「新柳河原発電所」作業している方の姿があった。。
ネズミ返しの岩壁
 猫又駅の対岸にあり、猫に追われたねずみも岩壁に阻まれ、登ることが出来ず、引き返したという・・・。

途中、岩に赤い帽子を乗せた「仏石」が見えた。(○囲み内にあるが・・・)

新柳河原発電所


眼下に黒部川を見ながら、コンクリートに囲まれ、小さな窓のある壁に見えたのが、冬期間メンテナンスのために歩いて行ける道になっている。
「後曳橋」青色の橋沿線で最も峻嶮な所で高さ60mに懸る橋。

黒薙温泉へという看板のある急な階段。

途中「猿専用吊り橋」がアナウンスされ、猿が渓谷の対岸に渡れるようになっている。(四角枠内にあるが・・・)
野生のサルにも優しい環境・・・野生動物を写真に撮ったら記念品がもらえるとのこと)

鐘釣駅」

私たちのトロッコ電車の終点であるが、宇奈月駅から一緒の芸能人が近づいてきて、いろいろ話し、私たちが戻る時には手を振ってくれた。

彼らは欅平の方に向かわれた。
鐘釣から宇奈月駅に戻り、いよいよ私たちの観光ツアーは帰路に着く。
宇奈月には11時20分頃に着き、小松空港へと向かった。途中、4日間お付き合いのあったガイドさんが、小松は「安宅の関」でもあり、弁慶と義経の勧進帳のことを説明。
弁慶の銅像が国道に見られたり、空港ロビーにも、歌舞伎の「勧進帳」の名場面の人形と「勧進帳」の一部が展示されている。

3泊4日は天候にも恵まれ、いろいろな方々と親しくなり、JTB旅物語添乗員のM氏や安全運転のN氏、ガイドの波さんにより、より楽しい思い出にしてくれたことになにより感謝です。元気なうちに次はどこに行こう・・・か。

黒部ダムから立山への観光(ツアー3日目)

2014-07-16 07:45:33 | 旅行
2014年7月1日、長野県の北安曇にある白馬コルナ国際ホテルを早朝7時30分に出発して、アルペンルートの目玉である黒部ダムや立山へのコースとなっている。
このコースはトロリーバスやケーブルカー・ロープウエイなど乗り継ぎの多い箇所となる。
コースは扇沢からアルペンルートの玄関口である「関電トロリーバス~黒部ダム~ダムサイトを徒歩でダム湖遊覧船~黒部ケーブルカーで黒部平~立山ロープウエイで大観峰~立山トンネルトロリーバスで室堂という乗り継ぎ観光
コースイラスト

扇沢トロリーバスの駅

黒部ダムは日本の経済が上向きになって、電力不足を補う最大のエネルギー確保の国の政策。昭和31年着工し、7年間後に完成。
高い山々の間の工事は相当に難工事で、突然の水の噴出(破砕帯に当たった・・・)にたくさんの犠牲者もあり、経済発展の裏には悲しい物語もある。石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」がある。また、テレビで「プロジェクトX」でその現場で働く人々などの苦労など記憶に新しい。
犠牲者の慰霊の像があると聞いていたが・・・。
黒部も快晴。
ダムの放水は相当の量、虹がかかっていた。

ダム湖には流木が押し寄せてきて、流木を舟につないで撤去する光景を目にした。
アーチ型のダムサイトを歩き、遊覧船の船着き場に向かう。階段が推移によって段数が多くなることもあるとのこと。
黒部湖奥の山

ダムの奥の方に山小屋が見えたが、小屋名は聞き取れなかったが・・・「平の小屋」とも「平山小屋」とも聞こえた・・・。
遊覧船から見えた山小屋

ダム湖遊覧を終え、ケーブルカーで移動、黒部平、ロープウエイに乗り換えて大観峰、更にトロリーバスで室堂に着く。
高原バスで美女平・・・バスの中で「美女に会えるかも・・・という声)ケーブルカーで立山に到着した。
室堂行きのトロリーバス駅(12:15発)

トロリーバスの進行中に「立山直下」の標識・・・ここが立山の真下なのです!。

黒部平碑

雪に半没している立山の石碑

雪の壁(7月でも私の身長の2~3倍の高さ)

立山連峰(向かって右から雄山・大汝山・冨士の折立の峰々を立山と・・・)
よく見ると、向かって右の頂(雄山)に建物がうっすらと見える。日本三霊山というので、神社かと思う。

立山玉殿の湧水

立山からの途中、バスの案内で落差日本一あるという「称名の滝」が見える所であったが・・・座席からは見ることは出来はできなかった。

富山県に戻り、呉羽山にある温泉元湯に宿泊。食事には富山名物の「白エビのかき揚げ」や「ホタルイカ」など・・・

上高地の山々を望みながらの散策(ツアー2日目)

2014-07-15 16:25:17 | 旅行
2014年6月30日、白川郷合掌造り集落から、北アルプスのエリア、憧れの上高地に着いた。大正池から梓川のほとりや田代湿原のそば、河童橋に至るコース。
梓川コース案内板と標高の案内ツキノワ熊は6月22日頃出没したらしい


バス駐車場から少し進むと、目の前に大正池が広がっている。
天候には山麓徘徊するには絶好の良い天気。爽やかな高原の風を感じる。
また、海外からの観光客の姿も多い所でもある。散策路は平坦であるので歩きやすく、進路案内も迷わずに歩けるようになっているので初めての人でも安心して歩けそうです。
大正池正面に向かって左奥方向に焼岳がある。
大正池と焼岳の全容と説明版
 

説明版によると
『焼岳(標高2,455m)は今なお噴気活動を続ける活火山で、約、300年前のマグマ噴火により現在のような山体となりました。
このようなドーム型の火山を一般に鐘状火山(トロイデ)といいます。
 最近では、昭和37年(1962年)6月に水蒸気爆発があり、泥流が大正池まで押し出しました。』と書かれています。
やがて、田代橋を渡り、ニッコウキスゲが咲いていたり、清流梓川、奥穂高連峰が見える所を通った。
田代湿原とニッコウキスゲ

田代橋で

奥穂高連峰と説明版

奥穂高遠望

ウエストン碑への標識とレリーフ


説明版には・・・
『英人牧師ウオルター・ウエストンは、明治21年(1888年)から同28年(95年)までの日本滞在中に槍ヶ岳や穂高の山々を数多く歩き、我が国に近代的登山意識をもたらし、日本山岳会結成のきっかけを作りました。
 また、その間の紀行文「日本アルプスの登山と探検(明治29年)」により、中部山岳を世界に紹介するなど、その業績は高く評価されています。
 ここにあるレリーフは、日本山岳会が昭和12年にウエストンの喜寿(77才)を祝って作ったもので、昭和40年にかけなおされています。』とあります。
 上高地の有名なかっぱ橋が見えてきました。ガイドさんの話によるとかつては梓川に橋はなく、衣類をたたんで頭に乗せて川を渡る様子が河童に似ていたから・・・とも言われているようです。
河童橋への標識と橋、山々


梓川

上高地は本当に素晴らしい環境・・・時間がもっとあったら・・・明神池とか嘉門次の碑や山小屋を訪ねて見たいな・・・と思ったのです・・・。

第2日目 白川郷・上高地~白馬

2014-07-10 12:18:03 | 旅行
6月30日、天気は快晴。金沢のホテルを7時30分に出発し世界遺産の白川郷に向かった。
富山の辺りから、田園風景・・・独特の「散居村」についてガイドさんが説明。田畑の一角に住宅と周囲には樹木が植えられて暑さや雪から住宅を守るということらしい・・・。隣の家まで50mとか数十m離れて家が建っているが、北海道では田園地帯では隣に行ってきます・・・!!といっても、何キロか離れている場合もある。北海道は十勝の防風林風景を思うと「でっかいどう!」ではある。本州では離れている方なのであろう。
車中から、散居村が見え始めた風景。北海道の住宅と違って屋根は黒塗の瓦屋根で大家族制が普通らしい。


白川郷ではあらかじめいろいろ調べていた夫は萩町城址展望台が白川郷の風景が一望できるので、時間があったら展望台に行くつもりであったが、集合時間には慌ただしいので、皆さんと一緒に茅葺の家屋を回った。
ます、駐車場から吊り橋を渡り、主な「和田家」とか「神田家」などの道しるべがあるので、その方向に歩いた。
夫の調べでは「明善寺」が重要文化財ということなので、見学ポイントとしていた。
駐車場の風景

せせらぎ公園の駐車場から「であい橋」という処を渡ると、直ぐにその石碑が鎮座し、横には「秋葉神社」があった。
であい橋で

秋葉神社の由来には
『此の地区一帯は茅葺の屋根の合掌家屋が点在する世界遺産の萩町合掌集落です。
 江戸時代、度重なる火災と特に天明三~七年(一七八三~八七)の大飢饉のうえ、悪疫が流行し、萩町村で二百三十人もの人々がなくなりました。
 この苦境を乗り越えようと相談の結果、小神堂を建立し、火伏の神を祀り、平和を祈りました。大正時代に神殿を秋収支、秋葉神社と改め現在に至っています。』と説明版がありました。
であい橋石碑と秋葉神社

明善寺山門と鐘楼門
石碑の説明
「明善寺庫裡(岐阜県指定重要文化財)
『徳川末期の建築で百五十余年前のものである。
 地元萩野の棟梁との共作で三年間の歳月を経て、漸く完くしたもので、材料は桧・ケヤキ・松等で茅葺等家坪述べ三七七二五平方メートル(九三二五坪)である。
大型の類に属し、切妻合掌造りの美観を考慮して作られた民家の代表的なものである。」

神田家見学

神田家のパンフレットには白川郷と神田家について案内が記載されている。
『当合掌造りは江戸後期石川県の宮大工により十年の歳月をかけて建造されたといわれている。それまでの合掌造りの構造を受け継ぎながらも、新しい技術を取り入れ、改良し、完成度の高いつくりと呼ばれている。合掌造りの民家では「養蚕」が行われていたが、さらに当家の床下では火薬の原料となる「硝煙づくり」を行い、貴重な現金収入の源となっていた。合掌造りは家族が生活する反面、養蚕業・硝煙づくりといった労働集約的業務をこなすには適した携帯であり、一九三五年(昭和十年)ら依存したドイツの建築家ブルーの・タウトは「合理的・論理的な独特の構造」と合掌造りを高く評価した。』という内容が書かれていました。内部の印象では家の梁は厚くて、大きな一枚板板と云っていいのでしょうか・・・。囲炉裏は絶やすことなく碑を入れているとのこと。内部は燻煙で黒光り。二階への階段を上がると現在はいろいろな用具がならび、更に3階への会談は急な梯子という感じだったので、途中で3階を覗いたという感じです。
また、集合時間まで、散策。白川郷のマンホールを発見した。

まめ菓子「こびき屋柿木店」

名物のほうば味噌などを購入した。
その他の合掌造りの民家


白川郷を後にして,、次の目的地上高地へとバスは進路を進めた。

6月30日のお宿は、高原リゾートの「白馬コルチナ国際ホテル」
此の地はかつて東京オリンピックのジャンプ競技などのあったところなので、途中、窓越しにジャンプ台を見ることが出来た。
ホテルはお洒落な建物で、部屋はシングルベッド2台と広い畳の部屋だったのでゆっくりとくつろげ、窓からはスキー場が目の前にあるという処であった。
ホテルとスキー場


立山黒部アルペンルートの旅の始まり 函館~小松~金沢

2014-07-06 15:24:56 | 旅行
2014年6月29日、何時かは行って見たいな~と思っていた上高地や黒部峡谷が含まれているツアーの申込ぎりぎりであったが、参加できることになった。北海道内は自家用車での移動で団体というのは職場での研修や慰安旅行以来の出来事。函館からは2組4名の参加である。その他釧路・旭川空港などからの多数の参加と前情報があった。
 天候も心配ではあったが、函館は曇り。
道内各地からの団体なので、指定の集合場所で合流。添乗員M氏とツアー客30数名、初対面であるが、ホッとする。
小松空港に到着すると大型バス、ドライバーとガイドTさんが迎えてくれた。
小松市は野球の松井秀喜氏の出身地なので、実家や記念館のガイドがあった。
 バスは金沢の有名な加賀百万石の前田公の庭園であった兼六公園に到着。
テレビでお馴染みの「灯篭」=徽軫(コトジ)灯篭で説明版には『この灯篭は琴の糸を支える琴柱の形をしていることから徽軫灯篭と呼ばれている。』手前の池に懸る弓型の端は「虹橋」で別名を「琴橋」ともいわれている。兼六公園の象徴的存在。

公園は広大なので、全部は廻りきれないが、要所要所を回った。

「初代姫小松」推定樹齢五百年。初代姫小松の枝ぶりのよさでは園内一を誇っていたが、度々の台風による被害と老衰におり、主幹の一部を残し、平成七年の六月に伐採された。左は二世である・・・という説明版。右に初代の切株がある。


「霞ケ池」天保八年(一八三七)に掘り広げられた池で広さは五八〇ゼり平方メートル。池の中之島は蓬莱島といい、不老長寿をあらわしており、また、亀の甲の形をしているので別名、亀甲島ともいう。


「唐崎松」一三代藩主、前田斉泰(一八二二~一八六六)が琵琶湖の松の名所唐崎から種子を取り寄せ育てたもの。

「根上がりの松」

「雁行橋」一枚、一枚が亀甲の形をしているので別名亀甲橋ともいう。十一枚の赤戸室石で雁が列をなして飛んでいる姿につくられているので、かりがね橋ともいう。


「日本武尊の像」明治十年(一八七七)西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑。


「栄螺山」霞ヶ池を掘り広げた時の土で盛りあげられたもの。登り路が螺旋に作ってあり、その形がさざえに似ているんで、栄螺山と名付けられた。山頂に、からかさ型の避雨亭があるので別名「からかさ山」ともいう。
(栄螺山の写真)
「噴水」霞ヶ池を水源としており、水面との落差で高さ約三、五メートルにまで吹き上がっている。
日本の庭園では大変珍しく、十九世紀中ごろに作られた、日本最古のものといわれている。
(噴水の写真)
一度ホテルに戻り、夕食は兼六公園近くの金沢懐石料理「兼見御亭」へと向かった。

その後、自由行動なので、瀧の白糸の像とひがし茶屋街を訪ねた。


金沢市指定保存建造物の「懐華楼」