気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

版画家 関屋敏隆著 「北加伊道」松浦武四郎のエゾ地探検

2014-12-13 14:07:27 | 日記
北海道を離れている家族から「絵本で松浦武四郎の探検を版画家の関屋という人の本があるよ~」と電話があり、図書館でその本を借りてきた。版画も素敵だが、北海道に住んでいる小学生や大人にも安政時代の北海道を分かりやすく描いてあるので読んで欲しい本の一つと個人的に思っている。
 松浦武四郎は山や川などの探検ばかりではなく、当時の先住のアイヌの人たちの暮らし振りや境遇を幕府に伝えていた
まず、第一ページには松浦武四郎の旅について『北の大地をくまなく歩き、自然とそこに生きる人々の暮らしを詳細に記録し、多くの著書を残した』とあり「北海道の名付け親」ともよばれる武四郎の命をかけた旅の生涯を描く。
 関屋氏の絵本と「一畳敷」

北海道札幌の町について
 今では、ビルが建ち並ぶ大都市ですが、150年ほど前(明治の始め頃)までは、乾燥した川原がどこまでも広がっていた・・・って現在では創造出来がたい。「札幌」の名はもともと「サッポロ(サツ・かわいた、ポロ・大きい」というアイヌ語の地名を感じに当てはめている。
今から160年ほど前、(江戸の終わりごろ)、当時のエゾ地と呼ばれていた大地を探検し、多くの日誌や地図を描き、アイヌの文化を伝えた人がいました。
「北海道の名付け親」といわれる松浦武四郎ですというように彼を紹介している。

絵本には松浦武四郎の沢山ある日誌と野帳(メモを書き記す)携帯用の筆記用具。私の記憶では今でいうGPS?携帯用羅針盤のようなものを持っていたと思っている。

 彼が蝦夷地に渡るまえの足取りについても絵本に紹介されている。
松浦武四郎は現在の三重県松阪市に生まれており、16歳の時に伊勢の国より、江戸住まいの「山口遇所先生」を頼って家を出た・・・これが彼にとって「旅の人生」の始まりとなったもの。
17歳で彼は日本中を巡りながら、見聞したことや山川の地形などを野帳に詳しく書いて行った。
平戸の絵

 21歳に平戸(現在の長崎県平戸市)のお寺の住職になっていたおり、津川文作という人に逢い「いま、日本にとっ大事なのはエゾ地だ。特にクナシリ島、エトロフ島を詳しく知りたい。ぜひ、探検調査に行ってもらいたい。」と言われ、9年ぶりに、ふるさとに戻って両親の墓参りをして、北を目指した。

 武四郎28歳。やっと商人の船に乗って青森の鰺ヶ沢より津軽海峡を渡り江差の港に着いた。探検するには身分証明が必要になりエサシ人別帳(住民票)が必要となり、此の時から武四郎は人生をかけたエゾ地探検の旅が始まった。 

 エゾ地には言葉も文化も違うアイヌの人々が住み、漁をしたり、狩をしたり、農耕をしたりして暮らしていた。エゾ地を治める松前藩は漁場に「運上屋」を設け、アイヌの人々と交易をしていたが、その交易はアイヌの人々にとって不利益なものでした・・・と書かれている。







作者は京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)工芸科染織専攻科を卒業。大学生のころからサイクリング野宿を楽しみながら、日本中をスケッチして廻った。
絵本作りの原点になったのが「知床半島」にあったという。自然豊かな知床にはかつて、狩りや漁でくらしていたアイヌの人たちの住居跡や伝説がのこっている。羅臼町のなかには。ヒカリゴケで有名なマッカウス洞窟があり、側に『仮寝するする窟おふる・・・』と書かれた松浦武四郎の歌碑があります。斜里町のウトロ港にも「山に婦し、海に浮寝のうき旅も・・・・」の歌碑がある。
丸木舟に揺られながら探検をする武四郎の姿が目に移り、(関屋氏は)8年ほど前に、シーカヤックで半島を巡り、武四郎の苦難の船旅に思いをはせ、「松浦武四郎のこと」を多くの人に知ってもらいたく、絵本づくりを決意した・・・という説明書き。