気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

札幌・小樽・余市ミニ旅~祝津方面の番屋旧白鳥家や祝津展望台

2019-01-01 11:32:32 | 日記
2018年9月、小樽のにしん街道標柱から次の「旧白鳥家番屋」そして、おたる水族館の先にある祝津パノラマ展望台でいろいろな石碑を見ました。
 旧白鳥家番屋はおたる水族館駐車場の側にある。
その番屋は明治10年代に建築されているとのこと。
説明版によると(要約)
『祝津は北海道の初期漁村集落の様式を伝える貴重な地域。
海岸沿いに鰊漁家の住宅、番屋、倉庫などが立ち並び丘には神社があります。
 旧白鳥家番屋は主人と漁夫の居住部分が大屋根で一体になっています。
 主人のすまいには、床の間や欄間を設け和風住宅の特徴をを示します。
 平成7年(1995)年、料理店に再利用されています・・・。 小樽市』とありますが、現在営業は確認できませんでした。
旧白鳥家案内板

番屋

正面玄関

祝津パノラマ展望台には何個かの石碑などがある。途中には「おたる水族館」が見えました。

パノラマ展望台の全景

一つは「江差追分の歌碑」昭和廿八年六月

 『忍路高島 およびもないが せめて歌棄 磯谷まで』の有名な歌詞が刻まれています。

「北海浜節民謡碑」
『春は 春はソーランヤン衆の声も
  遠くに呼ぶ よび黄金の波は(ソイ)
  せめて波風 おだやかに サアサ 今日も船は行くいく』
歌碑

展望台の眼下には日和灯台と「鰊御殿」が見えます。

この鰊御殿は小樽市のホームページによると、おたる水族館が管理しているとのこと。
明治30年(1897)西積丹古宇郡泊村に建てられ、昭和33年(1958)現在地へ移築されたもの。
1960年(昭和35年)には「明治時代の原型をとどめており、華やかな往時を偲ぶ貴重な鰊漁場建築」ということで北海道有形文化財 ニシン漁場建築に指定されている。
この番屋は青森県出身の田中福松が17歳の時に叔父を頼って北海道へ渡り、漁夫として働いていたが、独立して大規模な建網漁業を営み成功したらしい。

高島岬の断崖など

松浦武四郎は「高島おばけ」について「西蝦夷日誌」
『五月初旬なるが、此處へ来りしや、水主のいへるに、今日は高嶋のオバケが出る、あれ見られよと彼方を指さしは数ふるに、間もなくわずか一点の島と覚えし岩礁大きくなるや否や、其の嶋青黄赤白の色を顕し、また紫摩黄金の光を放ち、・・・あれよあれよと指さし眺る間に、一陳の西風に早吹消えたりけり。』と記録があるが・・・高嶋のどこかで蜃気楼を見たようです。
この記録の中に『彼方の苫やと思ひし漁屋は宮殿楼閣・・・』とあるので、それは安政6年に建築された旧青山家漁家が当時としても豪華なので、武四郎はそれを宮殿楼閣と表現したのかな・・・と勝手に想像しました。
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札幌・小樽・余市ミニ旅~祝津方面のにしん街道碑や3大網元

2018-12-29 20:54:45 | 日記
2018年9月の小樽旧色内駅からにしんで栄えた3大網元や「にしん街道標柱」などを訪ねた。
高島岬方面は通称「番屋通り」と言われている。
最初は2018年7月に訪ねた北海道開拓の村に移築された「旧青山漁場」の気になる網元の社交場なのか、迎賓館か祝津にある外観から見ても豪華な「貴賓館」
 広大な敷地に立派な正門。庭園には「石狩挽歌」の歌碑があるが・・・当日まだ午前7時50分位だったので、開館されていなかったので中は見学できなかったが、にしんで財をなした網元の繁栄振りが想像できる。
青山別邸

正門

邸内の「石狩挽歌碑」

因みに7月に行った北海道開拓の村の「旧青山家漁家住宅

説明版には
『安政6年(1859)に山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家である。
建網経営には、番屋をはじめ、網倉・船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要とした。鰊漁場がこのように集約的に保存されているところは少なく、貴重な文化遺産の一つである。』と説明

次に「にしん街道木柱」と旧茨木家番屋」と隣にある「恵美須神社」を訪ねる。

にしん街道木柱と説明版、旧茨木家

「説明版」

『忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで
 北海道の代表的な民謡っである江差追分の一節に登場する高島場所のその中心地となったにしん漁場、かつて、にしんの戦国場所と呼ばれたここ祝津であります。
 小樽のにしん漁は松前藩の追いにしん漁ばの拡大政策によって江戸時代後期の寛政五年(一七九三)に始まります。
その後も、小樽沿岸では、場所請負人の手に寄る大規模なにしん漁が展開されます。
 明治中期から大正年間を通して豊漁に恵まれた祝津では今なお三代網元と称される青山家・白鳥家・茨木家のにしん親方衆が相次いで誕生し隆盛を極めました。
 その茨木家初代当主である茨木興八郎(山形県遊佐町出身)氏によって明治後期に建てられたにしん漁場建築物が「茨木中出張番屋」であります。
 この度、茨木誠一氏をはじめとする関係者」の長年の願いであった同番屋の修復事業が完了することを記念してにしんで栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結ぶ「にしん街道」の標柱をこの地に設置することによりにしん漁の歴史と文化を後世に語り継いでいくものです。』平成二十二年六月吉日
 茨木家隣の小樽市指定歴史的建造物の「恵美須神社」を訪ねた。
説明版によると建築年は文久3年(1863)。
説明版

鳥居の側に「庚申」石碑

茨城家の後の高台にあり、登山道のよう・・・。
社殿の側には樹齢280年のヤマグワがある。安永3年(1774年)に恵美須神社が創建されて以来、神木として住民に敬愛され保存されていたという。古い歴史を感じるところです。
第二の鳥居と社殿

御神木のヤマクワ

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札幌・小樽・余市ミニ旅~旧手宮線色内駅

2018-12-28 15:01:06 | 日記
2018年9月26日、前日、札幌と小樽の境界にある「オタナイ発祥の地碑」を探したが、入る道が閉鎖されていたので、断念したが、夕暮れになり、手稲のホテルに宿泊し、翌朝、「オタナイ発祥の地碑」に再チャレンジし発見、その後小樽に向かった。小樽は何度か来ているので、今回は祝津方面が目的地。
その一つが
 松浦武四郎著「西蝦夷日誌」にも地名が記録されている「色内」。
彼の記述には要約すると磯谷方面から小樽内への道へ進み・・・
『西を眺めばシャコタン岳・ビクニ岳・古平岳・フルウだけ連なりて波濤の如く・・・是よりヲタルナイの方へ行くは本道を直に下がる。・・・高島より山越にてここに出る故(山越)となづく。ここに道標(右タカシマ(高島)、左ヲショロ(忍路)を立たるにも内地の様有。過ぎてテムヤ(手宮)人家つづき茶屋、はたご立つづき繁昌のこと筆紙に着き難し・・・イロナイ(色内)川有、本名エリモナイ也。譯て鼠澤の義。其故事如何なることかしらず。』と安政の探検家は記録した。
 色内は明治13年に日本で3番目の鉄道として開通していた。
今や、その旧手宮線は観光地として訪れる人が多い。旧色内駅舎やホームが保存されているので見学。
旧色内駅

ホームが残されている

説明紙によると

「小樽市の旧国鉄手宮線活用計画に基づきかつての「色内駅」をモチーフとした休憩施設として平成22年に設置された。
旧色内駅は大正3年に色内停車場として開設。その後閉鎖や再開を経て昭和18年5月には「色内駅」に昇格した。・・・その経緯が説明されている。
線路にカメラを向けていると観光客の方が「写真撮ってあげましょうか・・・」と記念に私を入れてパチリ・・・。

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大都市札幌・小樽の秘境の地的オタナイ発祥の地

2018-10-08 09:51:51 | 日記
2018年9月25日、札幌・小樽・余市の史跡探訪のミニ旅に出かけました。
第一日目は札幌の妹の家が新しくなったので訪ね、その後以前から気になっていた「オタナイ発祥の地碑」を目指した。
この碑は昨年にもチャレンジしたが、入れるはずの道が閉鎖されて別の道を探したが到達できなかった。なんでも、その土地は風力発電の予定地とか・・・。
しかし、諦めきれず・・・再アタック。
国道337号線と新川の手稲前田の交差する川沿の所はやはり閉鎖。それで道を北上し工業団地の方から入れないかと思ったが、道は墓地で行き止まりだった。日も暮れかかったので、手稲のホテルに宿泊し、26日再び閉鎖されている新川の所へ行った。ゲートの前の空地に車を停めた。良く見ると、小樽内橋解体撤去作業という張り紙があった。目標とする「小樽内橋」の所である。
ゲートにある工事看板




それで、約1.5㎞か2㎞位あるだろうと思われる新川の東側を河口に向って歩いた。
途中の川沿風景

小樽内橋が見えてきた。

河口から石狩湾や小樽方面が見える。

「小樽内橋」の所は工事の車が通過できるように土台が作られ、道路の右手には作業事務所のような建物が作られていた。
しかし、以前あったというオタナイ集落への道は見えなかった。
小樽内橋の様子(工事現場)

それで、更に歩き、新川の河口から「新川マリンの会」の敷地の裏側からの道はないだろうかと砂丘を歩き、高台の切れ目のような所から踏み跡があったので、進んだ。しかし、踏み跡は途切れ、泥炭地のような湿地帯になり、ぬかるみ道で靴はどろどろ・・・背丈以上の葦原をかき分けた。沼(大きい方は多分オタナイ沼か、小さく見えたのは三日月湖では・・・)が見えてきたので、その辺りかと希望をもったが、湧水なのか水の流れる音がしていた。これ以上は進めないと諦めルートを自分たちの歩いた踏み跡を辿ったが「新川マリンの会」の車が多数見える場所に来ていた。しかし、戻るにもこの広場には小川を越えなければ渡れず、再び自分たちの歩いた踏み跡に戻って作業事務所の所で小休憩。
作業家屋

 タブレットのグーグルで確認すると、その作業事務所の所に道があることになっていた。
見つけた獣道

建物の所の盛り土に立って夫は確認した。道はここだ!!。やっと見つけれそうと獣道のようになった踏み跡を進んだ。
道はT字路になり、左側の道を進む。こんもりとした林があったりし、広場も感じられ、此の辺に集落があったのかと想像。
しばし進んで、雑草の茂った所に黒い石碑が見えてきた。ようやく見つけることが出来た。
T字路と雑草の中の石碑



オタナイ発祥の石碑と隣にある「方向台」此処からアツタまで何キロとか位置を示してあった。


オタナイというのはアイヌ語で砂川という意味。砂浜の・中の・川 と云う意味のオタナイはつまり小樽という地名発祥の地ということだそう。
「オタナイ発祥之碑」の碑文には
『此の地はげんめいをオタナイと云い、石狩町樽川発祥之地である。石狩湾新港建設に関連して小樽市に編入された。
 昭和六十年十月建立   樽川発祥之地記念碑建立期生会 』そして協力者の名が刻まれていた。
調べると「新川河口東岸に「小樽(オタルナイ・オタナイ)」という集落が存在していた。小樽市銭函史跡などによると
「慶長年間1596年(薬400年前)福山(現在の松前町)の人 八木勘右衛門がオタルナイにはいり和人として初めて漁業を営む。それ以前にはアイヌコタンがあったという」
当時は漁業で栄えたというが昭和60年頃には離村して集落は消滅したそう。
石碑まで昭和時代にあった住居などの痕跡はなかった。神社もなかったのかな・・・。
痕跡を残さなかった忽然と消えた集落の謎めいた場所と感じた。
隣の方向台にはここからアツタへ何キロとか示してあった。
大都会札幌手稲のエリアで見つけにくい私流秘境の集落「オタナイ発祥之碑」でした。
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史跡旅:野幌の北海道開拓の村(その3)旧札幌農学校寄宿舎など

2018-07-26 21:36:26 | 日記
北海道開拓の村には廻りきれないほどの歴史的建造物や文化的な遺産といえるような場所もあった。
(1)旧札幌農学校寄宿舎
札幌農学校(現在の北海道大学)は明治9年(1876)現在の時計台付近に開学し、明治36年現在の北海道大学の構内へ移し、寄宿舎も新築され、「恵迪寮」と命名されたもの。


(2)旧有島家住宅
日本近代文学史上の代表的作家の一人である有島武郎、明治11年(1878)~大正12年(1923)が明治43年(1910)5月から翌年7月頃まで住んでいた建物。
旧所在地は札幌市白石区菊水1条17丁目
一般住宅にも上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物であるとのこと。


(3)旧島歌郵便局
「北海道で今のような郵便物の取り扱いが始まったのは明治5年。
島歌には明治19年に郵便局がおかれた。この頃の島歌は鰊や昆布の漁が盛んだったため、人の出入りが多く郵便物の取り扱いも多かったという。

(4)旧近藤医院
「明治33年に函館病院から古平病院内科医長として近藤清吉が招かれた。古平の大火で病院が焼けてしまい、大正8年に新しく建てたもの。
 彼は患者がいれば例え夜中であっても走りまわったという。
時にはお金の無い人にも治療費は一握りの野菜や魚でも診ていたという。(まさに古平の赤ひげ先生・・・と私は感じた。)


(5)旧廣瀬写真館
「大正の終わりから昭和33年まで岩見沢市で営業していた。ガラスの屋根からは自然光がスタジオに入っていたという。

(6)旧小樽新聞社
「小樽新聞社は明治27年(1894)に創刊され函館新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞社の一つであった。
この建物は木造の骨組みに札幌近郊で産出する札幌軟石で外壁に積み上げられた構造で、明治期石造建築の特徴を示している。」



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