気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

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義経伝説:乙部町の姫川

2019-04-30 11:47:14 | 日記
2019年4月29日、快晴
道南ミニ旅・・・国縫やピリカなど廻り、乙部町で義経伝説何箇所かあるうち、姫川の名由来や静御前最期の地となる所があった。
乙部町元和台北緯42度の碑がある付近に「桂の古木」があった。
北緯42度

古木全体


 説明版には

「この桂は乙部岳(別名九郎岳、標高1017M)周辺の山麓に聳えた樹齢600~700年の古木です。九郎岳の由来は奥州平泉の戦い(文治5年)に敗れた九郎判官義経が弁慶とともに追手を逃れこの山麓にたどりつたとの伝説から名付けられたものです。
 この根は義経の悲運を悲しみ菩提を弔うかのように人里離れた深山に人知れず育っていたもの。その後、乙部営林署の好意によりはるか奥州を望むこの景勝地元和に移したもの。」
さらに、古木の側には「静御前最期の地」という説明が立ってました。

最期の地

また、乙部町に流れる川姫川には川名由来と義経伝説についての案内板もあった。
姫川橋



「安政年間(1854~1860)頃からヒメ川と呼ばれるようになって来た。なぜ、ヒメ川となったかは定かではないが「姫川」という名にロマンを求めた村人の心にいつとはなしに伝説が生まれた。
 「兄頼朝の追討を逃れた九郎判官義経は蝦夷地に渡り、ここ乙部岳麓に隠れ住んでいたが、追慕の情やまぬ静御前が病をおしてようやくたどりついたとき、義経主従はすでに乙部岳を越えて北辺へと旅立っていた。もう一歩も進めない静は、川淵の岩に休み乙部岳を仰いでいた。心地よい川のせせらぎが、いつともなく義経の呼ぶ声となり、静は誘い込めれるように淵に身を沈めて行った。村人が乙部岳を九郎岳、せせらぎの川を姫川と呼ぶようになったのも、この頃であった。

「姫川名由来」

もともとは、アイヌ語のオトーウンぺ「O-TO-Un-Pe 川尻ー沼があるもの(川)より乙部川と呼ばれていたが、言い伝えにより、乙部に逃れていた九郎判官義経を追ってきた静御前はついに義経に会えず、川に身を投じた。いつしか、その川を姫川と呼ぶようになった。
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札幌・小樽・余市ミニ旅~北海道鉄道発祥の地的小樽総合博物館編

2019-02-26 14:25:11 | 日記
2018年9月、小樽祝津など廻り、「小樽総合博物館」と「手宮洞窟」を見学しました。
博物館の入口にはクロフォード技師の立像が目に入る。彼の名は函館の隣町、七飯町の大沼公園駅付近にあった「クロフォード」ホテルがありランチなどで何度か訪ねたので、名は知っていました。
立像の台座には彼の偉業を刻んでいます。
 「北海道に始めて鉄道を開通したのは、明治十三年十一月二十八、手宮・札幌間の二十二哩でありました。ジョセフ・クロフォード技師は開拓使の招きによって来朝され、異国の僻地にあって、よく風雪と戦い、この大業を成し遂げられました。それから七十五年の歳月が過ぎ、いま本道の㓇野は拓け文化は進み當時を忍ぶ情ひとしおであります。ここに故技師の銅像を建てて、その遺徳を長く後世に伝えるものであります  昭和三十一年六月十日」
博物館の正面

入館すると目に入るのは「しづか号」鉄道フアンでなくてもその美しさに感動するであろう。

更に館の外側に出ると様々な列車があり、沢山見ることが出来る。中学生かと思われる2~3人の鉄道フアンは列車の写真を様々な角度からカメラに収めている。
彼らが見ていた一つが「北海」と名のつく列車

彼らが車輪の下にもカメラを向けていたのを見て、また感動。撮り鉄君ですね。因みに親戚の子が鉄道フアン嵩じてJR北海道の運転手になった。人生をも変える鉄道マニアです。

「旧手宮鉄道施設」の説明版と隣に陳列されていた除雪車


「旧手宮鉄道施設は、明治13(18809年11月に開通した「幌内鉄道」(北海道で最初の鉄道)の起点でもある旧手宮駅校内にあり、機関車庫(一号、三号)転車台、貯水槽などから構成されています。旧手宮駅は開拓に必要な生活物資及び生産資材など道内各地への輸送、石炭をはじめとする道内各地の産物の同外輸送にかかわる海陸交通の接点として発展を成し遂げました  小樽市教育委員会」

私たちは転車台と車庫などを見学中でも車庫の中の「キ601」は何かな?と思うくらい見たことのない姿であった。
説明には「1923年(大正12)アメリカン・ロコモーティヴ・カンパニーで2両造られ輸入た日本最初のロータリー車。前の回転翼で線路上の雪を飛ばし、その動力には蒸気機関車が使われた。」
キ601

さらに、進むと・・・
「北海道鉄道起点」の石柱  まさに北海道鉄道発祥の地がここにあり・・・ですね。

この博物館の左側にある「車庫」に石原裕次郎の外車(ロールス・ロイス)が展示されている。

見に行くと車庫から東京から来られた紳士に会いました。彼は態々石原裕次郎の外車に会いに来たという。なんでも「彼とは悪友でね~」と彼の愛車に逢ってきたということで嬉しそう・・・。そういう方もいるんだ。

博物館を出て、道路向かいの「手宮洞窟」にお邪魔してきましたが古代文字などを保護するためでしょうが・・・暗すぎてあまり見えなかったです。





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札幌・小樽・余市ミニ旅~祝津方面の番屋旧白鳥家や祝津展望台

2019-01-01 11:32:32 | 日記
2018年9月、小樽のにしん街道標柱から次の「旧白鳥家番屋」そして、おたる水族館の先にある祝津パノラマ展望台でいろいろな石碑を見ました。
 旧白鳥家番屋はおたる水族館駐車場の側にある。
その番屋は明治10年代に建築されているとのこと。
説明版によると(要約)
『祝津は北海道の初期漁村集落の様式を伝える貴重な地域。
海岸沿いに鰊漁家の住宅、番屋、倉庫などが立ち並び丘には神社があります。
 旧白鳥家番屋は主人と漁夫の居住部分が大屋根で一体になっています。
 主人のすまいには、床の間や欄間を設け和風住宅の特徴をを示します。
 平成7年(1995)年、料理店に再利用されています・・・。 小樽市』とありますが、現在営業は確認できませんでした。
旧白鳥家案内板

番屋

正面玄関

祝津パノラマ展望台には何個かの石碑などがある。途中には「おたる水族館」が見えました。

パノラマ展望台の全景

一つは「江差追分の歌碑」昭和廿八年六月

 『忍路高島 およびもないが せめて歌棄 磯谷まで』の有名な歌詞が刻まれています。

「北海浜節民謡碑」
『春は 春はソーランヤン衆の声も
  遠くに呼ぶ よび黄金の波は(ソイ)
  せめて波風 おだやかに サアサ 今日も船は行くいく』
歌碑

展望台の眼下には日和灯台と「鰊御殿」が見えます。

この鰊御殿は小樽市のホームページによると、おたる水族館が管理しているとのこと。
明治30年(1897)西積丹古宇郡泊村に建てられ、昭和33年(1958)現在地へ移築されたもの。
1960年(昭和35年)には「明治時代の原型をとどめており、華やかな往時を偲ぶ貴重な鰊漁場建築」ということで北海道有形文化財 ニシン漁場建築に指定されている。
この番屋は青森県出身の田中福松が17歳の時に叔父を頼って北海道へ渡り、漁夫として働いていたが、独立して大規模な建網漁業を営み成功したらしい。

高島岬の断崖など

松浦武四郎は「高島おばけ」について「西蝦夷日誌」
『五月初旬なるが、此處へ来りしや、水主のいへるに、今日は高嶋のオバケが出る、あれ見られよと彼方を指さしは数ふるに、間もなくわずか一点の島と覚えし岩礁大きくなるや否や、其の嶋青黄赤白の色を顕し、また紫摩黄金の光を放ち、・・・あれよあれよと指さし眺る間に、一陳の西風に早吹消えたりけり。』と記録があるが・・・高嶋のどこかで蜃気楼を見たようです。
この記録の中に『彼方の苫やと思ひし漁屋は宮殿楼閣・・・』とあるので、それは安政6年に建築された旧青山家漁家が当時としても豪華なので、武四郎はそれを宮殿楼閣と表現したのかな・・・と勝手に想像しました。
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札幌・小樽・余市ミニ旅~祝津方面のにしん街道碑や3大網元

2018-12-29 20:54:45 | 日記
2018年9月の小樽旧色内駅からにしんで栄えた3大網元や「にしん街道標柱」などを訪ねた。
高島岬方面は通称「番屋通り」と言われている。
最初は2018年7月に訪ねた北海道開拓の村に移築された「旧青山漁場」の気になる網元の社交場なのか、迎賓館か祝津にある外観から見ても豪華な「貴賓館」
 広大な敷地に立派な正門。庭園には「石狩挽歌」の歌碑があるが・・・当日まだ午前7時50分位だったので、開館されていなかったので中は見学できなかったが、にしんで財をなした網元の繁栄振りが想像できる。
青山別邸

正門

邸内の「石狩挽歌碑」

因みに7月に行った北海道開拓の村の「旧青山家漁家住宅

説明版には
『安政6年(1859)に山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家である。
建網経営には、番屋をはじめ、網倉・船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要とした。鰊漁場がこのように集約的に保存されているところは少なく、貴重な文化遺産の一つである。』と説明

次に「にしん街道木柱」と旧茨木家番屋」と隣にある「恵美須神社」を訪ねる。

にしん街道木柱と説明版、旧茨木家

「説明版」

『忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで
 北海道の代表的な民謡っである江差追分の一節に登場する高島場所のその中心地となったにしん漁場、かつて、にしんの戦国場所と呼ばれたここ祝津であります。
 小樽のにしん漁は松前藩の追いにしん漁ばの拡大政策によって江戸時代後期の寛政五年(一七九三)に始まります。
その後も、小樽沿岸では、場所請負人の手に寄る大規模なにしん漁が展開されます。
 明治中期から大正年間を通して豊漁に恵まれた祝津では今なお三代網元と称される青山家・白鳥家・茨木家のにしん親方衆が相次いで誕生し隆盛を極めました。
 その茨木家初代当主である茨木興八郎(山形県遊佐町出身)氏によって明治後期に建てられたにしん漁場建築物が「茨木中出張番屋」であります。
 この度、茨木誠一氏をはじめとする関係者」の長年の願いであった同番屋の修復事業が完了することを記念してにしんで栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結ぶ「にしん街道」の標柱をこの地に設置することによりにしん漁の歴史と文化を後世に語り継いでいくものです。』平成二十二年六月吉日
 茨木家隣の小樽市指定歴史的建造物の「恵美須神社」を訪ねた。
説明版によると建築年は文久3年(1863)。
説明版

鳥居の側に「庚申」石碑

茨城家の後の高台にあり、登山道のよう・・・。
社殿の側には樹齢280年のヤマグワがある。安永3年(1774年)に恵美須神社が創建されて以来、神木として住民に敬愛され保存されていたという。古い歴史を感じるところです。
第二の鳥居と社殿

御神木のヤマクワ

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札幌・小樽・余市ミニ旅~旧手宮線色内駅

2018-12-28 15:01:06 | 日記
2018年9月26日、前日、札幌と小樽の境界にある「オタナイ発祥の地碑」を探したが、入る道が閉鎖されていたので、断念したが、夕暮れになり、手稲のホテルに宿泊し、翌朝、「オタナイ発祥の地碑」に再チャレンジし発見、その後小樽に向かった。小樽は何度か来ているので、今回は祝津方面が目的地。
その一つが
 松浦武四郎著「西蝦夷日誌」にも地名が記録されている「色内」。
彼の記述には要約すると磯谷方面から小樽内への道へ進み・・・
『西を眺めばシャコタン岳・ビクニ岳・古平岳・フルウだけ連なりて波濤の如く・・・是よりヲタルナイの方へ行くは本道を直に下がる。・・・高島より山越にてここに出る故(山越)となづく。ここに道標(右タカシマ(高島)、左ヲショロ(忍路)を立たるにも内地の様有。過ぎてテムヤ(手宮)人家つづき茶屋、はたご立つづき繁昌のこと筆紙に着き難し・・・イロナイ(色内)川有、本名エリモナイ也。譯て鼠澤の義。其故事如何なることかしらず。』と安政の探検家は記録した。
 色内は明治13年に日本で3番目の鉄道として開通していた。
今や、その旧手宮線は観光地として訪れる人が多い。旧色内駅舎やホームが保存されているので見学。
旧色内駅

ホームが残されている

説明紙によると

「小樽市の旧国鉄手宮線活用計画に基づきかつての「色内駅」をモチーフとした休憩施設として平成22年に設置された。
旧色内駅は大正3年に色内停車場として開設。その後閉鎖や再開を経て昭和18年5月には「色内駅」に昇格した。・・・その経緯が説明されている。
線路にカメラを向けていると観光客の方が「写真撮ってあげましょうか・・・」と記念に私を入れてパチリ・・・。

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