気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

雨竜町 面白内の松浦武四郎の碑 2011年6月

2013-03-31 21:30:48 | 旅行
 2011年6月2日、札幌のホテルを出発して、国道12号線から江別方面に北上、道道275号線を走り、途中道の駅「田園の里うりゅう」に寄る。
道の駅「田園うりゅう」
雨竜町の特産山菜を買い、店員さんに「面白内」に行く道を尋ねた。道順は調べてはきたが、観光地のように道案内がないのが武四郎の足跡・・・(今まで案内板が出あったのは音威子府村の「北海道命名の地」だけしか会っていない。)
面白内川の橋を渡り、右折して渡る・・・とその場所があるはずである。
しかし、目的とする神社を探したが・・・やはり探せない。結構道を進んだが発見できないので、元の道に戻る。
それでもまだ諦めきれないで、キョロキョロして、左側約10m位奥の水田の横にこんもりとした林があったので行って見ると探していた面白内神社と横に松浦武四郎が宿泊した石碑があった。北海道の南端から妹背牛の方まで来て、発見できなくて帰ることを考えたら、石碑に出会えた嬉しさは山の上に到達した感動と同じであった。
面白内の地名が書かれた看板があるかと探したが、倉庫に「面白内・・・」を見つけ撮影したが、丁度通りかかった女性に聞いてみた。「バス停の看板位かな・・・大きな道に出たら有りますよ・・・」と教えていただきシャッターを押す。バス停の看板の高さが非常に高い・・・積雪が多いために高くしたのでしょう。私の目には2~3m見上げる位置にあったような気がする。それと地名が珍しい・・・アイヌ語に当て字をしたのでしょうか?
    神社全景 
説明の案内板もあり、そこには
『松浦武四郎宿泊の地記念碑について』
江戸幕府末期より明治初期にかけて、当時蝦夷と呼ばれていた本道の開拓に大きく貢献し、又数多くの著書を
残した開拓判官松浦武四郎の名は北海道の名付け親として道民には忘れられない人であり、本町にも縁の人でもある。
西蝦夷日誌によると安政三年(一八五六年)三月本道西海岸の踏査を愛ぜられ、函館を出発して、五月八日には石狩
運上屋より丸木船二艘に総勢十二名が分乗して遡り、九日美唄、十日浦臼内、十一日新十津川橋本を経て十二日雨竜町面白内のこの地に泊まり
楡の皮でわらじ(シケトリ)荷物を運ぶもの(シトケニ)を作り、酒を飲んで寝ると記されている。
翌十三日恵岱別に沿って留萌に向かい、途中ヌブシャ岳(信砂岳)を眺めて一首吟じた。
      『のぼり来て 雪の峯の近く成りぬらん 
                 ひたすらに肌寒くなりけり』
 
                        本町開拓前の貴重な史跡としてこの日を建てる
                                   昭和五十五年九月一日   雨竜町教育委員会

浦臼郷土資料館には「信砂越え」の絵がある。2009年9月に浦臼郷土資料見学の時の写真

留萌には信砂川の河口近くに「「信砂越えの地」の木碑があり、写真は2009年9月の旅行のもの。

信砂越えの地」の裏には『安政三年五月函館奉行勤番手付けとして西エゾ地巡回のため石狩の国イタイベツから出発国領マシケに向け出発。この地は信砂前浜到達地である。』指定月日昭和55年7月25日、増毛教育委員会と書かれてある。