気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

美瑛町深山峠 松浦武四郎顕彰碑

2013-09-22 13:30:21 | 旅行
道南から早朝に出発して、支笏湖美笛峠経由で、千歳のアウトレットモールでショッピングをし、一泊。長沼のマオイの丘に寄り道したりし、芦別美瑛線から美馬牛、上富良野の深山峠へ向かった。ここにはトリックアート美術館などの見どころもあるが、私たちは「松浦武四郎顕彰碑」を探した。富良野や美瑛には何度かラベンダーを見たり、観光に来ていたが、此の地に彼の碑があることが分かり、訪ねた。
顕彰碑は深山峠の木柱の横側にある小公園の中にあった。
説明には
『松浦武四郎顕彰之碑』建立 昭和48年10月
『松浦武四郎は安政5年(1858)に幕府の命を受け、和人で初めて上川から上富良野を経由し、十勝を越え、踏査探検し、地図作成に貢献した。「北海道」の名付親であるが、上富良野を探検したことを記念し、松浦武四郎顕彰之碑建立期成会によって建立された。題字は当時の北海道知事動堂垣内尚弘の書によるものである』上富良野教育委員会・・・と記載されている。

深山峠                                      顕彰碑
    
顕彰碑を見て、白銀温泉に向かった。
途中、十勝岳登山口の望岳台付近に散策できる道があったと思ったが、橋が壊れていて、ロープが張られていた。散策を断念して、青い池が人気スポットとなってきていたので寄り道、ブルーリバー・・・とか、白ひげの滝も再訪。白ひげの滝を見てから、ドーム型の屋根つきの階段を上って、防砂センターに着き、館内見学をした。
十勝岳火山砂防情報センター                            望岳台
     
青い池                                      白ひげの滝
     
白金温泉に1泊し、翌日、新栄の丘や四季彩の丘の花畑をゆっくり散策し、
     
中富良野の畑の真ん中の「あぜ道 寄り道」というフレッシュ野菜の美味しいレストランで昼食
    
「フラヌイ温泉」に宿泊して帰路に着いた。



七飯町 気になる幻の熊の湯と無沢峠

2013-09-09 22:54:29 | 旅行
道南の七飯町を国道5号線で大沼方向へドライブすると大沼隧道トンネルの手前に鳥越という所があり、国道から左折してさらに少し進んで右折(左折方面にはクリーンセンターがあるようだ。)このエリアに昔、熊の湯という名湯があるということを聞いていたが、廃湯となり、その形跡がないか、以前にも探しに来たことがあった道でもある。(以前は、大沼方面の蓴采沼側から探したが見つけることができなかった。)今回は逆から入ったので、なんと、間もなく『名跡 七飯熊の湯跡』という立て看板が立っていたのです。逆方向から来ると、木の陰になって看板が見えないのであった。ただし、看板には、無断立ち入り禁止とあり、草の茂った道を少し歩くと、小川があり、進路には鉄の鎖が張られていた。鎖の近くに重機が1台・・・何かの作業で使ったのでしょうか・・・。そして、鎖の所から見えるものは・・・林と庭園らしきものと別荘風の家屋が見えた。また、広場らしき空間もあった。小川は見た目では鉄さび色の川石があるので、源泉でも流れていればいいな~という温泉存在願望を含めた気持ちになった。私にとっては温泉体験のできなかった幻の温泉である。(道南には磯谷温泉も廃湯となっており、こちらは奥秘湯として泉源は流れて残っている。一度訪ねて、流れていた温泉に手を浸けたことがあった。川底には手作りの野天風呂風な湯だまりががあり、温泉マニアが作られたのか・・・)
立て看板写真

その場所からさらに峠を進むと、「明治天皇御野点之地」という石碑と説明が建っている。そこには『明治14年(1881)9月6日、北海道行幸の折、明治天皇は蓴采沼御小休憩所宮崎旅館をお発ちにの後、此の地無沢峠三丁で休憩をとられ、駒ケ岳、大沼、小沼の景勝を堪能された。大正2年5月11日、行幸当時の景勝を永く伝えることを目的に七飯村では、村長以下地元有志によって、記念の松樹と、周囲の景観に趣をそえる為、杉苗1500本を植栽しました。また、昭和11年(1936)に記念の石碑が建立されました。しばらく所在が不明となっておりましたが、平成15年(2003)に発見され、翌年に現在の位置に移設されました。昭和38年(1963)の大沼隧道開道以来、主要交通路が現在の国道5号線に移り、無沢峠を越える人はほとんどなくなりました。現在は御野点所に残された二本のイチイの大樹と大沼側にある杉樹が当時の様子を伝えています。』平成17年10月 七飯町教育委員会・・・と説明されている。
野点之地の写真

峠の終点は蓴采沼の処になる。
此処には「明治天皇蓴采沼小休憩所」という説明版と大きなイチイの木がある。(御膳水という当時の水場があるようなのだが・・・確認できなかった。)実は、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読んでいると、七飯町のことが書かれていたうえ、ホテルに泊まったようなので、もしかしたらこのところにあった宿かな・・・と想像をめぐらす。
宮崎旅館の写真入り説明版がある風景と拡大写真
    
大きなイチイの木

説明には『明治5年(1872)無沢峠が開削され蓴采沼湖畔を通る札幌本道が完成すると七飯村に入植していた八王子千人同心の一人宮崎重衛門がこの地に旅館を建てた。名勝地として知られるようになると、皇族や外国人の来遊で賑わいを見せた。
宮崎旅館は、明治14年(1881)9月6日、明治天皇の北海道巡幸の際に小休所に当てられ重兵衛は沼のコイやジュンサイを天皇に供した。
明治36年(1903)に鉄道の開通とともに観光客の入込は大沼に移り、今や、往時を偲ばせるものはイチイの大樹と湖畔にある御膳水の泉だけである。平成4年10月 七飯町教育委員会』とある。七飯町の歴史的遺産といえるものではないかと個人的に思うが・・・気になる所である。


松浦武四郎の足跡旅 有珠善光寺 「東蝦夷日誌」の資料  2013年9月3日

2013-09-05 18:29:33 | 旅行
松浦武四郎著「東蝦夷日誌・貮編」には宇須〔臼、有珠〕の記録がある。有珠の善光寺についても書き記しているので、松浦武四郎の足跡として石碑か木柱などが善光寺にないものかと何度か来たことがあった。
 前回(2012年)にも寺院にはどなたもおられない様子だったので、境内を歩いたが、松浦武四郎の足跡は探せなかった・・・。
しかし、今回は、境内を歩き回っていたら、1台の車が寺院の横側に着き、ご婦人が降りられたので、「お寺の方ですか?」と、お尋ねしたら住職さんの奥様であった。ここに来た理由を話すと「東蝦夷日誌にある絵が最近展示しました。」とお話されたのですが、展示を見るには予約が必要であった。突然の訪問でしたが、道南から来たことを話すと、ご親切なご配慮をいただき、住職さんを呼んでくださり、ご案内していただいた。(松浦武四郎フアンとしても感謝です。)
東蝦夷日誌にある有珠や善光寺についての記録
ウス(臼、有珠)(會所一棟、制札、雑蔵、馬や、旅宿所、板くら五)と云て場所の惣名となれり。東西北地とも如ㇾ此よき灣を皆ウシヨロと稱る處多し。・・・ならびて灣も北岸に(會所より二丁五十間)イタヲノト(大岩岬)夷家有其上に門有。大臼山道場院善光寺(浄土宗。本尊、臼坐三尊彌陀如来、金佛。津軽今別本覚寺五世 貞典上人作。・・・(略)・・・蝦夷地念仏の初め(注釈)ある時は大なる数珠にて夷民に百萬返(遍)をくらしめし等も、其法筵に連なる者五百人餘、是此地にて念仏の始め也。』とアイヌへの布教の様子をスケッチと記録を残している。
念仏上人 子引歌にはアイヌ語を添えている。たとえば・・・「これや人々」には「タバアン○ウタレ」、「おしえを聞よ」には「エバシム コヌカ」というように、『また、土人に片仮名を教え給ひし由。』と記載している。
また東蝦夷日誌には洞爺湖のことについて
『湖中に三つの島あり。是に小堂有て、円空鉈作りの佛を安置す。 うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩儈内 寛文六年七月廿六日 始山登 圓空(花押)』とある。
 住職さんに案内していただいた展示室(宝仏殿)
  
東蝦夷日誌の中にある百萬遍の数珠とアイヌへの布教のスケッチ

この写真は残念ながら、ピントが合わず・・・スケッチの左側に松浦武四郎の東蝦夷日誌の記録が残っているが・・・
展示された松浦武四郎のこと
「アイヌ民族への布教」と題して念仏上人の子引歌の板木にアイヌ語をカタカナで添えていたものである・・・、また、松浦武四郎は「東蝦夷日誌」に念珠を用いて参加するアイヌ民族の様子を記されている他、僧が「鉦鼓」を用いて叩いている様子も描かれている。」と説明があった。
東蝦夷日誌の中の絵

百萬遍の数珠箱と数珠とお札
      
善光寺本堂(茅葺で歴史を感じる本堂です)


鐘楼

史跡指定の石碑

 「この寺院は徳川幕府が蝦夷地における和人に定着慰撫を図り宗門等を併せて蝦夷地教化及び法務活動をお子あぬために文化元年~二年に建立された官寺であり蝦夷三漢字の第一の寺でsる。慶長以前に存在したといわれる寺名を引きつぎ、本尊を安置した境内。建物もよく、江戸時代の面影を今日に伝えており、江戸後期に特有な歴史的役割を果たした寺として重要なものであることから、史跡に指定されたものである。」と刻まれている。この後、私たちは登別温泉に向かった。ホテルのロビーでウエルカムをしてくれた鬼さん