気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

松浦武四郎の足跡 幌延(サコカイシ)~雄信内

2012-10-21 15:05:58 | 旅行
天塩川河口から音威子府へ向かい、国道232号線から国道40号線を進み、幌延の総合スポーツセンター内にある作返(サコカエシ)に松浦武四郎の足跡を訪ねた。
 幌延エリアは3年前の2009年、トナカイ牧場を見て付近は通過していたはずでしたが、その時は、松浦武四郎がその地で野営したことについては知らなかったが、今回、私のパートナーが調べていた。武四郎ファンとしては彼の蝦夷地の足跡の碑を一か所でも多く訪ねたい思い一筋。(嬉しいことに、新規に設置されているものが増えているので、この旅はまだ続きそう・・・今年(2012年)5月12日に真歌公園のシャクシャイン像エリアにアイヌ民族と絆の深い松浦武四郎の功績を称える石碑が出来たというニュースがあった。6月に真歌の付近シベチャリや等澍院を訪ねていたのに、残念ながら、新設情報を知らなかった。次回の楽しみにしたい。)
幌延総合スポーツセンター内のサコカエシの説明板

 留萌開発建設部幌延河川事務所により設置され、説明には以下のように書かれている。
『六月七日(調査一日目)縄をといて舟を出す。この辺りはホンキキリ(ぬか蚊)が多く、群がってくるのでやり切れない。サルブト河口付近は鮭の漁場である。この辺りでは以前鮭が沢山上がったが、上流からの流木が多く、河口がよく変化するため、やがて網引きが出来なくなり、現在は非常に少なくなったという。ただウグイ・マス・アメマス・イトウ・カジカが多く、シジミもたくさんいる。さらに進み、今日はサコカイシ(作返)で野宿する。
昼の間はキキリ(とら蚊)に責められ続けるし、あまりの多さに着物の裾をたくし上げて川に入って用を足す始末であった。日が暮れてマンキキリ(夜蚊)が群がってくるようであったので、油脂帳でしのいだ。』とあった。

雄信内川の栄橋と河川敷の説明板
   
「おのぶない」の川名の由来がかかれている。アイヌ語の「オ・ヌプ・ン・ナイ」に由来し、
「川尻にある川」を意味する。

雄信内宿泊推定地
 『六月八日(調査日二日目)今日は霧雨がモヤのように煙っている。この辺りにはアブ位の大きなハエがいて、そのハエに刺されるとひどく腫れ上がって大変である。これがこの地の厄介なものの一つである。
 この辺りの両岸は山続きで、初めてとど松を見ることができた。山は切り立った崖になっている。さらに進むと、崖の崩れた場所に大きな埋木を見つけた。これを割ってみると、黒茶色で非常に硬く、細かい木目が見え、火にくべるとよい香りがする。私はこれを持ち帰って硯の材料としているが、東北地方では「埋木」、「祢木(ねき)」と呼ばれ、各地でも珍重されている。今夜はオンカンランマというところで野宿する。蚊は昨夜の倍はおり、食事中は火の煙りで何とかしのいだが、あまりの多さに用を足すときには着物の裾を上げて川に入らなければならなかった。
 また、夏も半ばだというのにたき火が必要で朝方には帯を解いて火に暖まりたくなるような気候である。
 これよりこの地が本土と大分異なることが分かる。
 この辺りの川には水が沸き立って見えるほどウグイが沢山いる。」

「六月二十九日(調査日二十三日目)
 今夜はタカヤシリというところで野宿する。この辺りには鶴が多く、一晩中その鳴き声が聞こえた。私はこの情景を詩にしたためた。
  -深山木に心高くも巣をなして
     ひなはぐくめる たづ(鶴)がねぞするー
  留萌開発建設部 幌延河川事務所  』

稚咲内の止宿所跡~鏡沼海浜公園・天塩川河口の武四郎の足跡

2012-10-05 20:07:18 | 旅行
2012年8月29日、稚内から道道106号線を南に走り、右側に日本海を見ながら抜海を通過し、稚咲内の砂丘のえきに着く。ここはサロベツ原野の案内マップと止宿跡の説明板がある。私たちは此の地は2009年の9月に初めて訪れましたので、3年後再訪出来たところでもあります。
 説明は『止宿跡 松浦武四郎 休憩地』
「道路のない明治以前、海岸沿いを道路として利用する旅人にとって 当時アイヌ語で
ワッカ・サク・ナイ(飲み水が・ない・川)と呼ばれていたこの地は、今の稚内と天塩の中継地でした。そこで強風と砂に足をとられながらの旅人の休憩と給水のために1840年代に止宿所(番屋とか継立所ともいう)が設けられました。
幕末の探検家として有名な松浦武四郎は3度この地を通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や井戸のあったことを彼の探検記にしるしています 豊富町 」と記載されてます。私たちにはその雄大な利尻山の姿は曇天のせいか、よくは見えなかった。
 止宿所跡の写真

砂丘のえきの写真


天塩へ向かい鏡沼海浜公園にある松浦武四郎の歌碑や立像を再訪
 蝦夷地の全貌を明らかにするとともに、膨大な資料を後世に残した功績を称え天塩町が設立したものである。
松浦武四郎の立像写真(逆光ですが、利尻山の方を眺めているように見える・・・)

 歌碑が刻まれている。
☆ 蝦夷人のみそぎなしたる天塩川  今宵ぞ夏のとまりをばしる
☆ ながむれば渚ましろに成りにける  てしほの浜の雪の夕暮

天塩川河口のカヌーポート付近にある北海道開発局設置された天塩川歴史紀行の案内板で

 この河口は2009年に来た時には設置されていなかったが、新しく出来たことを知り、訪れた。
 安政4年に流域を知り尽くしたアエテリンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの案内で天塩川を踏査した 天塩日誌のことが記載されている。案内板には以下の内容が記載されている。
『天塩川歴史紀行』の説明案内版
 北海道の名付け親の探検家 松浦武四郎 「天塩日誌」を訪ねて
『安政四年(一八五七年)六月、探検家、松浦武四郎(当時四十歳)は蝦夷地(現在の北海道)に渡り、アイヌの男性四名と二艘の丸木船で天塩川探査を行い、「天塩日誌」として記録しました。』
北海道第二位の大河でありながら、当時未踏の地であった天塩川流域の調査は往復二十四日間の道程で多くの困難と共に豊かな自然とアイヌ文化に触れる壮大な旅でした。
 現在地は、踏査一日目に宿泊したと推定されている。「サコカイシ(天塩作返)」です。武四郎は此の地のアイヌの人々から暖かい心に触れました。

六月六日(調査準備)
堀奉行から革靴一足、薬品(解毒丸三十、風邪薬五十)木綿五反(五色)などを頂戴した。
奉行の一行が行かれる北方向けの船の準備が終わり、やがて碇を上げた。また、船の帆網も巻き終わらないうちに船首を北に向けるか向けないうちに、帆に風を一杯にはらんだ船がもう動き始め、私たちが低く下げた頭を上げると、船は既に河口を海に向かって出るところであった。
 さて、こちらも天塩川へ向かう準備の食糧や舟について準備役のアエリテンカ。トセツ。エコレ、トキコサンに命じて急がせる。
 ここの独木舟(まるきぶね)の大きさは、二人乗りほどで形はちょうどひょうたんのようである。

六月三十日(調査二十四日目)
 夕方、天塩の役所に着いてみると、付近のアイヌ民族の男性たちがイナウを作ってヌサシャンに立て、その前でカムイミノをしていた。そのわけを聞くと、今日は月祓(チエフノミ)の日であるというので、「えぞ人のみそぎなしける天塩川 今宵ぞ夏のとまりをば知る」と詠んだ。
翌日、今回天塩川上流まで案内をしてくれたアイヌ民族の男性たちに手当の木綿布や酒、たばこ、針、糸などを渡して、労苦をねぎらった。と書かれております。