気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

中愛別 石垣山登山 2013年6月14日

2013-06-19 16:16:58 | 旅行
6月14日の天候は小雨、石垣山は無理かな・・・と思いながらも早朝にホテルを出発し、高速浮島ICから愛別ICまで長いトンネルを通過、ところどころ激しい大雨、上川近くになり路面が乾いているところもあり、場所によっては雨は降らなかったのか・・・石垣山登山口のある発電所やキャンプ場の案内を目標に進んだ。
 田植えなどの作業をしている中の通りを行って、発電所の建物のあるところへ着いた。
松浦武四郎著、秋葉實解読の「丁巳東西蝦夷山川取調日誌 上」を参考に調べて、『閏五月四日(陽暦6月25日)当麻より愛別 イチラシケ(注釈 愛別)と云う川筋に出るなり。(中略) 小川 此の川はイチラシケの上なり。こへて左は本川すじの方、右少し高山有。是も下草は茅・薄にして、樹柏簇々と立ちたる九折をのぼり、凡七八丁にて上に上がる此処左の方にシュトマトナイの間に当たりて、馬の背の様峯々と多たるを行成。凡此峯一里も行に、向は 卯 石狩岳、左は本川すじ、右の方にチクベツ岳等(※ 中愛別・・・と解読が付いている)波涛の如く相見えたり」。しばし行に箬原に出る。此処を分け下ること五六丁此辺の向方ハンケメヌフトに当たる。箬に葡萄蔓まき附て甚分下り悪しく成りたり。下りて 小川 此の処イチラシケの源になるよし(愛別)(中略)此の処大石ショウ嶫(ギョウ)として甚難渋まりけり。下りて平地、箬原をまた弐三丁も行て本川筋へ出る。
 サンケソマナイ なるべし(石垣川)(中略)むかし文化七年間宮林蔵も此サンケソマナイ迄来り、此処より帰りしとかや。其節案内を致せしものの名を聞きに、此ヒヤテキ不ㇾ知よしと申て一切不ㇾ答。』の記載がある。しかし、宿泊はどう云う処かは、この日誌には書かれていなかった。(アイヌのヒヤテキは間宮林蔵を案内したということを松浦武四郎はクーチンコロに当時の案内人の事を訊ねている。私たちは2012年8月に旭川嵐山公園内の上川アイヌの大酋長であるクーチンコロの碑を訪ねている。)
間宮林蔵は1810年に石垣へ来ている。
登山口からは送水溝を通り、鬱蒼とした登山道になり、岩がごろごろした道。
  
途中、「石垣山八十八箇所」の石柱があった。道端にサイハイランが咲いていた。
   
最初に見えた岸壁やモアイ像の横顔に見える岸壁、ロッククライミングの人の登山ポストがついている岸壁もある。 
    

岸壁に金属製のポストが付けられている。ロッククライムの登攀届らしい。
岸壁の下の登山道は路肩が弱く落ちそうになって岩にしがみついた。柱状節理の岸壁を見ていると足元が危ない!!
桂岩がある。岩に挟まれたような所から桂の木が伸びている。高いので首が・・・
  
相愛の岩が9合目と書かれている。

9合目だからもう少し・・・と頑張れるような気がして、登りの道を歩いた。平坦なところに着いた。
小岩に何か書いている。よく見たら・・・木の板に「奥の院 中愛別の碑」と書いてある。此の山はアイヌ古戦場跡でもあり、信仰の山として地域にとって大切な山なのだ。その少し行った所に立派な石碑があった「希望と石垣山」と書かれている。
  
この石碑のあるところが頂上。見張り岩
絶壁断崖から町が見えるが近寄れない。めまいがしそう。断崖の少し下がったところからカメラ

中愛別の道路などが見える。
しかし、松浦武四郎の宿泊したという洞窟を探すが、洞窟に行く分岐が見当たらない。ブッシュになって踏み跡がないのです。
洞窟は数か所あり、写真は撮ったが・・・こんな洞窟ではない  さらに「希望と石垣山」の石碑から下れる道があったので、少し行って観たが、古戦場の防空壕的な雰囲気と自分流に思って、ひきかえった。
しかし、松浦武四郎の足跡である「サンケソマナイ」に辿り着いたことは私にとっては満足であった。
国道から見えた石垣山(車走行中・・・助手席から、ピンボケではあるが、柱状節理の岸壁が確認できた。)

下山後、協和温泉に向かった。時間があったので、愛別ダムに行ったが、ダム湖は見えず、町方向へ戻る。途中、石碑を見つけて立ち寄る。木造の協和小学校の教育資料館とタイムカプセルの石版があった。2005年に埋め、2020年に取り出すとのこと。
   
お世話になった協和温泉。源泉は炭酸を含んだ良い泉質のもの。貴重な源泉を大切に使用している。宿の主の心が伝わる。夕食は食べきれないほどの鍋ものや新鮮なキノコの里の料理をいただく。
   
器もきのこ
6月15日(天候は雨)
 協和温泉から旭川方面に向かう。
国道237号線を南下、美瑛の道の駅により、その後コマーシャルで有名になった「嵐の五本の木」があるかんのファームに寄ってみた。雨降りとまだラベンダーには早いので訪れる人は2~3組。嵐の木はどれかな~
   
私道なので近くへは行けないというネット情報があるが・・・有名なマイルドセブンの丘やケンとメリーの木など近くで見れるので・・・今後嵐の木が見れることを期待したいと密やかに思った。
昼食は中富良野のファームレストラン「あぜ道 より道」カレーが美味しい。



 

然別~滝上 芝桜観光 2013年6月12日 

2013-06-18 23:44:26 | 旅行
占冠の旅館を出発してから帯広の真鍋庭園を訪ね、ゆっくりして再び国道236号線を北に進み、道道133号線鹿追に入り、道の駅に寄った。

手打ちそばの美味しい店を聞き、「おふくろさん」という蕎麦屋さんで鹿追そばをいただく。女性だけでそば打ちなど営業している。
鹿追から目的地然別湖畔に向かった。
然別は白雲山や東ヌプカウシヌプリ登山の目的で3度来ている。氷河期の生き残りと云われている「なきうさぎ」をウオッチングしたり、思い出のある地でもある。
 今回は登山ではなく周辺の散策で、次の目的地への休憩点としている。
宿泊室からくちびる山と云われている天望山や白雲山が真正面に見える。雲一つない快晴の中、山の横から雲海が滑り込んできた。珍しいのではないかとシャッターを押す。

お世話になったホテルと夕食
    

6月13日快晴(気温22度)
ホテルを出発して、糠平方面へパールスカイラインを走る。
途中で「タウシュベツ展望」と道案内版を見つけ、行ってみたが、遥か彼方に辛うじて小さくアーチ橋が見えた。橋脚は大分水没している。
またしばらく走ると廃線になった足寄線の「ほろか」駅跡の案内板があり、ここも訪ねて見た。この案内板は以前に来たときになかったものです。ホームと切り替えポイントの線路が残っている。かつては木材などの運搬に栄えていたと思われる国鉄の路線でしょう・・・。道南では江差線も廃線になる。なんとも交通の発達となくなるという歴史が鉄道フアンでなくても淋しいものです。記念にシャッターを押す。
  
説明案内には『幌加駅の変遷』と題して、士幌路線の起点・帯広駅から69㎞、終点十勝三股駅まで7㎞の位置にある。昭和十四年に開業、昭和53年に糠平駅~十勝三股駅間18.6㎞が廃止し、駅としての役割が終わったとある。

 この後は三国峠を越え層雲峡からルートは紋別郡の滝上方面に向い上川から高速を利用し浮島ICで降りる。ここには浮島湿原があるので、時間があれば歩く候補にしていた。浮島トンネルに入る前に、湿原入口を見つけ、数メートル行ったら、雪だまりがあり、そのしばらく先で、スコップで除雪している人がいたので、状況を聞いた。「もう一週間はかかるね!」とのこと。「今年は特に雪が多く、ゴールデンウイークにも雪が降ったからね・・・」
残念!!せめて湿原案内の写真だけでも・・・

 国道273号線をひたすら滝上に向かった。
 滝上の芝桜は6月9日迄であったが、まだ見れる状態で、結構観にきている人がいる。(入園料は無料であった。)
    
    
 まだホテルのチェックインに時間があるので、ホテルの駐車場の車を止め、ホテルの直ぐ側にある渓谷の遊歩道を歩いた。
この渓谷は「錦仙峡」と云われ「美しい日本の歩きたいみち500選」に入っている。流れている川は渚滑川で源は天塩岳ということだそう。
滝も多い・・・洛陽の滝とか夫婦の滝とか遊歩道には親切な案内がある。また、一部バリアフリーとなって車いすの方も見ることができるようになっていた。
渓谷の様子
   
また、ホテルの近くに「道の駅・香りの里たきのうえ」があり、寄り道する。
ハーブガーデンもあるので、行ってみたが、作業中の人だけで観に来ている人は誰もない。訪ねたら「7月頃になるでしょう・・・」とのこと
最近、ハーブを我が家でも植えているので興味があったが、残念。
ホテル渓谷と夕食
    

占冠から帯広~中愛別石垣山(松浦武四郎宿泊の洞窟)の旅 2013年6月11日~

2013-06-17 11:58:37 | 旅行
今回の旅は念願の松浦武四郎の足跡の一つ、中愛別にある石垣山登山を目的に高速道路を利用しながら、占冠で宿泊、滝上の芝桜や北海道ガーデン街道に入っている帯広の真鍋庭園を訪ね、自然が豊かな然別湖を回り、三国峠から浮島、滝上、中愛別のルートで廻った。
第一日目は、6月11日、昨年開通した大沼ICから入り、占冠ICで降りた。
 占冠は中央町にある道の駅「自然体感しめかっぷ」に寄り道、お世話になる旅館の主にウオーキングできる自然の良いところを伺った。双珠別ダムに向かうと滝などがある・・・。もう一つは赤岩青厳峡が良いとお勧めをいただいた。
 市街地中央町からR136号線に入り、赤岩橋を渡って右折し、赤岩青厳峡のダートな道を走る。道は左右に分かれる分岐点に出た。目の前に石碑や大きな看板「ニニウ自然公園」があり、さらに進むとサイクリングターミナルやテニスコートしゃれたハウスがあるが、閉鎖されている。
石碑は「ニニウ旧駅逓跡」であり、横に説明とその当時の景色が描かれているものであった。
駅逓の説明は『ニニウ官設駅逓』
 『初代取扱者は小林昇之助翁で、二代目は三船留七翁であった。駅逓と云うのは、郵便局設置前の郵便の取り扱い、開拓移民や官吏の宿泊、荷物の取り扱い及び旅人の輸送等にあたるのであるが、占冠村の場合、郵便事業は取り扱わず、主として旅館であり、荷物の輸送をわずかに担当していた。鵡川を渡り鬼峠を越えるこの地は陸の孤島の中のまた離島といわれ交通の不便なところであった。・・・・昭和五十七年十月 占冠村』と書かれ、山や森の中に馬に乗った人が道を通っている様子が描かれている。
 鬼峠という名があるように、大変なところだったということが想像できる。
分岐の旧駅逓跡
ニニウ分岐よりテニスコートに向かって進んだが、しばらく進んで、戻った。帰り道、赤岩青厳峡の激しい流れの川でラフティングをしている2舟のゴムボートがトレーニング中なのか、ラフティング体験者なのか楽しんでいた。天候も快晴で気温26度を越していたので、気持ちよさそう・・・。

赤岩はロッククライミングの人も楽しむ場所と旅館の主から聞いていた。赤岩橋から見た赤岩の様子
お世話になった遊季館はトロン温泉であった。夕食は鹿肉と豊富な山菜料理がメイン。
   

第二日目12日、天候は曇り、占冠から高速道路利用で音更帯広ICで降りる。国道241号線から236号線に入り、稲田町にある真鍋庭園を訪ねた。
稲田町名は昨年静内を訪ねた際、開拓功労の稲田一族との関係があるのかどうか・・・調べようと思ったが、帯広は依田勉三という方が開拓の功労者であると聞いていたので、稲田という地名が気になったが、関係がないようである。
真鍋庭園エントランスとウエルカム木製人形
     
 真鍋庭園では広い園内を散策、パンフレットによると、明治29年に開拓のために香川県から移住。庭園は第2世代が日本庭園の基礎を作られさらに第3世代の方が洋風庭園エリアを拡大して、第4世代の方が生産と販売をされているとのこと。旅中であるが、苗を2種購入した。
散策途中、モダンな赤い屋根のハウスがあった。

ハウスの近くの樹木に石膏で作られたかわいいリスのエサ台がぶら下がっていた。至る所にホッとするものが置かれている。
そのハウスはハウスは先代が住居用として作られ、建材は全て自己山林からのものとのこと。
初めて見る枝垂れ形のヨーロッパカラマツ?(ベンジュラ)や背高のスマートな樹木など
     
愛らしい姫石楠花が・・・
ゆっくり見たらもっと珍しいもの、発見できたかもしれない。
庭園の奥に「リスの教会」があった。そこでイベントが行われるのか、教会の広場にはベンチが並んでいた。

庭園を一周して、最後にカフェテラスで温かいコーヒーをいただき、次の目的地である鹿追へと道道133号線を走る。

 

千歳 サーモン橋の松浦武四郎歌碑 2010年6月20日

2013-06-06 20:42:24 | 旅行
2010年6月19日、虎杖浜のホテルいずみに一泊し、目的地の千歳サーモン橋にある松浦武四郎の歌碑などを訪ねた。
橋の両欄干には武四郎が探検した当時の千歳川周辺の様子や詩が描かれている。
その一つには「昭和62年11月竣工」『松浦武四郎(一八一八~一八八八)北海道の名付親で六度にわたる探検を行い道内の山川の様子を世に紹介した功労者でした。彼が最初に千歳を遡ったのは弘化三年(一八四六)二度目の蝦夷探検の時でした。
そして安政四年(一八五七)五度目の北海道探検の時に著した「夕張日誌」の中でその頃の千歳のことをくわしく紹介しています。
千歳番屋のレリーフ、この年七月に訪れたときに篆刻家でもあった武四郎が描いたもので、これに石場高門が跋文したものです。
  跋文読解
   ~ここの名を改められし事とも思出て  あしたつの跡 ととめたる 
                 ちとせ川 ちとせの後も かくてすむらむ
~ユウフツ 高門』丸山道子訳「夕張日誌」より

二つ目は武四郎の歌碑『里遠き しこつの湖に筏より  棹さしゆけば 魚のより来る』安政四年七月松浦武四郎
歌碑のレリーフ写真
武四郎が描いた千歳川周辺の番屋などの図には山や神社、千歳川には7~8隻の船や大きな橋を長い荷を担いで渡る人や荷引く数等の馬や家屋が相当数描かれている。番屋のあったところは賑わっていたと思われる。
 西蝦夷日誌・五編(松浦武四郎著・吉田常吉編)では千歳領について「(島松川川筋)左にニヲベツ(小川)、右本川、瀧あり。源は札縨岳より、惣て蛾々岸壁なり。・・・従ㇾ是千歳領なり。九折鼻をも衝計の峻を上がり、平地有。・・・芒が原をしばし過て千歳番屋に宿す。・・・昨秋飯田某と相謀。漸々針盤を手におき、方位を振りて荒萊(あれくさ)を分け來りしも、今馬上にて高跨て往来しける様に成りしも有難けれ。其の時しも石場と共に戯て詩し置きむ。(※ 石場高門のこと)
 千歳川 千代經ん道の しほりにと むすぶにあまる 露の八千草  石場高門
 あした鶴(づ)の しきる聲にも 千歳の里の ほど近しをば    弘 と読んでいる。(※ 弘は松浦武四郎の名  
                                   雅号としては多気志楼を名乗る