気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

森町富士見の土方歳三上陸の地

2014-08-25 08:43:17 | 日記
幕末の戊辰戦争は、最後の内紛の歴史的史実なので、私としては安政の探検家松浦武四郎や、英国人イザベラバードと共に、とても興味深いところ、更に富士見町にも碑があることが分かり、この場所を訪ねた。
 国道5号線を北上、森町道の駅を過ぎて、鷲ノ木付近に「榎本武揚上陸の地」という道しるべがある。(ここは再訪)
神社の鳥居を目印に入ると小公園があり、案内板が設置されている。
戊辰戦争は新撰組の獅子たちが幕府を守るために、新政府軍と戦ったというもの。私は歴史研究者でもないので、一般的な概要しかしらないが・・・函館には五稜郭祭りなどで、彼らの足跡を歩いたり、当時の戦いを再現したイベントなどが催される。
 私個人的な思いではあるが・・・、副隊長の土方歳三の魅力は彼の姿ばかりではなく、命を懸けて何かをするという意気込みだろうか。女性を引き付ける魅力・・・
それは、土方の最期の地である函館市福祉センター前にある土方の碑には女性フアンが訪れることが多いということからも想像できる。土方の写真は函館に来た田本研三という写真家が撮影した姿にも関係があるのか、非常に今でいうイケメンであること。
それだけではないだろうが・・・というのは辨天台場で新政府軍に追い詰められた仲間を助ける為に、五稜郭から辨天に向かう途中、敵の砲弾に倒れたという悲劇的な最期にも彼の精神的な魅力・ラストサムライである故ではないだろうか・・・。

 鷲ノ木の神社の駐車スペースから、直ぐに「榎本軍鷲ノ木上陸地跡」の説明版がある。
小公園説明版と上陸の石碑

そこには・・・
『明治元年(1868)旧12月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。
 上陸時の鷲ノ木は積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったといわれる。
 榎本艦隊は、旗艦 開陽丸ほか七艦(回天・蟠龍・長龍・神速・鳳凰・回春・大江)で、此の時の人員は榎本はじめ、松本太郎、大鳥圭介、土方歳三。古谷佐久衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
 当時の鷲ノ木は村は戸数約150、人口約800人で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていた。
21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下(現七飯町)で待ち構えていた官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。』と箱館戦争の勃発の始まりが書かれている。つづいて・・・
『開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯の崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。こうして、明治2年5月の箱館戦争終結までは負傷兵や病人たちの療養地となり、また、戦死者は霊鷲院に手厚く葬られました。今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や箱館戦没者の慰霊などがあります。』平成2年7月30日 森町教育委員 設置
慰霊碑
(参考まで・・・函館亀田八幡宮境内には終結の調印した碑や新撰組最後の地は弁天町の小公園にある。)
鷲ノ木から富士見町に向かった。そこには補機人説明版があるが、説明文は鷲ノ木と同じ内容であるが、木碑は「榎本武揚・土方歳三上陸の地と記され、平成二十四年四月森町で建立しているものである。
丁度、大宮№の車が駐車しており、窓越しに「良い写真が撮れますよ・・・。」と声をかけられた。遠くからこの分かりにくい富士見の所に来る方は相当な土方フアンであったのだろうか・・・
駒ケ岳が望める絶景の上陸地と噴火湾の所の設置場所(大宮ナンバーの方が奥に駐車していた)、側の小川


 辨天町の新撰組最期の地の説明案内には

『西洋列強の圧力がましてきた江戸末期に幕府は蝦夷地を2度目の直轄地領とした。安政元年(1858)、箱館奉行竹田下野守と堀部正が箱館警備について幕府へ上申し、辨天台場を築造することになった。台場は安政3年、10万両の予算で現在の函館どっくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田甲斐三郎によるもの。不等辺六角形(周囲約684m、面積約32340㎡)をした台場は元冶元年(1864)完成。この台場が実際に使われたのは箱館戦争の時であった。
台場を占領拠点とした旧幕府軍は新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄番ほか約240名全員が降伏した。
台場はその後、辨天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29年(1896)港湾改修のために取り壊されて埋め立てられ、今はその姿を知ることはできない』と台場の歴史が記されている。
説明版の右下には当時の台場の写真が掲載されており、不等辺六角形の台場の全容が見られる唯一の資料かと思う。
辨天台場の当時の全容(○囲み)

土方歳三は川汲峠を越えて湯の川に出て五稜郭へと進んだという記憶があるが・・・
川汲方面にも台場がある。その場は冬山登山で訪ねたことがあるが土を盛った円形の窪みが台場跡のようだった。
 森駅に寄り、駅弁で有名な「いかめし」を購入し、帰路、渡島砂原廻りで、鹿部にある「ひょうたんの池」の公園で昼食、そこから見える駒ケ岳の姿も良かったのでカメラに収めた。
いかめしと駒ケ岳

函館伝統的建造物 旧相馬邸にある松浦武四郎の資料

2014-08-22 21:07:59 | 日記
2014年7月18日、私の相棒より旧相馬邸の見学に誘われて、元町公園のすぐ傍にあり、港を見下ろす展望の良い絶景の場所にある函館の富豪相馬哲平の邸宅を訪ねた。
旧相馬邸と初代相馬哲平


創立者である初代、相馬哲平は1861年に越後の国から北海道に来て事業を始めた。
 邸内ガイドの方の親切な説明がある。当初、予約されていたかどうか・・・と問われたが、電話で話したので・・・と云い了解を得た。(電話を受けてくれた方は不在だった・・・。)
相棒は、邸内に松浦武四郎の資料が展示されていると調べていた。
邸内は撮影はご遠慮・・・というところであったが、私たちは北海道内の松浦武四郎の足跡の碑などを廻っていることを話、その箇所の撮影をお願いした。
 相馬哲平は、当時先見の目があったのか、大量の米を備蓄して、その米が彼が巨万の財をなした基というようなことを説明。
明治41年(大火の翌年)に和洋折衷の邸宅を建造し、家屋には貴重な屋久杉の天井や、庭園など客を迎える所には贅をかけたよう・・・。私的住まいは簡素とのこと。(巨額の財産を得るにはそれなりの哲学があったのでしょう・・・)
全国の納税番付でもかなり、上位にあり、当時の石橋湛山を上回っていた。
(実は相馬家の何代目に当たるのか、また直系か別家か分からないが、F小学校や中学校の後輩に「相馬君」がいた。)
各部屋を案内してもらったが、展示室にはいって蠣崎波響の「アイヌの酋長」の絵などもあった。
第一に目についたのは
 「アイヌの鶴の舞」の絵。武四郎著の「久摺日誌」や「東西山川取調日誌」「丁巳日誌」などの著書。
 丸瀬布にお住いの松浦武四郎研究会の名誉会長である秋葉實氏の解読のものなど。

「アイヌの鶴の舞」


「丁巳由宇羅津布日誌」(松浦竹四郎著)別名の「竹四郎」を使ているいる書物もある。
  ユーラップから函館の調査

そこには
『今朝出立せんと用意するや、ヲシャマンベ 土人メツチャシ来たりて是よりヤムクシナイ迄送り行度由、由出けるか、
番屋守も、何れ誰なりと、直に此の者え申附け呉けるや、川端のクサレンカ来りて云えるは、昨日何或順々土産をば貰ひしまゝ是えにしにとてシュトと申、むかし、土人等が合戦を致せし頃用いたる棒といえるものを一柄我に呉けるか・・・(中略)
 説明として、札幌、北海中学校の北駕文庫の蔵書の鈔写したものなり。原本は松浦竹四郎の次いつ本にて、當て竹四郎の箱館奉行所に献本したるものなる事は、同署の箱館御役所の蔵印あることに依って知られる。
 昭和十年、七月一日、函館開港七十七記念の港祭りに際し、函館回顧展覧会を開催し、本書の出陣を得たるに寄り、特に鈔写す。
              昭和十年九月三十日 』と書かれている。
蠣崎波響の「夷酋列像」ブザンソン美術館蔵