気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

札幌市の創成川を掘った大友亀太郎と玉ねぎ

2017-04-06 19:54:46 | 旅行
2年前(2015年11月)、札幌に用事で行った時、時間があり大通りを歩いてテレビ塔の東側の創成川沿いを散策した。小公園になっている川沿いに銅像があるので、見たら大友亀太郎像と説明版があった。
何気なく見ている創成川も単なる札幌市を東と西の境目ではなく、150年も前の先人の苦労の上に大都会と発展した姿があると思った。創成川は「大友堀」とも言われているよう・・・。
創成川の大友亀太郎銅像

説明版

『札幌開拓の先駆者と大友亀太郎は天保五年(一八三四)に現在の神奈川県小田原で生まれ、二宮尊徳の門に学び「人の一生は金銀財宝に富あるにあらず。積善の道に如かず。を信念とした。安政五年(一八五六)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに、石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街づくりの発端となった・・・』と説明がある。

私たちは史跡めぐりで、昨年札幌に行った時、気になっていた「大友亀太郎の記念資料館」のある札幌村郷土記念館を訪ねた。記念館は休刊日で庭木の作業をしていた方がおり、函館からここを訪ねる為に来たが・・・残念・・・「札幌村の道路元標」がこの地にあると調べてきたという話をしたら、セキュリティーが厳重であり、その方へ連絡してくださった。
お手数をかけましたが、お陰様で、北海道開拓の貴重な資料を見せていただいたり、大友着任150年の資料までいただきました。

記念館前(大友亀太郎着任(平成28年で丁度150年目)


彼の銅像

記念館前庭にある「玉ねぎ栽培」の石碑

階段上段の「玉ねぎ作業の絵」

パンフレットには札幌村の玉ねぎ栽培はこの地に始まる。札幌村の繁栄は玉ねぎがもたらしたと言っても過言ではない。・・・「札幌黄」という種類のものに発展した・・・とも書かれている。

札幌村道路元標写真
『ルーツは明治6年、太政官の通達によって、東京の日本橋・京都では三条橋の中央をもって国内諸街道の起源の元標となった。』函館や各地にも残っている。道路元標の石碑サイズ・型はみな共通している。

丘珠獅子舞獅子頭

「明治25年丘珠神社が創建された後、富山県から移住した人々によって獅子舞が持ち込まれ、今日まで正しく伝承されている。昭和49年札幌市無形文化財に指定された・・・と記録されている。

今回の旅でもあきらめかけた内部見学も偶然にもお逢いした館長さんの計らいで見せていただき感謝でした。

簾舞通行屋を訪ねて

2017-04-04 20:33:36 | 旅行
訪ねたのは2016年5月22日、中山峠を過ぎて、国道230号線の途中から左折して「旧黒岩家住宅」に着いた。
目印は、櫓と井戸。

黒岩家は「みすまい通行屋として明治5年~17年、黒岩家として明治18年~昭和57年まで使われていたようです。
道路を挟んで、「みすまい通行屋緑地公園」と彫られた大きな石が玄関の手前にある。

緑地公園の石と家屋写真

建物の西半分は、明治4年10月完成の本願寺街道の開削に伴い、開拓使や旅人の宿泊、休憩の便宜を図るため、札幌と定山渓間に宿泊所が必要と考え、翌5年1月みすまい通行屋(屋森:黒岩清五郎)として建てられ、17年に廃止されるまで利用された。その後、19年、新道(現旧道)が完成されるとともに、翌20年頃現在地に移築し、東半分を農家として増築し、黒岩家が農業の傍ら、大正7年定山渓鉄道が開通するまで宿舎として利用。それ以後は昭和57年に新宅に映るまで住宅として利用された。・・・当時、平岸以西、定山渓までは黒岩家一戸のみであった・・・と由来に説明されている。

由来版

井戸



通行屋内部は資料館にもなっており、玄関には当時のかまどなどがある。