気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

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余市のお宝:幸福巡りで旧福原漁場を訪ねた

2017-12-17 20:14:01 | 日記
訪問日は2017年10月11日
 余市神社に行ったら、鳥居の横に「匿名寄附者の意向により掲示」と書かれて
余市神社と幸福巡り看板
Ⅰ:スタート余市神社


『この掲示板は、母親の病気の回復を願って余市町を訪ね、先の順序でお参りしたら、母親の病気が治った。
また、ある男性は懸賞で海外旅行券が当たった。
 ある女性は結婚八年目で子宝に恵まれた・・・等良い願いが叶う?幸福巡り』(なぜか・・叶うの後に疑問符がついている・・・叶うと信じることが良いのでしょうね~)このことについて広く知って欲しいと掲示板を作成設置したものとのこと。
順路は余市神社⇒幸田露伴句碑⇒旧福原漁場⇒下ヨイチ運上屋⇒モイレ神社⇒三吉神社と廻ると書かれてます。
Ⅱ:幸田露伴句碑

 「塩鮭のあ幾(ぎ)と 風吹く 寒さかな」
 ※ 明治十七年東京電信修技学校を終了した後、露伴は1年間の実習を終えて翌十八年七月判任官逓信省十等技手として、ヨイチ電信分局勤務を命じられたという説明版があった。驚いたのは、あの有名な「五重塔」の作家が北海道で仕事をしていたんだ知ったことです。

Ⅲ:旧福原漁場
 国指定史跡の旧福原漁場は余市町浜町にあり、幕末からニシン漁を行っていた福原家の建物群。
主屋である番屋は出稼ぎの漁夫の宿泊場であり、カズノコや白子を干して製品にしていた。
 駐車場には福原家の敷地内の建物の略図がある。

母屋(番屋)に「幸運巡りの旗」

ニシンの干場

漁場の蔵やトロッコ


Ⅳ:旧下ヨイチ運上屋


Ⅴ:モイレ神社:下ヨイチ史跡」の奥に小さな神社があった。
神社名も説明版もないが、駐車場の係りの方に、この辺りに「モイレ神社」ってないっですか・・・と伺うと石碑の奥まった所にあるよ・・・と教えていただいた。

Ⅵ:三吉神社
 余市町大川にあるので、モイレ神社から、若干戻ってお参り。

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古平町の伝説:セタ・カムイの岩を訪ねて

2017-12-12 21:16:08 | 日記
浜益・厚田・小樽の史跡旅から余市へと進み、積丹方面に向かったが、空のご機嫌は斜めでしたが、古平で伝説の岩などに寄ることが出来た。
 国道229号線セタカムイラインを進み、ワッカケトンネルの手前から「えびす・大黒岩」などを見てからさらに古平町の方へ行き、駐車場や小公園がある場所に着いた。ここは以前「豊浜トンネル崩落事故」のあった所でもあり、慰霊碑も建立されている。安政の探検家松浦武四郎も彼の著書「西蝦夷日誌」の余市領の中に「此邊、惣時て奇岩奇石簇々としたり。」
と記録している。

 セタ・カムイ岩の伝説については、説明版があったので、その説明を引用する。

『昔、ラルマキという村の若い漁師が一匹の犬を飼っていた。漁師は犬を可愛がり、犬も主人によくなついていた。
 ある時、海が久しぶりになぎになり、漁師は仲間と共に沖へ漁に出た。
 犬はいつものように海辺で主人の帰りを待っていた。
ところが、朝は穏やかであったが、海が何時のまにか波が高くなり、日暮れとともに暴風雨となってしまった。
 村人は海辺でかがり火を焚いて無事を祈った。やがて、難を逃れた漁師が浜に返ってきたが、犬の主人はついに帰ってこなかった。
 暴風雨は何日もつづいたが、犬は海辺で待っていた。そして、ある時、悲しげな犬の遠吠えが何時までも聞こえていたという。
 翌朝、暴風雨はやんだが、海辺に犬の姿は無く、岬に犬の十越えをした形の岩が忽然とそそり立っていた。人々は、その岩を「セタカムイ(犬の神様)と呼ぶようになった。』という伝説であった。
 愛犬家にとっては犬の忠実な精神に心揺さぶられるストーリーかと思う。

セタカムイ岩

セタカムイ岩小公園内(正式にはセタカムイ道路防災記念公園)の豊浜慰霊碑
 このトンネルの崩落事故は忘れることはないと思うが、あの事故から21年も立ったんだと月日の過ぎる早さを感じている。

建設の趣意には
『平成八年二月十日、豊浜トンネル古平側北口付近の大規模な岩盤崩落が発生して、直行中の路線バス・乗用車など、二十名の尊い命が失われるという大事故が起こった。・・・懸命な救助作業が行われたが、家族や国民全ての願い、祈るもむなしくこの崩落によって犠牲となられたことは災禍というには恨みて余りあり、まことに悲運というより言葉もない。
いたましくも悲しい犠牲者のご冥福を祈り、悲しむべき教訓として、永遠にいかし伝える為、この碑を建立したものである。』という内容であった。
慰霊碑の前にはどなたか献花されていた。私たちも合掌。犠牲になられた方々のご冥福を祈りました。


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松浦武四郎著「蝦夷日誌」にみる余市の私的お宝

2017-12-09 22:04:27 | 日記
2017年、10月9日から仁木町・厚田・浜益・小樽など巡って、松浦武四郎著「東西蝦夷山川地理取調紀行の蝦夷日誌(下)ヨイチ領を見ると、訪ねた地域の地名などが出てくる。
彼は安政4年に蝦夷地を探検、陸路で余市領を調べている。
ヨイチについての記録
『数十仭の岩面に一條の瀑布かゝれり。その下に番や(ヨイチ(余市)領)有。此の處は左右共歩行なし。
〇 又此瀧の上より箬原(ササハラ)を上り、多分雪路にて歩行よく、凡四百廿足にてまた峠に到る。峯まで(百足)行、ヨイチ(余市)土人二名(サケンカス、ワトウナイ)我を迎えに出たるに逢。是にて大に案(安)心す。雪路をまた下がる。平地に到る。是則ユウナイ(湯内)なり。・・・(中略)』
湯内川の記録の次に「島泊」から見える「蝋燭岩」について
島泊漁港からのロウソク岩写真

『船路、湯内船にて行くや、岩礁の下シュウクシ(穴岩)ホン蝋燭石(立岩)、瀧の下(瀧有)キシモイ(小彎)、此處まで湾に成りたり。岩壁傳ひ、ホロテバトイ。シュエグシ、譯て岩白しと云義。』
私も気になった白い岩壁、武四郎も見た・・・と思った。
彼の記録、「ヲショロ(忍路)領の中に
『川東に今度ヨイチより番やを建てたり。其謂を聞に、種々互に境目の論起りしと聞く。其の下にフンゴエ(奙部)岬(此處ヨイチより境目と云過てラゴシュマナイ(蘭島)(小澤番や、板くら、いなり社有)此岬の上の坂を上りて、運上やえ直道有、扨海道まで行ば、シュマベケレ(沙濱)譯て「白岩」の義也』と地名にもある「白岩」のことと思うが・・・地名由来となる白い岩壁。国道229号線を余市から積丹方面に向かうっ途中の、ワッカトンネルの手前にある。
白い岩壁(地質学的には、ハイアロクラスタイト・・・軽石凝灰岩というようです。)

白岩の町は烏帽子岬の下方にある。(マップ)

忍路神社鳥居と社殿


手水場は元冶二年三月と読み取れる。(横には奉納、運上屋連中と刻まれているので、かなり古い時代のもの。

左側隣には赤い屋根の稲荷神社(調べたら、津古丹稲荷のようです。)

「ヤマシ」「シリパ」について
・・・西に岩内、ならびて古宇岳・比丘尼岳等波濤の如く見ゆ。・・・少し下がり、サクルベシベ(是ヨイチ川筋なり)に下る。川迄下り、笹原に上がる。平地(三町)しばし下りて、ヤマシ(山碓)番や、人家有)に出たる。先ず爰にて一同に今日の労を賞して酒を遣し、木幣を作りて山神を祭り出立す。・・・シリパ〔知場、上に烽火場有(是まで教導サントルイ申口)・岸を廻りて「ヤマシ」(山碓)(番や、板くら、茅くら、いなり)山道此處に逢ふなり。是濱は町並みの如く人家続き、至て繁昌なり。』とある。
シリパ岬(西崎山ストーンサークルから見た岬)
また、下ヨイチについても
『ヨエチ(余市)(運上や、板くら十棟、御備米くら、勤番所、辨天社、茅くら)美々敷立たり。是を「下ヨイチ」と云。』
下ヨイチ運上屋とモイレ神社写真
2015年6月にも「下ヨイチ運上屋」見学をしていたが、今回は、このモイレ山付近の茂入神社を探して来たが、探せなかった。運上屋の駐車場の係りの方に、モイレ山の神社を探している・・・と言ったら、「あ・・・この運上屋の奥にあるよ。」とのこと。史跡の奥に進むと、小さな神社があった。説明版もないが、写真に収めた。
下ヨイチ運上屋

石碑の奥に

モイレ神社

余市神社

史跡「ヤマウス稲荷社石垣階段」と「阿倍引田臣比羅夫像碑」


武四郎の歌碑(北海道人松浦武四郎・・・と)
この場所は荒れ果てて、石垣も蔦で覆われ、比羅夫像も雑木と雑草の中でした。
しかし、この石碑は台座を見ると、歴史的にはかなり古い時代のことが書かれている。台座の文字も劣化して読み難いが・・・
『日本書紀によって傳えられる齋明朝五年(西暦六百六拾壱年)阿倍引田臣比羅夫は大和朝廷の命を受け、船師百人(読み取れない・・・)を率いて渡島に来り、・・・後方羊蹄を以って、政所と為すべし。・・・研究調査の結果、後方羊蹄はシリパヨウチとなるとの結論を得た、依って、政所を生い立ちは余市と想定し・・・北海道文化財保護協会理事の方々により、記念像を建立した。』ということでした。
雑草を少し除いて、比羅夫像

石造の左側上に「松浦武四郎」の歌碑が彫られている。(歌碑は読めませんでした。)


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