北広島島松駅逓所を訪ねてから、予約していた千歳市のホテルに宿泊。
前日に確認した千歳会所跡に向った。(時間的にうす暗くなっていたので・・・)
訪問日:2015年10月2日
場所は千歳市本町のホテルかめやの看板の元。
私の持っている松浦武四郎著、丸山道子訳の「夕張日誌」には千歳川番屋の図7月18日に千歳のことについて
『シュクバイ(祝梅)を渡り、赤楊(はんのき)の林の原に出るとようやく道の形らしいものに出合った。(一里半余り)この道をたどって行くと支骨川岸にでた。・・・・(中略)千歳川の東で千歳川と合流している所を渡って十七、八町で千歳会所である。・・・此の地には多くの蔵や建物があって、会所の前には千歳川の流れがあり(幅二十間ばかり)板橋が掛けてある。』と記載がある。
夕張日誌とスケッチ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/a0/bd471e8578688c907868025c00ebfb30.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/3e/ea016f7f651a7ed2651be5c288fb8c80.jpg)
「千歳橋」から千歳会所跡の方角を見る。(前日夕方撮影のため暗い)
〇囲みが会所跡があるホテルかめやの看板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/3f/03a541ca20cbd5648731f719cea36cb6.jpg)
ホテルかめや前の会所のある風景![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/1c/1ff569179b36f58230533529fbb93f19.jpg)
会所跡説明版と石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/a0/fe53532ae9cee594883c8b39a41c4fdb.jpg)
「千歳川会所跡」の説明
『江戸時代、松前藩では藩士たちにアイヌの人々との交易をする独占的な権利を与えました。
やがて、藩士たちはこの権利を商人にあずけ運上金(税金)を納めさせます。
権利のおよぶ範囲を「場所」といい、交易所として「運上屋」と呼ばれる建物が建てられました。
寛政十一(一七九九)年、幕府は蝦夷地を直轄支配し、「運上屋」を「会所」と改名します。
「会所」は幕府の役人もいて交易のほかに役所の出張所の役割もしました。
千歳では文化元(一八〇四)年売場会所と買場会所の二ヶ所が立ち、蝦夷地で初めて鉄銭が交易に使われました。
文化六(一八〇九)年二つの会所は一つにまとめられ「千歳川会所」となりました。
安政四(一八五七)年、七月十八日、蝦夷地探検家そして北海道の名付け親として有名な松浦武四郎(一八一八~一八八八)は千歳を訪れ、千歳川会所のにぎやかな様子を上図のように描いています。
絵によると会所はちょうどこのあたりに置かれていたようです。
昭和六三年三月 千歳市教育委員会』と説明されている。
前日に確認した千歳会所跡に向った。(時間的にうす暗くなっていたので・・・)
訪問日:2015年10月2日
場所は千歳市本町のホテルかめやの看板の元。
私の持っている松浦武四郎著、丸山道子訳の「夕張日誌」には千歳川番屋の図7月18日に千歳のことについて
『シュクバイ(祝梅)を渡り、赤楊(はんのき)の林の原に出るとようやく道の形らしいものに出合った。(一里半余り)この道をたどって行くと支骨川岸にでた。・・・・(中略)千歳川の東で千歳川と合流している所を渡って十七、八町で千歳会所である。・・・此の地には多くの蔵や建物があって、会所の前には千歳川の流れがあり(幅二十間ばかり)板橋が掛けてある。』と記載がある。
夕張日誌とスケッチ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/a0/bd471e8578688c907868025c00ebfb30.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/3e/ea016f7f651a7ed2651be5c288fb8c80.jpg)
「千歳橋」から千歳会所跡の方角を見る。(前日夕方撮影のため暗い)
〇囲みが会所跡があるホテルかめやの看板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/3f/03a541ca20cbd5648731f719cea36cb6.jpg)
ホテルかめや前の会所のある風景
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/1c/1ff569179b36f58230533529fbb93f19.jpg)
会所跡説明版と石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/a0/fe53532ae9cee594883c8b39a41c4fdb.jpg)
「千歳川会所跡」の説明
『江戸時代、松前藩では藩士たちにアイヌの人々との交易をする独占的な権利を与えました。
やがて、藩士たちはこの権利を商人にあずけ運上金(税金)を納めさせます。
権利のおよぶ範囲を「場所」といい、交易所として「運上屋」と呼ばれる建物が建てられました。
寛政十一(一七九九)年、幕府は蝦夷地を直轄支配し、「運上屋」を「会所」と改名します。
「会所」は幕府の役人もいて交易のほかに役所の出張所の役割もしました。
千歳では文化元(一八〇四)年売場会所と買場会所の二ヶ所が立ち、蝦夷地で初めて鉄銭が交易に使われました。
文化六(一八〇九)年二つの会所は一つにまとめられ「千歳川会所」となりました。
安政四(一八五七)年、七月十八日、蝦夷地探検家そして北海道の名付け親として有名な松浦武四郎(一八一八~一八八八)は千歳を訪れ、千歳川会所のにぎやかな様子を上図のように描いています。
絵によると会所はちょうどこのあたりに置かれていたようです。
昭和六三年三月 千歳市教育委員会』と説明されている。
恥ずかしい話、道民・千歳市民となり30年になりますが、松浦武四郎が千歳にも立ち寄ってたとは知りませんでした。
石碑を確認しに行きたいと思います。
勉強になりました。
ありがとうございました。
市内に居ると車の移動でなかなか確認できませんでしたが、先日見に行く事ができ、とても勉強になりました。
本当にありがとうございました。
市内にまだ有るんですね。 確認しに行ってみます。
貴重な情報、ありがとうございます。