気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

稚内公園へ(南極観測樺太犬訓練碑や北防波堤など)

2012-09-26 21:38:23 | 旅行
2012年8月28日、猿払から松浦武四郎の声問川宿営の地の木碑に寄り、その後、稚内公園を訪れた。この公園には九人の乙女の碑や南極観測の樺太犬の訓練の記念碑などがあるから是非訪ねたいと思っていた所です。
「これが最後です さよなら さよなら」は大変悲痛な叫びです。若い命を自ら落とされた多くの犠牲者・・・。昭和20年8月15日の終戦の5日後になって、ソ連が攻めてくる・・・と真岡郵便局の電話交換業務を終えた後、自決された九人の女性の霊を慰めるため、またその功績を永久に称えるために建てられた。戦争の惨さを感じないではいられない。(戦争の理由はいろいろあるのだろうが、今でも、地球のどこかで武装していない子供、女性などが犠牲になっているニュースを見るたびに心が痛みます。)

~これが最後です~の石碑

その横には有名な彫刻家の本郷新作の「氷雪の門」のモニュメントがあります。公園は高台になっており、その門の後にはサハリンが見えるはずです。(曇りで確認できませんでした。)

これはかつて間宮林道や松浦武四郎も渡った地、日本の領土であった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑です。

南極観測樺太犬訓練記念碑
   樺太犬供養塔  
 説明のプレートには『1956年(昭和31)年、日本が初めて南極観測に参加する時、40頭ほどの樺太犬が集められ、ここ稚内で8ケ月間にわたり犬ぞりの訓練が行われた。犬ぞり隊はブリザード荒れ狂う極地で見事な活躍を果たしましたが、交代する第2次越冬隊が悪天候のため上陸できず、結局15頭のイヌだけが無人の南極に取り残されました。・・・・(中略)そして1年後、タロとジロの兄弟犬の奇跡的な生存が確認され、このニュースは感動と共に、世界中に伝えられた。(略)』樺太犬の功績を讃え建てられたものです。
 今年、テレビで「南極物語」が放映され、それを見てました。SMAPのメンバーでありかつ、俳優の木村拓哉さんが南極の厳しい状況の中で生存していた犬と感動的な対面があり、その生命力や人間との絆などをこの地で改めて感じながら供養塔などを見ておりました。

稚内港の北防波堤(旧稚内港蓋式防波堤)

 このドームは北海道文化遺産データベースにると、1920年(大正9年)樺太航路の発着場として着工された。ドームもその一環として建設されたということです。北側からの激浪を防ぐシェルターの役割を担っている。アーチ型や柱などは幾何学的な美しさを備えている見事な作りです。

稚内 声問川(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌の記録)の木碑

2012-09-11 16:00:03 | 旅行
松浦武四郎著秋葉實解読『戊午東西蝦夷山川取調日誌 中』の記録によると、
『コエトイ番屋』此の川巾二十五間余、遅流にしてふかし。板蔵一棟、茅蔵四棟、前に稲荷社有。是ハッカイ(ハッカイは今の抜海かと私は思う)よりソウヤの間の昼所に成るなり。其地平地にて草叢ふかし。海岸皆素(州)にして小貝多く、海藻を多く打上げたり。地形左にノツシャフサキ、右にソウヤを受けて其間湾となりし、第一奥なり。土人小屋川の東西に有。(以後略)』
声問の松浦武四郎宿営の木碑
木碑の右端に鉄の鍋が架かっている。声問川を稚内方面に向か木々の間に赤い鳥居が見えた。これが、戊午の記録にある稲荷社であろうか。新しく立派な木碑は二つ目の弁天神の社の前にある。国道238号線に沿って行くと見える。この碑は平成二十一年(2009年)十二月六日、宗谷サロベツ松浦武四郎の会有志の方々によって設立されている。
この碑の説明には弘化三年、安政三年、安政五年宗谷地域を訪れ、東浦・宗谷・声問・恵比・抜海に宿泊し『古以登似日誌』、『北岬日誌』等を記し、宗谷より北蝦夷(樺太・原サハリン)へも足を伸し、弘化三年には利尻・礼文にも足跡を残している・・・とあり、コイトイは近世の通称にして、其名義は此地低きが故にその上を波が打ち越るによって号なるなり・・・と記載されている。

司馬遼太郎著『街道をゆく 38』のオホーツク街道には声問の事について
 江戸末期の松浦武四郎は「西蝦夷日誌」に声問のあたりに来て、蝦夷家九軒、男女二十九人」と書いている・・・など。また、松浦武四郎について「みずからの意思による北方探検の人であった。儒教夷狄観(いてきかん)から脱した人文科学的思考者であり、薄明の天地人を知りたいという好奇心と不抜の意思の人でもあった。」と彼のことを評価している。

オホーツク猿払村浜鬼志別の公園から宗谷岬で散策し、間宮林蔵の銅像などを再訪。
声問に着いたのは16時30分を過ぎたころであった。
この後、稚内公園の中にある南極犬慰霊の碑などを訪問し、夕日が見れたら・・・と思ったが曇り。礼文島の島影も不確かであった。予約したホテル宗谷パレスに宿泊。
すべすべの温泉と心のこもった料理に満足。(宿泊料は比較的安い)

猿払の武四郎・インディギルカ号遭難碑

2012-09-06 00:03:33 | 旅行
松山湿原を降りて、駐車場から天竜沼をカメラに収め、再び、仁宇布の交差点に戻って国道120号を進む。歌登を過ぎて、枝幸漁港で漁師さんに名物のカニを売っている所を聞き・・・水産工場に迷いながら辿りつく。
 途中、ウソタンナイ砂金堀の像をデジカメに写し、目的地に着く。「さるふと公園」内に新しく設置された「松浦武四郎宿営の地」「西部・佐留部都誌」の説明木碑である。
 ここに新設されたことは、私のブログを見てくださった方から「猿払村にも武四郎の碑が出来ましたよ!」と情報をコメントに入れてくださった方のお蔭で足跡にたどり着いたのです。教えてくださった方(松浦武四郎の足跡「道北の釣りと旅ブログhttp://blog.kitakaido.com/の管理のhiroさん)に感謝です。
碑の写真(立派な碑が二基並んであります。)

碑には『北海道人・松浦武四郎』
 北海道の名付け親といわれる松浦武四郎
蝦夷地を六回訪れ、宗谷地域には弘化三年(1846年)、安政三年(1856年)、安政五年(1858年)の三回足を伸ばしている。その際、猿払にも宿泊し「西部佐留部都誌」等を記した。
松浦武四郎はアイヌの人たちの協力を得て、山川取り調べ(地勢調査)を行い、原住民であるアイヌの人たちの生活蝦夷地の状況などを詳細に調査し、克明な記録を幕府に提出した他出版するなどして蝦夷の実態を明らかにしながら、アイヌの人たちの生活向上に心を砕き、幕閣へも再三改善の提言を行った。明治維新後、明治政府の北海道判官として奉職、北海道の夜明けに貢献し、自ら「北海道人」と号した。

『西部・佐留部都誌(安政五年)』の記
 『サルブツ、本命はシャリブツウなるよし也。シャリは湿沢にして、蘆萩(ろてき)叢鬱(そううつ)たる叢(くさむら)を指して云、フツウは川口の儀なり。此所蘆萩(ろてき)有る谷地(やち)川の口と云儀なり。(以後略)』と猿払の様子を書いてある。
そのエリアにはホタテ貝化石群やインディギルカ号慰霊碑がある。
 司馬遼太郎著「街道をゆく38」のオホーツク街道には「インディギルカ号遭難事件」のことが書かれている。昭和」14年(1939年)12月12日午前1時30分頃、漁夫など千数百人を乗せたソ連船(4200トン)が猿払の浜鬼志別の沖で岩に乗り上げて横倒しになった。その船名をとって「インディギルカ号遭難事件」という・・・。」とある。  

松山湿原(北海道最北の高層湿原)と仁宇布滝

2012-09-05 21:42:56 | 旅行
2012年8月28日快晴(猛暑)びふか温泉を出発して国道40号線から南美深で国道49号線を雄武報告に向かって進み、仁宇布の滝を訪ねる。
一つは「激流の滝」案内版がありわかりやすい所にある。滝までの道はウッドチップが敷かれて整っている。此の辺りも熊出没注意である。勿論誰もいない。
激流の滝


   雨霧の滝     

仁宇布の所で右折して仁宇布の冷水

松山湿原へ登る。
 駐車場に着いたとき、湿原から降りてきた若い一人の男性が「熊が出ているようですよ・・・。」と教えてくれた。(彼がいうには林野管理の職員の方が熊を見たそうです。)駐車場にある「あゝ 秘境 びふか松山湿原」の石碑

登山口には大きな「松山の鐘」があるので、熊さんに私たちがこれから行きますよ!と合図を送った。登山道は整っているが、登って、登ってという感じです。途中「展望台」案内があり、振り返ると仁宇布の市街地や山林が下に見える。花はトリカブトやリンドウの花。頂上に着くと、原始が原のような広場になっている。木道があり、入り口には「松山湿原ルート案内」や「長寿の鐘」がある。さらに「8月3日に熊出没してます。」のお知らせ。「長寿の鐘」を二人分強めに鳴らした。
       木道の様子
              

 

再訪の美深アイランド・テッシや恩根内の松浦武四郎足跡

2012-09-05 19:53:08 | 旅行
2009年に音威子府筬島の北海道命名の地を訪ねた際、美深アイランドにある温泉に宿泊した。今回2012年8月27日もびふか温泉のお世話になった。
 士別や名寄の松浦武四郎の足跡を訪問し、美深の恩根内駅近くにある武四郎宿営の地に新しい「天塩川紀行」の案内版が設置されたのを見るためでもある。
恩根内の写真
新しい案内板天塩川歴史紀行 『安政四年(一八五七年)六月、探検家松浦武四郎(当時四十歳)は蝦夷地に渡り、アイヌの男性四名と二艘の丸木舟で天塩川探査を行い「天塩川日誌」として記録しました。北海道第二位の大河でありながら、当時未開の地であった天塩川流域の調査は往復二十四日間の道程で多くの困難と共に豊かな自然とアイヌ文化に触れる壮大な旅でした。現在地探査世六・二十日目に宿泊したとされている「オクルマトマナイ(美深町恩根内)」です。武四郎はこの地でアイヌの人々の暖かい心に触れました。』と記されている。
 天塩川は平成十年に北海道遺産として選定されました。
 設置は北海道開発局 旭川開発建設部名寄河川事務所・・・とあります。

また前回石碑の裏に英語で書かれた説明があることがわかり、それを見逃していたので確認も出来た。
びふかアイランド内の石碑テッシ

テッシ(アイヌ語)は石が一列に並んでおり、漁をする時の仕掛け簗のあるところということ。石碑のある沼の中央に石が並んでます。(これは実物の十分の一の大きさで作られたと記してありました。