気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

大野町の歴史に触れて歩く(5)大野小学校内:大野会所・郷土資料館など

2015-08-27 22:05:15 | 日記
大野小学校敷地内に会所跡と大開田がある。小学校に歴史的な史跡があるのは非常に珍しいのではないかと思う。
まず、校内は夏休み中とあって子供たちの姿はないが、正面玄関に1台の車があり、何か荷を下ろしている男性がいた。
説明版の写真を撮っている私達はこの敷地内に「赤い鳥」の校長先生の記念があるはずだと思うので、銅像がないかなどうろうろしていた。車の側の男性に「ここに校長先生などの銅像がありませんか・・・」とプリントを見てもらった。「私は現在の校長ですが・・・赴任してきてまだ日が浅いですが・・・ここに郷土資料館があったのですが、分庁舎の2階に資料は全部移ってます。」と説明して下さった。その方は大野小学校の校長先生でした。
大野小学校校庭(○印・・・大野会所跡と杉の大株)


大野小学校の説明には
『明治十年(一八七七9二月、大野、本郷、市渡各村の役人五名が函館支庁から呼び出され、学校設立を説諭された。帰村後、各村で相談したが、まとまらないまま月日が流れ、その後少書記官柳田友郷、一等属有竹裕の両人がら依存して校舎設立を促し、文月村も加わることになった。子弟教育のため学校設立に反対はなく、四つの村で協議がすすめられ、場所は大野村と決定。明治十一年二月十六日、大野村九番地、旧扱い所(村役人の詰所)を改造し、「大野学校」として開校した。』と歴史的経緯が掛かれ、その後明治二十五年に公立大野尋常小学校と改称、六か村で唯一、高等科がもうけられた。ほかの小学校を卒業した人は遠距離投稿して勉学に励んだという。

大野会所の説明版と大きな杉の木の根
『文化2年(1805)大野は幕府の手により、諸国から集められた500人によって庚申塚(本郷)に90町歩、文月に50町歩が大開田された。それには箱館奉行の山田鯉兵衛、村上次郎衛門、石坂武兵衛、代島章平らの役人が当たった。
広い敷地内の開田の役所である会所を置いた。それが後に大野小学校の敷地になった。
 周囲には多くの杉がそびえていたが、その大木の一つがこれである・・・。(支柱に囲まれた黒っぽい切株)』

少し離れた場所にある郷土資料館に向かった。


 女性の学芸員さんに「鹿島神社境内の庚申塚について電話をして教えていただいたものです。」電話の方は不在であったので、わざわざ神社まで確認に行ってくださったことのお礼としっかり見なかったことのお詫びを伝えてもらうことをお願いした。

大野小学校の校長先生であった「木村文助」のことを現在の校長先生から、郷土資料館に資料があると聞いたことを訴えると写真の展示場所やパンフレットをいただいた。

木村文助校長先生は「生活綴り方指導の先駆者」ということで、方言を交え素直な大野の綴り方は全国に読まれた。
児童月刊雑誌「赤い鳥」(主宰 鈴木 三重吉)が発刊され、綴り方も率先指導して投稿。毎号、入選し、北海道の「赤い鳥学校」と言われた。
方言と云えば、最近ラジオ体操で話題になっているのが、各地の方言でアナウンスするというユニークというのか地域にとっては親しみのある言葉で「手を挙げて・・・とか膝を曲げて・・・」を「腕っこあげて、ひざっこ曲げで~」とか子供から高齢者も楽しく体操が出来て人気があるのだという。気取りのないありのままの郷土の伝統を大事にすることって最高。

大野町の歴史に触れて歩く(4)本町・本郷エリア:意冨比神社~本郷庚申塚など

2015-08-25 08:02:46 | 日記
大野町本町にある意冨比神社は漢字にフリガナが付いていなかったら、何と読でいいのか解らない・・・しかし説明版には歴史や箱館戦争とのいわれが書いてあります。
意冨比神社


「箱館戦争と意冨比神社の戦い」
『明治元年(1868)旧10月20日、旧幕府軍は森町の鷲ノ木に上陸し、本体は(現函館)に向かい、分隊は峠下コースを進軍し、10月24日、午前7時ころ、風雪の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のため向かおうとする榎本隊大鳥圭介舞台と阻もうとする官軍藩兵と市渡で遭遇戦になり、意冨比神社内を中心に先頭に成り白兵戦になった。しかし、作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃。約1時間の戦い』此の間、大鳥部隊の放った大砲の弾が下町の家に当たり、強い北風にあおられて十数軒の家が焼失したとのこと。
 なお意冨比神社の一井の期に弾痕がある・・・。しめ縄で囲まれた数本のイチイの木の弾痕を探したが、いろいろな窪みがあり、どれが弾痕か私にはわからなかった。

「意冨比神社の水松記念樹木林」「大野町には江戸時代初期のころから人々が住みはじめ、寛文9年(1669)頃、既に家が20軒ほどあった。 このイチイの木は其の頃植えられたもの。大野町の350年の歴史を物語る古木として指定されたことが説明版に記されている。(昭和47年3月25日指定 北海道)
説明版とイチイ

境内には大野稲荷神社がある。
『意冨比神社境内にある「倉稲魂命」を祭る稲荷神社で、安政年間(1854~60)に作成された「大野絵図(北斗市文化財)」には西鍛冶在所(現南大野)に稲荷と山神を祭る社祇がみられた』と記載されている。
意冨比神社の記録によると、明治19年(1886)、境内に稲荷神社を合祀した・・・。
大野稲荷神社

意冨比神社の次に本郷の鹿島神社へ向かった。
境内に大野町で一番古い庚申塚がある・・・と文月庚申塚を見たときに書かれていたので、これは見るべきでしょう・・・と思った。本郷2丁目16の番地のついた家屋があった。
ところが、境内には庚申塚というイメージの石はなく台座の高い古いお墓と思ったものしかなかった。社殿うらや林に埋もれていないかしばらく歩いたが・・・あきらめて帰るか・・・。
家に戻ってから大野郷土資料館に問い合わせたら、学芸員さんがわざわざ確認に行ってくださいまして、社殿の前にあります・・・と。
 後日、再訪問したら、古いお墓のように見えていたのが庚申塚であった。
鹿島神社

石碑には
確かに文字は鮮明ではないが・・・『奉鎮祭庚申太祖猿田彦太神』と刻まれているではないか・・・。
私の庚申塚のイメージは文月・千代田の土の上に建立されている真四角ではない尖った自然石しかなかった。四角ち柱のイメージは頭の中になかった。
庚申塚


『鹿島神社の起源はつまびらかではない。市川重郎の「蝦夷実検考録」では寛政年間(1789~1801)とし、村史では文政年間(1818~1830)となっている。
本郷村の鹿島神社の祭神は「武壅槌大神」である。農村には稲荷神社が多いのに、本郷だけが鹿島明神が奉祇されている。』
『境内にある庚申塚は大野で一番古いもので、寛政8年(1796)に建てられた。当時の9名の有名人の名が刻まれている。庚申信仰は、庚申の年に禁忌を要求したもので、村のはずれや辻に建てられたといわれている。』
平成3年5月大野町教育委員会
境内に明治初年の植樹されたカツラの大樹が残されている。


大野町の歴史に触れて歩く(3)千代田エリア:箱館街道~千代田庚申塚

2015-08-23 08:04:24 | 日記
大野町一本木から隣千代田エリアに入ると、何かの説明版を見つけた。
「箱館街道」の説明であった。

 『松前街道には松前からシヨヤマ村(現北斗添山)を経て箱館に宿泊し、箱館から大野へ達する道路があり、これが箱館街道で、文月道路より後にできたものとされているが、亀田番所の設置や蝦夷地の場所(アイヌとの交易場所)開設が慶長年間(1596~1615)であるから、このころから箱館~亀田~大野を経由した蝦夷地(道央)との交通が行われたとみられる。
文化4年(1807)に書かれた「蝦夷紀行」(館野瑞元著)は箱館から宗谷までの旅日記の冒頭の一部には箱館を出発した後、海浜をすぐれば広野数理、汚水を渡り、行くこと1里ばかりにして新発の田多し。地すこぶる肥えたり。五穀とも熟すという。北行五里として大野に宿す」とある。蝦夷紀行がたどった道は現在の北斗市久根別から一本木、千代田を経由して本町(大野)に至るかつての箱館街道として交通の拠点を担っていたことがわかる。』
平成25年3月北斗市教育委員会  (約2年前にこの説明版は設置されたもの)
箱館街道説明版の立っているところ

千代田庚申塚と忠魂碑東屋がある小公園の敷地内に説明版と庚申塚、2~3m位離れた所に忠魂碑がある。

千代田についての説明には

『千代田の開村は「大野村史」や「蝦夷実検考録」にある千代田稲荷神社勧請の記録から寛政年間(一七八九~一八〇〇)と推定され、藤田家の記録にも「先祖藤田八五郎は陸奥国軽米村に生れる。
寛政元年本道へ渡り、本村に居住をぼくす。』と書かれ、更に、文化二年(一八〇五)大野平野一帯で幕府直轄による大開田が行われ、千代田でも文化元年に渡来した島図才兵門が南部八戸より農家十に戸を募集して開墾している。
千代田の地名由来については
言い伝えによると『鶴の飛来が多かったので鶴田と称したとあるが、「蝦夷実検考録」の記述から、江戸の千代田村にあやかって後の繁栄を願い千代田と称するようになったと推定できる』とあり、幕府の米の施策を行った際に千代田と記されている。
道道大野上磯線を境に西側を西川原、東側を東前谷内と呼ばれていたが昭和七年の字改正で千代田・東前の二字となった。東前には私の父方の祖父の親戚が住んでいた所でもあるので何となく親しみを感じる地名である。

千代田庚申塚について

『庚申塚は干支の六十日または六十年ごとに巡ってくる「庚申」(ひのえさる)のことで、信仰は中国の道教に始まったといわれる。奈良時代に日本に伝わり、室町以降、通行の安全や五穀豊穣、悪病退散など御利益や庶民の願いに代わると、江戸時代にはますます村はずれや辻に塔を建てる琴が盛んになった。神道では申と猿を結び付けて猿田彦をまつる。』次に廻る本郷の庚申塚にはこの「猿田彦」の名が刻まれている。
碑面には「庚申塚 嘉永三年八月、名主島津・・・、大和屋・・・など当時の主な人の名が刻まれている・・・ということですが、裏面は見てこなかった。

忠魂碑は明治四十四年(一九一一)建立され「日露戦没・戦死者 法典・旅順戦没者 陸軍藤田弥三郎 建立
千代田在郷軍人と刻まれている。

千代田稲荷神社と藤田翁頌徳碑
『千代田稲荷神社は寛政6年(1793)に勧請されたもので、、祭神は倉稲魂命である。明治9年には村社となって鎮守の森造っており、祭神は毎月8月25日に行われている。』
千代田稲荷

藤田市五郎翁頌徳の碑について

『慶應元年(1865)千代田西川原でいまれ、幼少時、米沢藩の漢学者杉本新平の門下生として学問を志した。
温厚な人柄で多き公職につき、住民の信望も厚く、開拓精神に富み、農業発展の基礎作りに励んだ』という人であるが、札幌農学校長の佐藤昌介博士の紹介で灯台農学部に西洋野菜栽培を学び、明治44年(1911)ケチャップの製法に取り組み、温室を作りトマト、サンショウなどを栽培し、昭和6年にはピューレ(ケチャップの原料)の製法に成功し、年間2500本を生産し、函館の五島軒ホテルと契約し納入した・・・と記録がある。碑文は難しい漢字・・・。

千代田稲荷神社の境内に「千代田巡査駐在所跡」の説明版があり、住民には頼りにされていたよう。
現在は消防団の建物。
 
明治37年千代田村有志の寄付により千代田稲荷神社の境内に設置され、明治40年大野警察文書の諸葛に成り、地域住民の安全確保や人馬の往来、物流などに大きな役割を果たしたという。

道路を挟んで、ひまわり畑が広がっていた。何年か経ったら、広大なひまわり畑になるかもしれない・・・

この後、箱館戦争とのかかわりのある意冨比神社や本郷の鹿島神社などに向かった。

大野町の歴史に触れて歩く(2)北海道指定史跡:開拓使三角測量一本木基点

2015-08-22 12:51:58 | 日記
大野町一本木地区の北海道指定史跡になっている「開拓使三角測量一本木基点」に向かった。
 一本木稲荷神社の裏手にあたる所にあり。
雑草が茂り、若干分かり難いが、丸型の石碑が目立った。その側に杭で囲まれた所に基石がある。

説明には
『この標は明治8年(1875)、開拓史が正確な北海道地図を作製するため、亀田郡亀田村と一本木村の間を三角測量の基線とし、その両端に設置したものの一つである。
 開拓使は明治6年、米人ワッソンと測量長に三角測量事業を開始、勇払と鵡川間に勇払基線を設定した。
翌7年から米人ディが測量を行ったが、ディは勇払基線を検証するため荒井郁之助と函館付近を調査し、同年8月亀田村と一本木間を助基線と定め、基点に標石を建てた。・・・(中略)・・・北海道の三角測量事業は我が国における本格的な三角測量の先駆となしたもので、この標石は日本の測量史上きわめて重要な意義を持つ。
標石の下には函館測量所の創始者・福士成豊の名が刻まれてた基石が埋められている』
北海道指定 平成16年9月22日
大野郷土資料館のある北斗市分庁舎に行ったら
三角測量の櫓の模型があり、櫓の下部に重りが下がっており、当時、その基に標石が設置されていたことを学芸員さんが説明してくれました。


櫓の重りの下の標石


測量記念石碑の近くに「豊穣の礎」という立派な石碑がありました。

それは大野町の三大用水の一つ、一本木用水を水脈とするこの地区、慶應元年(1865)二千五百二十間甘利の引水を先人が計画し、着工したのが土地改良事業の始まり・・・ということ。今日ある水田地帯への水が確保されたという重要な事業だったと・・・今日美味しいお米をいただけるのは、こういう先人の御苦労のお蔭・・・感謝ですね。



大野町の歴史に触れて歩く(1)一本木地区

2015-08-21 10:18:57 | 日記
2015年8月11日、前回八郎沼散策の折り、文月庚申塚や水田発祥の碑などを見て、大野町の史跡に関心をもったのでいろいろな所を廻った。
最初は久根別駅の踏切を通過して「一本木地名の由来」になったという巨木からスタート。
一本木の全景

説明版には
『一本木村の地名の起こりは、此の地にあったアカダモ(ハルニレ)の大木から名付けられた。
此の地を通った菅江真澄の旅行記にも記されている
アカダモは1954年(昭和29年)の台風15号で倒れたが、その根元にあった稚樹はその後成長して往年の大樹を「次ぐべく風格を見せている。』
地名由来

因みに寛政元年に蝦夷地を旅した菅江真澄は熊石にある「あわび山荘」という温泉ホテルの玄関前に歌碑があり、更に太田神社附近にも歌碑がある。

菅江真澄の歌碑2題(太田神社付近とあわび山荘)
 
また、安政の探検家松浦武四郎著「渡島日誌」には
『箱館は渡島の東面にして・・・往時は陸をはなる事・・・一つの島なりしか・・・、享禄年間河野加賀右衛門(土人の云うには加賀守)此の山趾に塁を築き是を七居浜より臨むに、其形を号て箱館と云しより・・・(中略)亀田村なる一本木なり。楢の大木有しと』と記録している。

一本木稲荷神社
『一本木稲荷神社は「蝦夷実地検考録」によれば、八郎大明神稲荷神社が合祀されている。八郎大明神の祭神己貴命(おうなむちのみこと)はおおくにぬしのみことの別名であり、国土経営の神様である。少彦名命(すくなひこのみこと)は、国土経営の任にあたり、医療、まじないの法をはじめた神ということになっている。稲荷社の祭神保食命と稲倉魂命についてはどちらも穀物をつかさどる神で、開拓を進める一本木にふさわしい神である』とのこと

一本木稲荷神社

社殿

神社の説明版と並んで「地域に根さした人々と下山家」の説明があります。