千歳市から苫小牧に向かって国道36号線から、横道に入り、カーナビに沿って進む。
JR千歳線の「美々駅」をカメラに・・・。ここは一応、秘境の駅にランク付けされている駅。
「北海道の秘境の駅」のランクには154位となっている。
国道から見えない所で、林の奥にある。秘境の駅という雰囲気ではないが、駅舎は無人駅で附近には住宅がないような雰囲気。
開業は大正15年(1926)。駅舎の中は見てこなかったが、自転車が1台あった。学生が利用しているのかな
美々駅駅舎とホームへの階段が見える。
美々駅から国道36号線に戻り、「うえない」方向に少し進み、道道10号線を左折(苫小牧に向かって)
「史跡 開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡」と「御駐蹕蹟」の石碑がある。
御前水の石碑(今でも湧水が流れている)
説明版には
『一八七四(明治七)年、開拓史(現北海道庁)はここに、一八七八(明治十一)年には、鹿肉罐詰製造所と脂肪製造所を設けました。
また、製造技術を習得させるため生徒養成所および寄宿舎を附設しました。
当時は積雪が少ないため、石狩地方などから沢山の鹿が集まりました。
この鹿の大群に着目した開拓使はこの産業化を図り、寛永(政府の営業)で鹿肉罐詰製造所を設置しました。
この鹿肉罐詰は輸出を考え、缶のラベルは日本語と英語で書かれていました。
さらに、鹿皮は当時は高価で取引されていたため、毎年五万枚以上産出しました。しかし、大雪でによる鹿の大量餓死や乱獲で絶滅の恐れがあり、一八八〇(明治一三)年に事実上閉鎖され、ついに一八八四(明治十七)年廃止されました。なお、一八八一(明治十四)年、明治天皇は二度目の北海道巡幸(視察)のため、来道され、九月三日、その帰路札幌より車駕(天皇の乗る車。当時は馬車)で千歳から、この植苗村美々で御休憩されました。そのとき、ここの飲料水を差し上げたため、この地は「御前水」と呼ばれるようになりました。
この明治天皇巡幸記念碑は一九一九(大正八)年に設置されました。
平成二十一年十二月 苫小牧市教育委員会』と書かれています。
説明版の左側には、当時の製造工場と日本語と英語で書かれた罐詰のラベルがある。
ここからウトナイト湖道の駅に寄り、小休憩し、次の目的地勇払に向かった。
JR千歳線の「美々駅」をカメラに・・・。ここは一応、秘境の駅にランク付けされている駅。
「北海道の秘境の駅」のランクには154位となっている。
国道から見えない所で、林の奥にある。秘境の駅という雰囲気ではないが、駅舎は無人駅で附近には住宅がないような雰囲気。
開業は大正15年(1926)。駅舎の中は見てこなかったが、自転車が1台あった。学生が利用しているのかな
美々駅駅舎とホームへの階段が見える。
美々駅から国道36号線に戻り、「うえない」方向に少し進み、道道10号線を左折(苫小牧に向かって)
「史跡 開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡」と「御駐蹕蹟」の石碑がある。
御前水の石碑(今でも湧水が流れている)
説明版には
『一八七四(明治七)年、開拓史(現北海道庁)はここに、一八七八(明治十一)年には、鹿肉罐詰製造所と脂肪製造所を設けました。
また、製造技術を習得させるため生徒養成所および寄宿舎を附設しました。
当時は積雪が少ないため、石狩地方などから沢山の鹿が集まりました。
この鹿の大群に着目した開拓使はこの産業化を図り、寛永(政府の営業)で鹿肉罐詰製造所を設置しました。
この鹿肉罐詰は輸出を考え、缶のラベルは日本語と英語で書かれていました。
さらに、鹿皮は当時は高価で取引されていたため、毎年五万枚以上産出しました。しかし、大雪でによる鹿の大量餓死や乱獲で絶滅の恐れがあり、一八八〇(明治一三)年に事実上閉鎖され、ついに一八八四(明治十七)年廃止されました。なお、一八八一(明治十四)年、明治天皇は二度目の北海道巡幸(視察)のため、来道され、九月三日、その帰路札幌より車駕(天皇の乗る車。当時は馬車)で千歳から、この植苗村美々で御休憩されました。そのとき、ここの飲料水を差し上げたため、この地は「御前水」と呼ばれるようになりました。
この明治天皇巡幸記念碑は一九一九(大正八)年に設置されました。
平成二十一年十二月 苫小牧市教育委員会』と書かれています。
説明版の左側には、当時の製造工場と日本語と英語で書かれた罐詰のラベルがある。
ここからウトナイト湖道の駅に寄り、小休憩し、次の目的地勇払に向かった。
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