気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(4)歌棄への道、作開

2015-09-27 23:03:38 | 日記
黒松内から道道9号線を日本海側へと進み歌棄へ向かう、途中で見に入った木碑。近寄ってみる。制札壱番の地という史跡、初めて聞く制札・・・なんだろう・・・
説明版には
『制札壱番の地』
『本地は全国でも極めてめずらしい字一番地の地であり、面積も四八七平方メートル(一四七、三坪)という日本一字(いちあざ)小さい字区域である。
 安政三年の旧黒松内山道(現道々寿都黒松内線)開削に貢献した佐藤栄五郎、その父定右衛門等の労を賞し、通行人に告げた制札が経ったことに由来している。
本年、山道開一三〇周年にあたり、記念事業としてここに建立する。
(当地は静岡県清水町に在住の亀山不二(   )氏より寄附されたものであります。
           昭和六十二年十月三日   黒松内』と説明書きがある。
(文字は若干劣化が進んでいるのか判読できない部分もある。



その制札を見て間もなく、作開が近い所で、道の右側のやや低くなている所に、説明版のような上側が見えた。
車から降りて見ると・・・林の前に説明版があった。
『斗南藩のスギ』であった。
黒松内町指定保存林であり、説明には


『安政2年(1855)津軽の人金木新吉氏ら作開に移住し、漁業、出稼ぎの傍ら、開墾を始めた。
 その後、金木新吉氏は、会津藩の嗣子松平容大三万石により、軍用旅舎の管理などを命ぜらた。
 このスギの木は、その軍用施舎の跡地に記念樹として植樹されたものである。なお、作開は旧斗南藩士は青森県南部の下北半島南部に位置するが帰農した土地で、作開へは明治4年2月から10月にかけて20戸、130余名の來往した。  黒松内町教育委員』と説明。
スギの林

作開から右折して、国道229号線を進む。

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(3)黒松内発祥の地

2015-09-26 22:15:43 | 日記
気ままな史跡探訪になってしまったが、長万部陣屋跡から黒松内に向かう途中、二股温泉への道がある。今回、秘湯の「二股温泉」には寄らなかったが、私の持っている松浦武四郎著「東蝦夷日誌」には彼が「二股温泉」に浴したことが記録されている。(浴した・・・と言っても、現在のように温泉の建物などは勿論なく、温泉に入るという感覚ではない。記録には
『(紋別川を遡る。※道東の紋別ではなく、国縫の中の沢付近にある川。ワルイ川という川もある)ワッカタレナイ(右小川)ヘタス(二股)両方共、源はカニカン岳に至る。所々に温泉所有。瘡(かさ)、切傷、眼病、こしけ等に宜しく、此邊の土人、君縫、ヲシャマンベ(長萬部)川筋等より上えう。・・・・春堅雪の比に余はモベツより、上がりしが、温泉近く迄行きて泊たり。ここに小屋を作り宿す。又浴る處も無き故に、俵笆を小川に敷て其の上に臥して温もるなり。其の温もり方他方に類なく實に奇とすべし。』と書いているので、彼は今流岩盤浴をしていたということか・・・と思った。
黒松内について、彼は
『左黒松内川を眺め、下りて風栗(ぶな)の木( ) 、是ぶな多が故號く。
後ろウタサイ(丸山)と云山有(※ 黒松内岳のことか・・・と私思うが・・・?)
クロマツナイ(川幅二十間餘、船渡壹人(一人)十三文。此の川、スツゞ(寿都)に落る。人家(當所切開人
利右衛門宅有。旅籠、木賃泊りをす。・・・近年、此川をアブタ(虻田)、ヲタスツ(歌棄)の界とす』と書いてある。
私達は黒松内市街地の「みどり橋」の附近にある「黒松内発祥の地」の石碑を探しに向った。
橋の前後の付近を捜したが、石碑らしきものは見当たらず、橋の側にある民家の広場に墓石らしきものが2基みえたが、その家のご先祖の墓かと思い、どこか・・・とウロウロし、消防署があったので、地理に詳しいと思い、うかがった。しばらくして、橋のたもとにある・・・と。実は私達が墓石と思ったのが目的の「黒松内発想の地」の石碑だったのだ。
目印のみどり橋

黒松内発祥之地跡碑と初代戸長役場跡地之碑

石碑のある景色

黒松内について、松浦武四郎は「東蝦夷日誌」
『春分、出稼ぎの往来する此は毎夜五六百人ヅゝ止宿する也。』(切り開き人利右衛門宅に泊まっている。)
黒松内の開基は1871年伊達邦成の家臣13戸が黒松内に入り、また、斗南藩士24戸が作開に、山本玉吉他数戸が白炭にそれぞれ入植したこと・・・とのこと。
町名の由来はアイヌ語の「クル・マツ・ナイ」和人の女のいる沢。
また、斗南藩といえば、会津藩が新政府軍に敗れ、青森の下北半島に逃れるように・・・行ったと記憶している。

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(2)ヲシャマンベ陣屋跡

2015-09-25 21:45:13 | 日記
山越内関所跡の継ぎは長万部にある「ヲシャマンベ陣屋跡」を廻った。
陣屋町にあり、街の中を通り、庁道と国道5号線の分岐手前にある。

南部陣屋線の道案内が目印

赤い鳥居が見える。

陣屋跡石碑

説明版には
『ヲシャマンベ陣屋跡 安政二年(一八五五)、南部藩は恵山から幌別までの沿岸一帯を幕府から命じられ、箱館(函館市)に元陣屋を、室蘭に出張陣屋を砂原、長万部には分屯所を設けることにした。
 ヲシャマンベ陣屋は室蘭の陣屋と同じで、安政三年(一八五六)に構築されたが、安政四年(一八五七)十二月に、長万部沿岸が砂漠遠浅のため、外国船が容易に近づけないことから、陣屋の必要性がなくなり、南部藩は自藩に引き上げた。
渡島北部における唯一近世史跡として昭和四十九年八月に国指定文化財(史跡)となった』
                                    文化庁・長万部教育委員会
陣屋跡の石碑のところには飯生神社由緒の看板があり、階段を上ると広い敷地奥に神社社殿がある。

飯生神社の祭神について
    天照 大神(アマテラスノミコト)
    大国 主命(オオクニヌシノミコト)
    倉稲 魂命(ウガノミタマノミコト)  と説明している。
飯生神社

この後、長万部町から国道5号線を進み、蕨岱の駅を過ぎ、蘭越方面との分岐で左折し、黒松内町へと向かった。
蕨岱駅は無人駅で、近くに民家はないが駅の周りは清潔に保たれている。
因みに、松浦武四郎著の「東蝦夷日誌」の山越内領には蕨岱の地名が記録されている。
『二股を過ぎて・・・坂に上がり、左高山、右原山也。蕨岱(夷言 トハウシ、人家あり)畑有、また瓜を作る。此所の名産とす。前に禮文木(華)岳を見て、頗る風景也。』と記録がある。
蕨岱駅



天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(1)山越内関所跡など

2015-09-23 22:28:46 | 日記
2015年9月22日(国民の日)、快晴の天気に誘われて、「八雲あたりの温泉でも行くか~」と家を出た。
八雲といっても二海郡八雲町はひろく、熊石や鉛川の方にも温泉がある。熊石のあわび山荘もいいな~とか話していたが・・・
 国道5号線は祝日にもかかわらず、スムースな車の流れであった。山越を通過するとき、以前に撮った山越内関所跡や「最北の山越内関所」や「道の手形」の看板が逆光で読み難かったので、再訪した。
また、関所跡の横に鳥居があったが、奥の社殿に行っていなかったので、そこにも寄り道した。
寄り道ついでに、次は長万部のヲシャマンベ陣屋跡などにも行こうということになって、温泉への予定は次々と変わり、長万部から黒松内~寿都~倶知安などを廻った。
長万部で有名な「かに飯」と駅前のそばを購入し、昼食に備えた。(景色の良いところで・・・ランチ予定)

再訪の「山越内関所跡」と「日本最北の山越内関所」と「道の手形」


この地区は由追の稲荷神社とともに、松浦武四郎著の東蝦夷日誌に『ここに境の稲荷(小社)と云有。余はいつも捧げものをなし、道中の安を祈りて入けるに・・・此一首をぞ書附たりける。
  『天地の も知りませ 國の為 千島の奥に 思ひ入る身を』と詠み、また、『山越内(制札、会所、旅宿所、・・・馬や二、鍛冶や、漁や、雑蔵、建や)、本名ヤムウシ内にて、栗多澤の義。其の地今のサカヤ川なり。・・・山根に諏方(訪)明神の社(稲荷合殿)有。圓空鉈作り座像の薬師如来を安置す。(社司茂邊地村より來る。)』と書いている。
 八雲町のホームページには「諏訪神社の円空仏は秘仏で、見ることはできませんが、松浦武四郎著「丁巳東西蝦夷山川取調日誌」には円空物のスケッチが描かれている・・・とスケッチが掲載されている。
ホームページから引用させてもらう・・・

JR函館線の跨線橋の奥にある山越内諏訪神社には「円空作の薬師如来坐像」があるということ・・・。あれば見たいものです。
以前、撮影した「蝦夷地・和人地の境跡」(境川にかかる境橋にある)、国道5号線沿いにある「稲荷神社」


(この神社で松浦武四郎は旅の安全を祈願した。)
「山越内関所跡」の説明

説明の中の「東蝦夷地より国後への陸地道中絵図」の中に「山越諏訪神社」や「井戸」「馬ヤ」「造酒」「稲荷神社」のスケッチがある。

関所跡石碑と夜泣き石

会所の井戸

『この地はもとは山越内と呼ばれ、早くから和人の出入りのあったところ。寛政一一(一七九九)年には江戸幕府かの直轄地となり、翌一二(一八〇〇)年には、亀田(現函館市内)にあった関門(関所)がこの地に移設され、蝦夷地と和人の境として通行の取り締等を行う重要な地となった。この井戸は、関門が移設されたころの会所の井戸を「東蝦夷地より国後への陸地道中絵図」より推測して復元したもの・・・』と説明されている。

山越内諏訪神社鳥居

鳥居と社殿の間をJR箱館本線のレールが敷かれているというのも珍しいかと・・・

JR函館本線の跨線橋(鉄さびて、一部劣化しているので・・・自己責任で奥の社殿に・・・

山越諏訪神社についての説明版はなかったが、鬱蒼とした森の中に社殿・狛犬・手水場がある。






大沼:駒ケ岳神社へ行く(駒ケ岳は大噴火前は富士山のようだった)

2015-09-15 12:30:01 | 日記
2015年、7月に七飯町の大沼湖畔の北側にある国定公園「大岩園地」の散策をしたが、園地入り口の近くに「駒ケ岳神社」があるので、後日(8月1日)、神社へ行って来た。
7月に行った「大岩園地」


 この神社の側に大きな岩がある。園地の名前由来はこの大岩から名付けられたという記録はないが、関係があるような気がした。
駒ケ岳神社
(神社左が大岩)

神社由来についての説明版があり

秀峰駒ケ岳は寛永17年6月の大噴火以来、たびたびの噴火により、周辺地に大きな被害を与えた。
 大正5年、大沼保存会の有志により山の神奉納奉仕会を組織し、噴火口の断崖に石室を造り、鉄の扉をつけ、総本山として大山祇神を祀り、石室には御神体偶像を安置せず、奉幣及び剣、勾玉、鏡を納め、同年9月1日、大沼村民多数により奉安祭典が行われたのが駒ケ岳神社の始まりとされている。』
 その後、昭和4年6月の大噴火により山容が大きく変わり当時、富士山のこコニーデ形をしていたものが、その大部分が欠け、一部は剣が峰(海抜1,131m)として残り、鋭く点を附く特異な山容を作り、その下に馬の背、向かいに砂原岳が形成され、現在の形となっております。
  この説明を見て、私たちが何度も見ていた駒ケ岳は、実は「富士山」のような山であったということを知り、大噴火前に見ただろう人が、「渡島冨士」と名付けてはいなかったのだろうか・・・と思ったりした。
この地を通った安政の探検家松浦武四郎や、明治11年英国の女性旅行家イザべラ・バードは大噴火前の駒ケ岳を見たことになる。現在の駒ケ岳の山容も絶景ですが、富士山に似ていたという駒ケ岳は、私には想像がつかない。
 小学校だったか、中学校の遠足では、この駒ケ岳神社横の大岩にある「銚子口登山コース」から登ったのだが、記憶にはこの神社はなかった。(石室から、現在地に移ったのが昭和48年と・・・ある。記憶がないはずである。)
因みに、銚子口登山口は現在は閉鎖となっている。

また、説明を良く見ると、
『昭和48年、当時の観光協会の有志により、噴火口断崖より現在地に移された』ということでした。
神社の隣の大岩は全国的にも珍しい、溶岩噴出によって落下した石及び火山灰のガラス状が溶け合ってできた溶結凝灰石で、寛永17年の大爆発によって出来たものと言われている・・・。
駒ケ岳神社風景(左側が大岩。神社は右奥)

大岩に洞窟があり、通りぬめることにより、難関突破の意味から登山の安全を願ったり、家内安全、安産祈願などを願う祈願の処としても利用されているとのこと。
この洞窟の通りぬけたところに湧水があり、ザリガニの生息に適しているとか古来から長寿の霊水として珍重され、登山者ののどの渇きをいやしていた・・・とも記録されていた。