黒松内から道道9号線を日本海側へと進み歌棄へ向かう、途中で見に入った木碑。近寄ってみる。制札壱番の地という史跡、初めて聞く制札・・・なんだろう・・・
説明版には
『制札壱番の地』
『本地は全国でも極めてめずらしい字一番地の地であり、面積も四八七平方メートル(一四七、三坪)という日本一字(いちあざ)小さい字区域である。
安政三年の旧黒松内山道(現道々寿都黒松内線)開削に貢献した佐藤栄五郎、その父定右衛門等の労を賞し、通行人に告げた制札が経ったことに由来している。
本年、山道開一三〇周年にあたり、記念事業としてここに建立する。
(当地は静岡県清水町に在住の亀山不二( )氏より寄附されたものであります。
昭和六十二年十月三日 黒松内』と説明書きがある。
(文字は若干劣化が進んでいるのか判読できない部分もある。
その制札を見て間もなく、作開が近い所で、道の右側のやや低くなている所に、説明版のような上側が見えた。
車から降りて見ると・・・林の前に説明版があった。
『斗南藩のスギ』であった。
黒松内町指定保存林であり、説明には
『安政2年(1855)津軽の人金木新吉氏ら作開に移住し、漁業、出稼ぎの傍ら、開墾を始めた。
その後、金木新吉氏は、会津藩の嗣子松平容大三万石により、軍用旅舎の管理などを命ぜらた。
このスギの木は、その軍用施舎の跡地に記念樹として植樹されたものである。なお、作開は旧斗南藩士は青森県南部の下北半島南部に位置するが帰農した土地で、作開へは明治4年2月から10月にかけて20戸、130余名の來往した。 黒松内町教育委員』と説明。
スギの林
作開から右折して、国道229号線を進む。
説明版には
『制札壱番の地』
『本地は全国でも極めてめずらしい字一番地の地であり、面積も四八七平方メートル(一四七、三坪)という日本一字(いちあざ)小さい字区域である。
安政三年の旧黒松内山道(現道々寿都黒松内線)開削に貢献した佐藤栄五郎、その父定右衛門等の労を賞し、通行人に告げた制札が経ったことに由来している。
本年、山道開一三〇周年にあたり、記念事業としてここに建立する。
(当地は静岡県清水町に在住の亀山不二( )氏より寄附されたものであります。
昭和六十二年十月三日 黒松内』と説明書きがある。
(文字は若干劣化が進んでいるのか判読できない部分もある。
その制札を見て間もなく、作開が近い所で、道の右側のやや低くなている所に、説明版のような上側が見えた。
車から降りて見ると・・・林の前に説明版があった。
『斗南藩のスギ』であった。
黒松内町指定保存林であり、説明には
『安政2年(1855)津軽の人金木新吉氏ら作開に移住し、漁業、出稼ぎの傍ら、開墾を始めた。
その後、金木新吉氏は、会津藩の嗣子松平容大三万石により、軍用旅舎の管理などを命ぜらた。
このスギの木は、その軍用施舎の跡地に記念樹として植樹されたものである。なお、作開は旧斗南藩士は青森県南部の下北半島南部に位置するが帰農した土地で、作開へは明治4年2月から10月にかけて20戸、130余名の來往した。 黒松内町教育委員』と説明。
スギの林
作開から右折して、国道229号線を進む。