気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

平取 紫雲古津~二風谷イザベラ・バードの歩いた道 2013年10月15日

2013-10-22 22:11:28 | 旅行
数年前になるが、某小児科の医師がイザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読んでいたので、明治初期の北海道を旅した外国人にも興味があり(松浦武四郎同様に・・・)、手に入れて読んだ。
彼女は、明治11年に北海道を旅行し、日本の先住民族の文化や伝統を紹介している。
イザベラ・バードの歩いた道はフットパスとして、ルートが整えられているようです。私たちは台風の接近する前に平取の二風谷にある歴史の道の中に、バードの碑(レリーフ)があるので、向かった。
向かう途中、平取には義経伝説があり、神社があるのでに寄り道した。神社の鳥居の左側に偶然にもイザベラバードのフットパスゴールという説明版を見つけた。これは全く予期していないことだったのでお宝に出合ったような、嬉い思いをした。
この歴史の道には敬愛する松浦武四郎や金城マツさんなどの碑があり、数年前に訪れたことがある。沙流川のダム公園になっている場所でとても広く、バードのレリーフがどこにあるかを探すのは大変であったが、案内図があり、野外劇場の方と云うことが分かり、歩いた。
因みにイザベラバードは函館の七飯町を通り、現在のJR森駅裏側にある旧桟橋から室蘭に向かっている。
森町の駅近くのかまぼこ工場の近くの民家と民家の間の駐車場にバードの碑がひっそりと建っている。(jRからは裏側しか見えない。)
「日本奥地紀行」平凡社出版

青森から函館に着いて、『ここも日本なのだが、何か異なったところがある。・・・陸地にとり囲まれた湾の水はアドリア海のように青い。・・・しかし・・・家屋は低くてみすぼらしい。』と当時の様子を書いている。屋根上に石を乗せているのは驚きだったのでしょう。しかし、石は風の強い地方の家屋を守る最も安価な方法・・・とも言っている。
義経神社入り口案内と鳥居
   
フットパス・ゴール碑 

二風谷の野外劇場にある彼女のレリーフ
『英国人の女性旅行家で紀行作家。明治11年47歳の時に来日し、通訳の和人青年を案内人として、8月に北海道を訪れた。函館からの公的の陸路はすべて馬で踏破し、沙流川の河口からは丸木舟で川を上った。アイヌ集落の取材を目的とした来訪であったが、平取村ペンリウク宅に滞在しながらの四日間の観察叙述は、明治初期の民族史的記録としてきわめて貴重なものである。』と説明がある。


義経峠(道道80号線にある)
伝説でありながら、地図にも「義経峠」の名称が書かれている。

富川の郷土資料館裏フットパススタート地点(富川郷土資料館の裏側の駐車場にある。ここから、約15㎞のフットパスの道になっている。

紫雲古津橋にあるバードの碑(バードはこの近くにある渡船場で対岸に渡ったらしい)

紫雲古津橋のバードの説明版へのルートは、門別町富川から日高へ向かう国道237号を行くと、紫雲古津小学校がある。その付近を右折して、進み橋を渡り切ると道路の右側に見える。
平成21年(2009)渡船場であったところに「紫雲古津川向大橋」(正式名称)が架けられた。彼女は、沙流川の風景として
『[和人の)少年に案内してもらい、丸木舟に載って、佐瑠太川をできるだけ上流に遡ることにした。この川は美しい川で、筆舌に尽くしがたいほど美しい森や山の間をくねくねと曲がっている。今まで誰一人として、この暗い森に包まれた川の上に船を浮かべたヨーロッパ人はいない。私はこの風景を心行くまで楽しんだ。』と故郷のニューイングランドの晩秋のような素晴らしさと評価している。また、松浦武四郎の「東蝦夷日誌」に「紫雲古津」のことや、「義経神社」の記録もある。



新ひだか町真歌 松浦武四郎の記念碑 2013年10月15日

2013-10-21 20:11:50 | 旅行
真歌の丘には2012年6月にアイヌ民族資料館やシャクシャインの像を訪ねていたが、その後、同じエリアに松浦武四郎の記念碑が建立されたことを知った。何れ来たいと思っていたので、1年を過ぎて実現した。
松浦武四郎はアイヌの人たちにはいろいろな思いを持っていた。
また、彼の著書「東蝦夷日誌」にはシャクシャイン城址についても触れている。西蝦夷日誌の四編シツナイ領によると
『東にウエンナイ(小川)サツ(小川、人家あり)ルウトラシ(小川)上にチャシコツ(城址)、此處錫者允(しゃくしゃいん)の居城なりしと・・・』と記載がある。
その記念碑石碑台座には
『新ひだか町と松浦武四郎』と題して
『松浦武四郎は今の三重県松阪市に生まれ、幕末にアイヌ民族と深い交わりを保ちながら六度にわたって蝦夷地を踏査した。武四郎はこの静内地方に三度訪れて詳細な記録を残した。
 弘化二年(一八四五)に海岸沿いに歩き、地形、産物、歴史を記録。捫別川、三石川、鳧舞川(けりまい)を遡って、すべてのコタンを訪れ、その地に住むアイヌ民族の名を後世に伝えるとともに「心情の率直で、淳朴なことはたとえようがない。世の方々にアイヌ民族の美しい心を知っていただきたい」と絶賛した。
 アイヌ民族に導かれて蝦夷地内陸部深く奥まで踏査した松浦武四郎は百五十冊を超える調査記録には、随所にアイヌ民族が台地で育んだ生活の知恵と文化が記され、残された地図には九八〇〇ものアイヌ語地名が収められている。
 明治二年(一八六九)、蝦夷地を改称するにあたり、松浦武四郎はその名を「北加伊道」と撰定した。これは「ここはアイヌ民族が暮らす台地」という思いを込めたものである。・・・(中略)新ひだか町のアイヌ民族と松浦武四郎の民族を超えた交流と共になしえた業績を讃え、ここアイヌ民族の聖地、真歌の丘に記念碑を建立する。  二〇一二年五月十二日  』と刻まれている。
アイヌ民族資料館                           記念碑
  
同じ丘にあるシャクシャインの像                    シャクシャイン城址
  
国指定史跡「シベチャリチャシ跡群」
チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所と云われ、アイヌ文化を研究する上で重要な遺跡です。
「寛文9(1669)年の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。」と書かれている。

この後、三石の温泉旅館蔵三へお世話になった。丁度テレビ局が旅館を取材しているところであった。
また、旅館のエリアが海浜公園と隣接しており、その所に函館に銅像のある高田屋嘉平衛の石碑があると調べていたので、探したが、公園内には見つからず、旅館の駐車場の端に移っていた。三石の昆布で大きな財をなした彼の拠点であったのだろう。
       
暗くて読みにくいが、この碑は「北方航路の開拓者であり、北方交易の先駆者として三石場所の産物の流通に多大な貢献をされた嘉兵衛の偉業を偲び、本町に在住する高田家子孫によって建立された・・・と書かれている。元は三石小学校前にあったそうですが、翁の故郷淡路島を望むこの地に移し、後世にその偉業を伝えんとするもの・・・。

京極町の松浦武四郎の歌碑 2013年10月6日

2013-10-07 18:52:31 | 旅行
3年前の2010年10月に虻田郡京極町の温泉の付近に松浦武四郎の歌碑があるので、岩内方面に行ったときに歌碑を見てきたが、裏書を見てこなかったので何故、その地に歌碑があるのか確認できなかった。
今回、天気が良かったので「小さな秋を見つけようか・・・」と家を出て、紅葉のきれいなスポットである八雲町の雲石峠に行ってみようと思ったが、、まだ紅葉には早すぎた。
それで、気ままに、あちこち寄り道ドライブをすることになり、まず珍名の川がある国縫に行った。地図にはその名前ワルイ川の名が記載されているので、その場所に来て見たが・・・珍名を証明するもの見つけることが出来なかった。
それで、黒松内の方に向った。道の駅で黒松内のトワベールでこだわりのハムやベーコンなどを買い求め、更に、ニセコが近いので、羊蹄山をぐるりと廻って京極温泉の駐車場にあるその歌碑を再訪した。
  
    歌碑には「天津風 胡砂拂へ しりべしの
                千代ふる雪に 照る日陰見む」松浦武四郎 

歌碑の裏には

『安政五年二月 松浦武四郎が氷雪の中を虻田から札幌へ踏査する途中、後志羊蹄山を仰いでこの碑の一首を詠じた。
雄大、豪放、その格調の高さに於いて、稀に見る名歌である
 松浦武四郎弘は伊勢國一志郡須川村の人。文政元年二月六日生、十六歳の時、国内周遊を志、あまねく足跡を印したが、當時、蝦夷地の重大さを知り、前後六回に亘って縦横に踏査し、その結果詳細に日誌及び地図として天下に紹介し、その開拓方策を要路へ献じ、明治となるや、最高の蝦夷地通として新政府に用いられ、国郡の選定にあたった。北海道の名及び国郡名は実に武四郎の原案によったもので、北海道民としては忘れることのできない先駆者である。武四郎は又、国士 学者 画家 文人 宗教家として當代一流の人物であった。
深く羊蹄を愛し、前後三回に亘って後志川の全貌を明らかにしたばかりか、この山を中心に道を四方に開き、神を祀って蝦夷地空きたく精神の中心をここに於こうと努力した。終生僻地開拓のことを忘れず、、その熱意は明治二十一年三月十日七十一歳をもって東京の自邸に没するまでつづられた。』
    昭和39年9月撰文 北海道大学教授  農学博士 高倉新一郎・・・と刻まれている。再訪して京極にある理由が理解できた。

京極温泉でいい気分になり、北海道内の彼の足跡も残る場所は少し・・・。思えば2008年に摩周湖から見える摩周岳登山をした翌日、弟子屈町にある屈斜路湖湖畔の和琴半島を一周した際、偶然にも、松浦武四郎の久摺日誌だったかと思うのですが、その日誌に書かれている「オヤコツ地獄」についてや、「ヲヘライベ」という湖に生息する魚の絵(武四郎が書いたもの)を見てから、彼の足跡を訪ようと思ったきっかけになった。この数年間、休日利用や仕事を卒業してからは目的をもった旅として楽しみになっていた。武四郎についていろいろ教えて下さる方々のおかげもありました。三重県の松浦武四郎記念館の名誉館長高瀬氏や松浦武四郎研究会名誉会長の秋葉實氏や丸瀬布郷土資料館に武四郎の足跡マップがあるよ・・・とメールいただいた「一人歩きの北海道山紀行ホームページ」(http://sakag.web.fc2/index.html)管理者のsakag氏、女満別の教育委員長W氏、芦別の郷土資料館館長の長谷山氏、「道北の釣りと旅」にリンクして下さった方など、歴史を知るだけではなく、多くのご親切な方々との出逢いも大きな収穫と感じている。