気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

岩内町 郷土資料館内武四郎探検の図

2013-07-18 22:38:06 | 旅行
仁木町稲穂峠の松浦武四郎の歌碑を見て、岩内町の郷土資料館を訪ねた。目的は、館内にある松浦武四郎や案内の人たちの様子を描いた絵があるからである。館内の二階に上がり、階段を振り向くと壁一面の大きな描絵がある。

 『安政三年四月二十七日、松浦武四郎はスイド、サケノカロ(アイヌの案内人)和人庄内の常吉、松前の富次郎の四名を伴い、磯谷よりライデンの難所をこえて岩内の地に立つ。  山岸正巳作』とある。
 岩内には郷土資料館の探検の様子の絵があるのみであるが、西蝦夷日誌の「岩内領」の編には付近の雷電にある弁慶の刀掛岩の記録もある。興味があるので・・・『雷電山の新道開墾は箱館奉行の鎮将の功勲實に萬世不朽の業、誰か仰がざらん。扨其境アプシク(断崖)より数丈の岸屏恰も掌を立し如く、是に添いて(十二町廿間シレパ(岩岬)、廻り(ニ町)エトウシホロシレパ(岬)磯谷より望むに第一岬とす。和人是を弁慶の刀掛といへり。
 千萬の仇をなびけし やき太刀の ひかりは遠く 名に残りけり 』と読んでいる。
(個人的には雷電海岸の弁慶の刀掛け岩は夕陽もきれいなので、その辺に武四郎の歌碑が有ったら北海道人としては嬉しいが・・・)
資料館1回展示室には夏目漱石が岩内に戸籍を映してた資料があった。また、古いが能く手入れされた、立派なリードオルガンがあった。珍しく左右には円形の台が付いており、電燈のない時代の燭台か・・・譜面台も芸術的でクラッシック。近年、オルガンを復活させて調律し、コンサートも行ったという。現存で現役の日本最古のオルガンのようです。100年の時を超えて演奏できるオルガンに興味を持った。ジッと見つめていたら、職員の方が「弾いてもいいですよ!」・・・貴重なものには手をふれないでください・・・という所が多い中、誰でも触れていい・・・本当に良いんですか?なんて懐が広いのでしょう・・・。どんな音色なのか興味あったので、つい私も手を触れ踏み足台を動かした。柔らかい・・・いい音です。学生時代、オルガンの曲を聞きにいった教会にはまだパイプオルガンが入っていなかったがその音色、記憶に残っている響きと似ていた。
 ピカピカに手入れされているオルガン

 また、郷土資料館前には「野生のホップ自生の地」という碑があり、ホップを撮影。
岩内はアスパラ発祥の地として知っていたが、ホップもあったんですね。(岩内ビールでもあったのでしょうか・・・?)

岩内郷土資料館の敷地内には「ニシン街道」の看板が建てられている。かつて日本海側は鰊御殿が建つ栄えた時代があった。
(南は江差から北は小平の花田番屋など・・・ソーラン節がその華やかさや漁師の生活を物語るのでしょう・・・)
岩内から次の目的地へ泊原子力発電所の横を通って、神恵内に向かった。

仁木町稲穂峠 松浦武四郎の歌碑

2013-07-17 22:01:52 | 旅行
2010年10月3日、早朝に自宅を出発し、落部ICから虻田洞爺ICまで高速利用で喜茂別を通過して国道5号線に出、国富の分岐を右折し、余市方面に向かった。稲穂峠にある「松浦武四郎の歌碑」を訊ねる目的。これは「西蝦夷日誌 下」の「岩内領の編」に武四郎の和歌が書かれている。
稲穂峠について『マッカリベツの支流に出て、余市川に出、シャックルベシベ(昔の余市のこと也に至る。)夏越道の義也。上りエナオ(稲穂)峠(ルベシベと云う)是境目なり。標識を立。(中略・・・)過ぎて本流(余市川)端に出る。其の幅五六丁間。水勢吼々と、中々舟し難し。其の振動の出来を感じて
  岩ほ切 木を伐り草を苅りそけて みちたひらけし 山のかけとも 』と詠っている。この碑は稲穂トンネルを抜け、仁木町方向に向かって左側の広場、駐車場の山寄りに建立されてある。

歌碑の説明版には
『幕末の蝦夷地探検家であり、北海道の名付け親でもあった松浦武四郎は、文政元年(一八一八)二月六日伊勢の国一志郡須川村(現三重県三雲村小野江)の郷士松浦桂介の四男として生まれる。本名は弘(ヒロム)幼名は竹四郎が通り名になった。(中略・・・)安政四年、箱館奉行より蝦夷地山川地理取調方の命を受け、同年五月十四日、その巡検の途に次、岩内から余市に至る新開の余市越え山道を見分しながら稲穂峠を越え、七曲、然別,オサルナイを経て余市に向かったが、まず振動の出来阿部を川に託し、次いで現在の仁木町に当たる地域の山野に着目して、その豊富な樹木や余市川の水利に恵まれていた広い沃野、それに余市や小樽をひかえた地理的高1などを挙げ、早期に開墾の必要性を研いでいる。・・・仁木町にとって松浦武四郎はその開拓の黎明を告げた参画者というべきである。』と書かれている。

歌碑の少し奥まったところに「まつうらの滝」と書かれているが・・・まつら・・・の滝か(草書なので・・・があるように読める)
歌碑と滝

また、松浦武四郎著の「丁巳東西蝦夷山川取調日誌 下」には「稲穂峠」について『ルベシベナイ・・・左本川は未だ其源遠しと、川源はハンケヘタヌ源と並び達するとかや。扨此処より支流ルベシベナイを上ること十七八丁にて峠へ至る。則此処を エナヲ峠 と云よし。頂上樺木多し。此処にて一同木幣を削りて天地の神に手向、また箬原を分けて下る。此辺清水涌き出でる。五丁計下り ルウトラシナイ の源え出る。』と記録している。
この後、岩内の郷土資料館を訪ねた。

八雲 稲荷神社の松浦武四郎の木碑、境橋「蝦夷地・和人地」の境 跡

2013-07-13 15:00:55 | 旅行
 国道5号線を森方向から長万部方向に進むと海側に真っ赤な鳥居と神社が見えてくる。山越付近を通過する毎に気になっていた。
「蝦夷日誌 上」には「山越内領」の記録がある。『ここに稲荷(小社)と云有。余はいつも捧物をなし、道中の安を祈りて入けるに、或時此一首をぞ書附たりける。
   天地の 神も知りませ 國の為 千島の奥に 思ひ入る身を  
  (内地蝦夷の境という注釈があり・・・)
標柱(従 函館 十里十四丁)是を内地・蝦夷地の境とし、文化比迄夷家有しが、今は他へ移たり。(中略・・・)山越内、本名ヤムウシ内にて、栗多澤(ヤムウシナイ)の義。其の地今のサカヤ川也。昔し其の所に會所有し故、場所の惣名となる。此所の本名はバロシベウシとて、住吉関柵を結し時用ひし木の切り株多を以て名づけしと。元松前家臣青山某(園右衛門)給知也。(以下略』と記載されている。このところには山奥に諏訪明神(稲荷合殿)有。圓空鉈作り座像の薬師如来を安置す・・・と書かれているので、もしかしたら、この稲荷神社に圓空作の像があるのでは・・・と記録から想像するが、確かめてはいない。(もしかしたら・・・山奥の・・・とは熊石の太田神社のことか?)
由追神社と記憶していたが、最近、稲荷神社の新しい石柱が建立され、松浦武四郎の木碑は石柱の陰になり、以前の様には見れない。
 以前の撮影状態(2009年)
(旧神社)
2011年の撮影

(説明と詠んだ詩・・・写真は2009年のもの。現在は半分が石柱に遮られて真正面からの全面撮影出来ないのは武四郎ファンとしては少々残念)
説明によると『由追地区は、享和元年(一八〇一)年、山越内に関門が設けられたころから住民が増え始めた所です。嘉永元年(一八四八)頃には漁場へ働きに来る人や往来する人で春夏秋には大いににぎわい、番屋、宿屋、茶屋、仕立て屋、私塾などがあっち並び、山越内とともに東蝦夷地屈指の繁華なところとして栄えました。この稲荷神社は、文化二(一八〇五)年ころに建立されたものと考えられています。幕末の蝦夷地探検家で、地理学者であり
、北海道の名付けの親でもある松浦武四郎は数度にわたり蝦夷地を探検し、安政五(一八五六)年にも東蝦夷地探検の名を受けて、一月二十四日に函館から第六回の探検に旅立ちました。(前記の詩をしるしてある。)』八雲教育委員会
境橋と蝦夷地・和人地の境跡木柱の添え書きには『野田追場所と遊楽部場所の境であったこの場所は、享和元年(一八〇一)に小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追の六箇所が村並となったのにともなって定められた。江戸時代の蝦夷地と和人地の境です。』とある。

神社付近には「山越内関所跡の石碑や地名由来の説明の碑がある。

町名の由来は八雲開拓に徳川慶勝公が日本最古の和歌とされている「古事記」の載っており須佐之男命の歌「八雲たつ 八雲垣根 つまごみに 
八重垣つくる その八重垣を 」「八雲たつ」は出雲の枕詞になったことから。たくさんの雲がわき上がる出雲の国に、八重書きをのあの雲のような壮大な住まいを建てたい、国づくりも・・・と豊かな村の建設を願って「八雲」と命名されたとある。
 山越はもともとは酒屋川の流れている沢の名。語源はアイヌ語の「ヤム・ウク・ウシ・ナイ」で栗拾いをいつもする澤という意味であるとのこと。
山越内関所跡と会所の井戸跡