気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

大野町(現北斗市)の二股口古戦場 2013年5月24日

2013-05-30 13:23:04 | 日記
木古内から湯ノ岱と宮越の間にあるJR江差線「あまのがわ」駅?に寄り、ぐるっと廻って、厚沢部から大野方面に向かう。以前、国道沿いに立っている「二股口激戦地」に入ったが、道が左右に分かれていたが、道が雑草で見えなかった。今度はわかりそうなので、左側に進んでみると、山に入る案内標識があった。細い道ではあるが登山道のように踏み跡が明瞭。ところどころに「古戦場跡」への道案内がある。
国道227号線沿いの入り口
国道沿いの二股口激戦地への木柱の側には「箱館戦争二股口の戦い」の説明が書かれている。
「明治元年(1868)10月、、榎本武揚率いる艦隊は鷲ノ木に上陸した。新政府軍に勝利した榎本政権は五稜郭に樹立した。奪回をめざす新政府軍は江差方面から上陸し、江差山道を通過するのは十分想定された。従って榎本軍は山沿いに散兵壕や台場を築き、下二股側の崖をはさんで反攻を防ぐ作戦に出た。新政府軍は翌2年(1869)予想通り乙部、江差から上陸した約600人が山道を通った。
(私たちは乙部の官軍上陸の記念碑は2011年に訪ねている。)

一方、榎本軍の土方歳三を隊長とする約300人は台場山へ砲台も築き二股口で待ち構えていた。4月13日(旧暦)、新政府軍は対岸にたどりつき戦闘が開始された。川を渡り天然の要塞である二股口を突破しようと何度も試みるが土方隊の発砲で押し返された。
海岸線矢不来の戦いで榎本軍が敗れたため、土方隊が5月1日陣地を放棄して五稜郭方面へ退却した。」
   平成12年8月   大野町教育委員会  (平成十八年二月一日より 北斗市教育委員会)
車を止めた所から平坦な道を歩き、激戦地への登り道へ入る所  
歩きやすい山道もある。
山道の奥には「江差山道」についての説明と土方歳三の詠んだ歌碑がある。
「江差山道通行の難所と二股古戦場跡」
『この場所は、昔一番古い道路のあったところで、江差山道の難所と云われたところです。下方の川は大野川の支流下二股側があります。箱館戦争の明治2年の戦いでは、榎本軍が各要所に塹壕を掘って土方歳三を隊長とする約300人の兵を率い頑強に官軍の全身を阻止したところであります。
海岸線の矢不来線では榎本軍が退却したので、土方軍も撤退したものですが、そうでなかったら二股戦はまだまだ長引いたものと思われる。明治3年8月4日には、後に京都東本願寺22代法王となった大谷光螢一行が江差までおもむくためにこの沢を越したところでもあり、江差のニシン漁華やかな時代には大勢の人々が往来したところの道路でもありました。
   大野町教育委員会(平成十八年二月一日より北斗市教育委員会)』と書かれてます。

途中、塹壕や箱館戦争土方郡戦死者の御霊の場所がある。  
また、山道説明版の横には土方歳三の詠んだ歌碑があります。
  『シノビリカ いづこを 見ても 蝦夷の月』
『「シノビリカ」とは「大変良い」という意味のアイヌ語である。「蝦夷の月」はどこから見ても本当に美しく、この台場からの眺めはまた格別だ」と
この台場山でのいずれかの戦の前の束の間の休息時に詠んだのであろう。辺境の地に身を置く感漑と激戦という嵐の前の静けさが伝わる一句である。』
      二〇〇九(平成二十一年)六月 大野文化財保護研究会   と記載されてます。
 山道途中でニリン草が咲いていた。
参考:乙部の官軍上陸の地
『北海道夜明けの地~箱館戦争官軍上陸の地』の説明には『明治二年四月九日未明、乙部沖に官軍の「甲鉄」、「春日」など八隻の軍艦が集結し、にしん漁最盛期の前浜は黒船の来襲を思わせる光景となっていた。箱館戦争(明治元年~二年)は鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争の最終局面で榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷共和国の成立を目指して蝦夷地を占領した戦いとそれを明治新政府の官軍が奪還した戦いをさします。明治元年「開陽丸」などで東京、品川沖を脱走した旧幕府軍は、十月二十日、鷲ノ木(森町)に上陸、箱館、松前、館城(厚沢部町)などを次々と陥落させ、十二月十五日、箱館・五稜郭において蝦夷共和国を成立させました。官軍は、翌年兵力をたて直し青森に集結。千五百人の兵と「甲鉄」、「春日」「朝暘」など軍艦八隻で四月六日蝦夷奪還に向け出港しました。途中霧のため平館(青森県、東津軽郡)に停泊後、松前、江差のお気を旧幕府軍に気付かれないよう通過。乙部沖には九日未明に到着し、上陸の状況をうかがったのであります。村民は大挙して沖に現れた官軍の軍艦に対し、漁船を出港して、旧幕府軍の情報を伝え、これが上陸開始の契機となり、津花(当地)及び相泊(館浦)への千人の村民が官軍に協力したことによって、その後の線上における重要な役割を果たすことになったのです。・・・・略・・・江差を奪還。松前道や鶉山道(渡島中山峠)などから箱館に進軍し、ついに五月十八日、榎本武揚をはじめ旧幕府軍千人を五稜郭から投降させ箱館戦争が終結しました
。・・・略・・・』今テレビで「八重の桜」が放映中ですが、鳥羽伏見の戦いや榎本武揚などの名が出ています。

木古内 芝桜 2013年5月24日

2013-05-29 22:43:05 | 日記
「一人歩きの北海道山紀行」の管理者であるsakagさんのホームページで木古内町の芝桜をアップされていた。その美しさに誘われて私たちも見に行った。
 木古内駅の近くに案内看板があるのでわかりやすい。駐車場も広く球場の横を通って、階段を上り、私たちは左側方向に進み「萩山コース」から「薬師山」へ向かった。途中、案内版があり、迷うことはない。

 みそぎ行事で有名な佐女川神社への道案内もあるが、通行止めになっている。神社への分岐点
そこから右方向へ歩いて萩山、稜線コースを通過して薬師山に着く。
萩山の頂上には展望台があり、木古内市街地や津軽海峡、知内方面が見える。
信仰の山でもあり、頂上には薬師堂がある。漁をしていた夫と息子が戻らず、悲しみのあまりに妻も身を投じ、村の人が供養のために植えた三本の杉が一体となって繋がった・・・という木(杉ではなくオンコとのこと)もある。
休憩所裏の案内看板

芝桜を見て、佐女川神社へお参り。
佐女川神社の由来碑には「松前河野加賀守源景広ご勧請により、当時一六二十四年、寛永二年に鮫川の辺りに祠を建てられ、武運長久を祈願されたと伝えられている。また、ご勧請の神様は日本初代の天皇である神武天皇様であります。」とある。毎年一月十五日には優秀な四人の青年によってご神体、別当、稲荷、山の神、辨天の四体が清められる。
 階段の奥が神社
江差線が平成26年3月で廃線になるということで、鉄道マニアの方には廃線になる前にぜひ訪ねたい!という方が多いと思います。
マニアではありませんが、消えゆく路線は地域の様々な人々の生活の土台となり、家族の歴史や物語がある。利用されていた人々の心中は・・・言葉には言い表せないくらいの思いかと・・・。どなたが名付けたのか、すてきな名前の「あまのがわ」駅舎も無い、
列車も止まらないという不思議な駅(特別な秘境かな?)をカメラに収めたいと思い、木古内から湯ノ岱方向へ進んだ。
湯ノ岱の温泉や上ノ国への国道は何度か通っているのに「あまの川」駅名には気が付かなかった。
「あまのがわ」のモニュメントは取り付け予定日があるようで、行った日は外されていた。(残念!)取り付け予定は6月22日、
7月7日時間などは確認が必要。記念スタンプも用意されるようです。(この日は七夕祭りでグッドタイミング!!混むでしょうね~)
モニュメントなしの駅
天の川と名がある唯一の踏切

室蘭 「モロラン地名発祥の地」名付け親、松浦武四郎2011年7月

2013-05-05 21:39:19 | 旅行
7月2日、千歳のホテルを出発し、国道36号線を苫小牧方面に進む。室蘭の市街地から崎守町にある振興センターの建物を探す。港の倉庫街や資材置き場の中を迷ったが、見つけることができた。
 松浦武四郎著、吉田常吉編「蝦夷日誌 上」東蝦夷日誌には有珠や長流川について記述した後に『川を越、赤土坂上り、檞(ね)柏(ぎ)原しばし過下りて(十八丁)モロラン「室蘭」(會所・通行屋や勤番所。調役邸・板蔵・御備米蔵・辨天社。永住はたごや・・・出稼ぎ等多し)西南向き、砂原に対し毎日乗合船出る。(海上七里)頗る辦(便)利也。土人多し。・・・』と渡島半島の砂原と室蘭の海上交通について書いてある。
また、地名について『モロランは小路ナル義ニテ、小または静也。ルは道、ランは下がる義也。小路を下るという也。昔し、山道なく、是よりエトモへ船にてこへる。』とある。(森町の駅近くに旧桟橋がある。「日本奥地紀行」のイザベラバードもこの航路を使っている。
振興センターの入り口の横に大きな説明版には『ムロランはもともとアイヌ語に源を発する地名で「モロラン」と呼ばれていた。』(中略)「室蘭」の名付け親は松浦武四郎(一八一八~一八八八年)である。六回に及ぶ蝦夷地探検の際一八四五年には噴火湾沿岸を調査し、さらに明治二年(一八六九)に明治政府の開拓判官となって「北海道」と命名、また道内の国郡名選定を行う。
振振興センター
振興センター横の説明左下にモロラン会所の絵がある。「蝦夷廻浦図絵」安政元年(1853)頃の室蘭地名発祥の坂が描かれている。
  モロラン地名発祥の地
私たちは室蘭から伊達市有珠にあるバチュラー記念館になっている教会を訪ねた。
伊達市教育委員会の説明案内では、バチュラーさんは、英国聖公会の宣教師で「アイヌの父」と云われ、またアイヌ語学の権威者としてもしられ、明治25年にこの地で伝道を始めている。昭和12年に視界附附の功績を称えて記念堂を作っている。バチュラーから洗礼を受け、その後、夫妻の養女となった向井(バチュラー)八重子の歌碑もあり、3首の一つに『有珠山にのぼりなかむる噴火湾 岸辺に たてる駒が嶽かな』と刻まれている。八重子は歌人でもあり、またアイヌ民族出身の伝道者として有名。
バチュラー記念堂      説明案内
バチュラー八重子の歌碑

富良野 原始が原の松浦武四郎通過の地2011年7月1日

2013-05-03 21:47:23 | 旅行
 芦別から富良野に着いた。宿は予約していないので、探す。当初、日本でも2人しかいない函館出身の手廻しオルガンの製作者谷目基さんが作ったオルガンのあるというペンション(自然舎)に泊まれたら良いな~と思ったが、富良野鹿討にあるそのペンションまで行ったが、誰もおらず、携帯を入れたが、やはり不在。後でオーナーの方から連絡が入ったが仕事で外出だったとのこと。残念ながら、その所を離れていた。富良野駅付近の旅館に宿泊。(谷目さんのオルガンにも会いたかったな~心残り・・・)
1日、早朝に出発した。松浦武四郎の通った原始が原の地を訪ねるためでした。
宿のご主人に中富良野から原始が原登山口までのルートを聞いていたので、べべルイ、鳥沼公園を目標に進む。途中、富良野ゴルフ場の横を通り、以前、フラヌイ温泉に宿泊した際、下見したことのある「ニングルの森」に入った。  
林道を進み、広場には立派な管理棟があった。
 駐車出来るスペースは結構広い。
原始ヶ原標高は1040mにある高層湿原。安政5年(1858)松浦武四郎は旭川からチクベツのアイヌ人酋長のクーチンコロなどを案内に、美瑛川を上って、上富良野、空知川水源を超えて十勝に抜け踏査を行ったとのこと。(サホロダムの奥に武四郎の野営の石碑がある。)また、十勝の清水町人舞の岸田農場内には武四郎の宿営の石碑がある。
べべルイについては「水たまりが群がって存在する筋の所」という意味だそうです。
また、通過の地の木柱は平成6年5月に富良野山岳会が建立されたとのこと。
 登山口の左側に祠がある。そこで安全祈願をし、登山届を済ませて出発。

入林記入ボックス  
 原始が原への登山道は鬱蒼とした森林があったり、
天使の泉
ではニングルも甘露な水を飲んだのでは・・・と私たちもここで一休み。

ルートには林間コースと滝巡りコースがあるが、滝コースは橋の崩落で全面通行禁止になっている。
 勿論私たちは最初から林間コースを予定していた。(滝コースは知人のsakagさんが彼のホームページ『一人歩きの北海道山紀行』にアップされている。沢登もすごい方なので、滝コースは私たちには無理。)
濃いガスでいろいろな滝も木々の間にかすんで、水墨画のような感じ。丸木橋は高所恐怖症の私には例え50㎝の高さでも足がすくむ。橋の下を勢いよく小滝が流れている。そこでなぜか腰につけていた虫よけの蚊取り線香の蓋が外れてしまい、丸木橋の下に落ちてしまった。蓋は岩に引っかかったが、流れは勢いが良いので取る勇気はない。(のめり落ちそう!!)こんな道もある。
丸木橋を渡る  
急な登りもあるが、原始が原まで後二十mとか布礼別の滝など要所要所に案内がある。 原始が原まで20mの案内
そして富良野岳分岐点を過ぎると間もなく広い平地になり、目的地の「松浦武四郎通過の地」に到着した。
汗を流した分、到着した喜びは言葉にならない・・・「松浦武四郎の通過地」に今いるという・・・満足(自己満足かな)。
原始ヶ原から富良野岳が見えるはずだが・・・残念ながら濃霧で山影は目にできなかった。
出会った花
ウコンウツギ 
ゴゼンタチバナ 
ベニバナイチヤクソウ   
モウセンゴケ    
石楠花 猩々袴

原始ケ原の森林の懐の中で思う存分新鮮なフィットンチンドに浸り、滝の音、水の流れの1/f効果を満喫して、気持ちの良い時間を過ごした。山を下って、富良野岳を水源とする原始の泉で冷たい水で喉を潤し、自然の恵みに感謝。
 次の目的地のために桂沢を通り、三笠から高速道路を利用して夕方、千歳のホテルに到着した。