気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

4泊5日の空知方面を旅する:日本最北の関所から無人駅/特別展「夷酋列像などー一日目

2015-10-10 09:27:10 | 日記
2015年9月下旬から、予約の取れたホテル泊しながらの歴史・無人駅など観光名所から外れたところへと旅に出た。
最初は何度も通っている国道なのに見過ごしている所や何度か探したが、辿りつけなかった松浦武四郎の宿泊の地の一つである浦臼の「上カバト、下カバト」の史跡を訪ねることがメイン。
 早朝に自宅をスタートし、最初はJR山越駅」ここは「日本最北の関所」となっており、駅舎も関所風。
今年の夏に史跡山越内関所跡の石碑や隣にある山越諏訪神社など訪ねていたが(このところはブログにアップ済)駅舎は素通りしていた。(この駅の横にあるトイレは綺麗に清掃を・・・とアッピールしていたころもあった。)
JR山越駅・・・関所風の改札口やホーム




八雲の鷹ノ巣駅や国縫の北豊津駅
駅前にはすぐにたどり着けない駅に感じた駅2か所(いずれも、カーナビには位置がでるが、駅への道がわからない・・・不思議な駅)いずれも、ダートな道を進むが、駅への案内板がないので利用する人だけが知っている駅ということなのか、と思った。
鷹ノ巣駅へのダートな路を進む
無人駅の「JR鷹ノ巣駅」

北豊津駅へのロード



カメラを向けていたら、間もなくJRの列車が駅に停まった。

この駅は秘境というほどではないが、一日何人の方が利用するのだろう・・・利用者は学生かな・・・

国道5号線から長万部通過し国道37号線に入り、豊浦にある噴火湾展望公園に行く。ここには歴史の道というのがあり、北海道を測量した伊能忠敬のモニュメントや碑があるはず・・・しかし、この時点では見つけれず次の目的地に進んだ。
 札幌白石の秀岳荘で軽トレッキングシューズとポールを買い替えた。
国道12号線を北上し、江別の野幌森林公園でウオーキング出来たらしたいな・・・という気分であったが、小雨がポツポツ、北海道博物館で開催中の特別展である蠣崎波響の「夷酋列像」を見ることにした。
北海道博物館正面と特別展の看板


会場は撮影禁止、メモ禁止である。個人的には、自分の記憶力のことを考えれば、撮影は許して欲しいという思いがあるが、ブザンソン美術考古学博物館から特別お借りしたものなので、やむを得ないものか・・・と思った。
それで、事前にHNKで放映した特別展開催のテレビコマーシャルの映像をカメラに収めていたので、それを自分の記憶にとどめるために画像をアップした。
蠣崎波郷の筆によるアイヌの酋長たち




展示品の中に三重県の松浦武四郎記念館からの出品、「初航蝦夷日誌(国指定重要文化財になっている。)」や、国立歴史民俗博物館からの松浦武四郎著「蝦夷漫画」など貴重な本をガラス越しではあるが、本物を初めて観た。
「蝦夷漫画」は安政6年(1859)刊行されたもので、クナシリ、メナシの戦いのことが描かれている。武四郎の足跡を旅しているフアンとしては蠣崎波響の特別展で彼の作品を見ることができたのはラッキーでした。

この後、行き先の予定を変更して、2日目に予定していた栗山町へ向かう。
野幌から、宿泊地の南幌を過ぎ、国道274号線、長沼町マオイの丘を通過し、栗山町の円山神社(ここには松浦武四郎が通過の際目印にしたという神社入り口に説明版がある・・・というのを調べていたが・・・。
実際には、一般道477号線には小さな神社があったが、鳥居には神社名もなく、説明版も無かった。どうもこの神社ではないようだ・・・。しかし、ゴルフ場の入り口ということ以外には情報をもっていなかったので、諦めた。
天候変わりやすく、大雨から小雨になったり虹が出たりの変わりよう・・・

栗山町から、再び南幌へと戻るつもりであったが、国道337号を走ったが、南幌への道を間違え迷った。目印が見当たらない・・・広い田畑の中・・・ナビには南幌はあるのだが、宿泊地への道が・・・行方不明・・・?
コンビニで道順を聞いたが分かる店員さんはおらず、お客さんが「私の家はその方向だから、案内しますよ~」と、彼女の車の後について進んだ。秋は暗くなるのが早いので、外はすでに陽が落ちていた。こんな時に救いの女神さんに出合ったという感じであった。彼女にお礼をし、ホテルに着くことが出来た。

こんな旅のハプニングの経験。良い人に出合って良かった・・・。

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(8)20数年前に見た上昆布駅逓所は今・・・

2015-10-08 13:40:33 | 日記
倶知安の有島農場解放の碑などを見て、帰路に着く。国道5号線を蘭越方面に進んだが、昔(約20年以上も前かと思うが・・・)函館から、国道5号線~豊浦方面の37号線を走っているときに「大岸」という所から、ニセコ方面に行ける道道32号線が近いのでは・・・と左折して行った。ところが道は間もなく森林の中でダートだったように記憶している。カーナビも付いておらず、地図に道があるのだから、行けるだろう・・・と行、森林が開けた所に「上昆布駅逓所跡」という木製の看板があり、「ここは昔、交通の要所だったんだろう・・・」とちらっと見て通過した。
今回、昆布を通過する時に、「気になっていた場所へ行って見ようか・・・」ということになり、昆布駅のあたりで道道32号線に進路を変えた。時間的にも、たそがれ時間。
 はたして、その碑はあるのかどうか・・・不安ではあったが、「牧場があったので、それを目標に行こう。」となった。道は舗装され、工事をしている部分もあった。しばらく進み、牧場があった。「やっぱりここのだ」・・・と、少し進むと、あのかつて見た木製の看板はなかったが、整地された所に立派な「上昆布駅逓所」があった。

そして、石碑の少し横後ろ側に木製の私たちが20数年前に見た覚えのある木碑がきちんと置かれていた。この朽ちた碑を処分して撤去されていなかったことにも感動した。(普通であれば、捨て去れらたかもしれない。)
「上昆布駅逓所開通百年碑」と新設。

碑文には
『この地に官設の駅逓所が設置されたのは、明治四十二年(一九〇一年)から、昭和一七年(一九四二年)までの三十三年間であった。
 取扱い人は、富樫茂助、富樫正吉であり、地域の繁栄に尽力した。
 歴史的遺産として、その功績を称え後世に伝えるものである。
                              平成二十四年十月十日建立  富樫家』
と刻まれ、裏側には 富樫 茂助
          宮坂 常次郎
          小林 加治
          富樫 正吉  と記されている」。
また、私たちが記憶に残っている木碑の方も残してくれて感謝、感謝の思いがした碑。

文字は判読できないが、辛うじて読める文字は
 「駅逓とは」、「宿泊」 「この  明治四・・・」という文字が残っていた。
9月22日、朝自宅を出て。八雲から黒松内、歌棄から倶知安、上昆布とぐるりっと廻り、家に着いた時は暗闇の中でった。
この次には、ホテルや旅館の予約確認で、空知方面の史跡や気になっていたところへ予定している。

                  

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(7)倶知安の有島農場解放の地碑など

2015-10-07 18:18:30 | 日記
「スキーの父」といわれたレルヒ公園から有島農場解放の記念碑を訪ねた。
その記念碑の入り口看板は少し古びれて樹木にかくれるようにあった。記念碑は少し高い位置にあり、道路側からはわからない。
農場解放石碑への入り口看板

有島農場解放記念石碑数段の階段を上ってある。

これは有島武郎が大正11年、小作人の悲惨な生活を見て、自然物は私有すべきでないと広大なニセコ農場を解放した。小作人は温情・遺徳を顕彰するため建立した・・・とある。
更に道を進むと有島武郎記念館の広い敷地に彼の銅像や小説の記念碑などがある。
「有島謝恩会館の記」
『ニセコ町字有島地区は作家故有島武郎所有の旧有島第一農場解放後の旧狩太共生農団の地である
 戦後、共生農団解放(昭24)に当たり団員は旧場主の温情を祈念し、有島謝恩会を結成し、旧農団事務所虻田郡狩太字亜千島53番(本館の製法50M)を有島記念館とし、旧場主の遺品遺墨および農団関係簿書の展示管理にあたった。』と玄関前に説明版が貼り付けられていた。
「謝恩会館」

有島武郎記念館

有島武郎立像

文碑「カインの末裔」

冒頭より・・・
『長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼は黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷堤と一緒に章魚(たこ)のように頭ばかり大きい赤ん坊をおぶった彼の妻は、少し跛脚(ちんば)をひきながら三、四間も離れて、その跡からとぼとぼついて行った。
 北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を日本海から吹きぬける西風が打ち寄せる紆涛のように跡から吹き払っていった。・・・・昆布岳の斜面に小さく集まった雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋路を、彼と彼の妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。』と刻まれている。

その他「生まれ出る悩み」の小さなポールなどが建っていた。


天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(6)倶知安の啄木歌碑・レルヒの碑など

2015-10-06 21:08:44 | 日記
歌棄の江差追分の碑や鰊御殿「佐藤家」を後にして、磯谷を経由し、ニセコ町、倶知安駅に着いた。ここでは石川啄木の歌碑がある。啄木の歌碑は小樽・岩見沢の北村、札幌、そして地元の箱館公園の歌碑を見たり、釧路では彼の記念館である「弘文館」により、少しではあるが、彼の豊かな感性に触れてきたという思い・・・。
倶知安駅の隣にある交番の横に歌碑があり、さらに、歌碑の横には碑文がある。
石川啄木の短歌

  『真夜中の 倶知安驛に下りゆきし
          女の鬢の古き痍(きず)あと』

碑文には
『石川啄木は函館から小樽に向かう列車で真夜中の倶知安を通ったのは、明治四十年(一九〇七)九月十四日の午前一時過ぎである。
啄木はこの時の温床を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月)に収められた。
鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は実景であったのか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として創り出したものであったのかは、定かではない。
 当時の倶知安村は、開墾か始まって十五年たったばかりであった。・・・(略・・・)』と刻まれている。
また、倶知安駅には「カラフルな牛」や「日本一の水」があり、倶知安町のキャラクター「ジャガ太くん」が美味しい水の水飲み場になっている。



安政の探検家である松浦武四郎はこの地域に歌碑を残している。(以前、白川建設の敷地にある歌碑を訪ねた。)彼の著書「西蝦夷日誌」には尻別川上流を丸木舟で渡ったときに『クッシャニブト(倶知安川口)・・・水勢吼ごとし。雪解水にて濁れり。・・・』歌を詠んでいる。(この歌碑が建設会社の敷地にある。
『あやうしと しりべつ川の 白波を 命にかけて  けふわたりけり』
歌碑写真

倶知安町市街地にあるさくら公園へと行き、「倶知安草分けの地」石碑を訪ねた。
公園は子供たちが野球をして、帰るところであった。子供の遊び場には丁度いいな・・・
石碑の台座には倶知安開拓の先人の苦労が読み取れる。

『原始林に覆われた倶知安原野に明治25年5月二木宇蔵氏と先達とした一行16名が丹生治、クトサン川筋(ここから南約400M)の猟小屋いたどりつき一夜を明かし、翌日から開墾の鍬入れを行った。
 その後、開拓が進むにつれ、この管理人として赴任したのが宮脇 意氏(のちに初代倶知安町長)であった。』
      昭和50年11月3日 倶知安町文化財保護調査委員会   と説明碑文より

さくら公園の近くにスキーのレルヒ中佐の像がある。

『オーストリア國武官てテオドール・アオン・レルヒ中佐は明治四十三年、日本に派遣され、二年に亘って我国将校達に一本杖によるスキーの指導を行った。
 明治四十五年四月十五日に旭川市第七師団将校等を伴い來町したレルヒ中佐は、十六日に旭ヶ丘附近にて町民にスキー練習を公開し、翌十七日には、エゾ冨士と言われる秀峰羊蹄山(一八九三M)にスキー登頂を挑んだ。
(中略・・・)急峻と零下三十度の酷寒、しかも視界零に近い猛吹雪に見舞われる中で九時間余りを費やして登頂に成功し、全員無事帰省した。
「スキー」の町」を宣言する倶知安町は昭和六十一年二月に本町において開催される第四十一回国民体育大会冬季大会スキー競技会を雨にして、レルヒ中佐一行の壮挙を記念するとともに、日本文化を理解し、生涯を通して日本をこよなく愛したレルヒ中佐に深い敬慕の念を持って記念公園を建設、併せて、有志一同は浄財を募ってレルヒ像を建立し、我が国「スキーの父」の功績を永遠に讃えることにした。』と説明。

レルヒ記念公園からの後方尻別山(羊蹄山)


次に、有島武郎の地へ向かった。

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(5)寿都・歌棄の江差追分歌碑や鰊御殿佐藤家

2015-10-04 22:14:08 | 日記
(9月22日の続き)
黒松内、作開から磯谷方面に海岸沿いに進み、「有戸」という地域に江差追分の歌碑・神社・鰊御殿「佐藤家」がある。

有戸あたりについて、松浦武四郎著「西蝦夷日誌」の「ヲタスツ〔歌棄〕領」に記述がある
『黒松内渡をこへ、、去年人家三軒立たり。山の端八九丁過、新坂(九折、三四丁)・・・西南を眺ば、陰森たる木立中、スッツ別(朱太川)蜿轉屈曲して流、是を隔てカニカン岳・シコマキ岳連り、眺望目覚ましき事也。・・・・此邊奇石多し。灣よき故に號く。エナヲシュマ(岩岬)、番屋(戒社)有。過ぎてアリウトル〔有戸〕(岩岬、番屋、蔵)モエアシュマ(小湾)、シレエトナイ(小川)、シレエト(小岬)、皆人家つづき。廻りてトマリ・・・
ヲタスツ〔歌棄〕運上屋(通行や、備米蔵、板蔵八、漁小や、辨天、いなり)』と周辺地の調査を記録に残している。
海側の平坦な地(岩磯)に江差追分の歌碑(高さ数メートル)が建っている。

『忍路高島 およびもないが  せめて歌棄磯谷まで・・・』全国的にも有名な追分である。

 当時女人禁制の積丹の神威岬の先にある忍路や高島の漁場には行けないが・・・せめて積丹半島の手前の磯谷あたりまで行きたいものだ・・・という切ない思いの歌。うろ覚えではあるが、昔、アイヌの人との取り決めで、女の人は忍路や高島までは連れて行ってはいけない・・・という(漁をするには神の許しがでないということなのか・・・)
因みに、積丹の女人禁制の門(2006年に撮影)


歌碑の横にある鳥居と小さな神社

国道を挟んで、北海道指定文化財である鰊御殿「佐藤家」がある。

有形文化財佐藤家の説明版

『漁場建築    佐藤家
 所在地     寿都郡寿都町字歌棄
 指定年月日   昭和四三年三月二十九日
 管理者     寿都町
角十(※ 私の技術では屋号:□の中に十・・・屋号文字表記不可だった)佐藤家は嘉永五年(一八五二)以降,ウタスツイソヤ、二場所請負人を勤め歌棄場所から、黒松内に至る十六キロ余りの道路、磯谷の能津登りから岩内場所と境界アブシタまで四キロ余の道路を私費をもって開削し、苗字、帯刀を許された。
定右衛門、栄右衛門父子の系図である。
また、ニシン漁獲峰の改善を心がけ、行成網を導入してニシン漁の急速の発展に尽くし、維新後は駅逓取扱人を命ぜられ、当地方随一の名家である。
 この建物は主屋は間口二四、三メートル、奥行き一八メートルの二階建で、よせ棟やに西洋風下見張、二階正面に櫛形ぺジメントの付いた上げ下げガラス窓、呈根の大棟をまたいて洋風の六角形の煙出し、その背後に和風の切り妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風の入り混じった折衷のスタイルの外相をもっている。
また、ニシン場建築に見る漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。
建築の完成年代は外形の洋風建築様式からみて、常識的に明治一〇年から二〇年の間の建築と思われる。
旧態の保存状態が良好である上、建築年代規模意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。
   平成二年四月  寿都町教育委員会』

和洋折衷の煙出し
  六角形の方
 
  切り妻の方

佐藤家の横に北海道建網  漁業発祥の地石碑がある

私たちは次に磯谷からニセコ方面に向かった。