気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

新冠義経伝説の判官館岬~蝦夷日誌にあるビボク

2012-08-13 22:50:28 | 旅行
2012年6月様似等澍院への寄り道で、国道235号線新冠にある判官館森林公園を歩いた。この公園は数年前森林が気になり散策した所でもある。この時は岬まで行かなかったので、今回再訪した。
判官館森林公園入り口の写真

岬には「判官館の由来」の説明案内があった。
『京の五条の橋の上・・・』この歌は牛若丸と弁慶で広く親しまれている。牛若丸は後の悲劇の武将源九郎判官義経である。梶原景時の奸計によって、心ならずとも兄源の頼朝との戦いとなった。弟義経は、ひそかに衣川をあとに、海路蝦夷地をめざしたという。
折からの季節風に漂流すること数日、初めて見た蝦夷地は日高山脈の残雪であった。義経はふとひときわ目立つ岸壁に気を奪われていた。それは衣川上流の断崖とそっくりであったからだ。義経は、懐かしさのあまり上陸したが、空腹と安堵感kらハマナスの砂丘に放心状態のまま倒れた。しばし後、水と食物を持ったアイヌの娘が立っていた。以後、義経はこの娘と暮らすことになる。義経は、岩山を自らの源九郎判官義経の名にちなんで「判官館」と名付けた。私の故郷の山裾にある船魂神社には大きな岩に弁慶の大きな足形がある。海で遭難した弁慶が岩にしがみつき岩に上がったという伝説もある。北海道に渡った義経を祀る義経神社が平取にある。雷電にも弁慶の刀掛岩、寿都にも弁慶の像があるが・・・まだまだあるのでしょう・・・(義経ロマン伝説は面白い・・・と思うのは私だけではないかも・・・知れません)。

岬最先端にある「新冠八景」案内看板写真
案内板には『判官岬 標高80mの断崖絶壁の名所です。太平洋に沈む夕日では東北・北海道の中でも一番の名所。又、伝説の地として知られて、もんもんと霧につつまれたある夜、九郎判官義経がこの岬に上陸したことから判官岬と呼ばれるようになり、義経はここでピリカメノコと恋をしたり、絶壁のところを馬でかけ登ったという伝説が今でも語りつがれております。又、義経は夕日が沈むのを見て奥州に残した静御前を想いおこしていたところが、今あなが立っている所かもしれません  新冠町 新冠観光協会』と書いてありました。私はその所に立っております。


もう一つの伝説「ピポクの伝説」
『昔、判官岬のふもとをピポクと呼んでいました。これはアイヌ語で「岩の陰」という意味です。判官館のそばに多くのアイヌの人たちが住んでいました。アイヌの人たちは判官岬をポロヌプリ(アイヌ語で大きな山)としてあがめ、酒をささげて大切にしたものです。ここには昔から「黒い狐」が住んでいたということです。この狐がピポクの集落に何か悪いことがありそうなときにはあらかじめ教えてくれたり、敵から守ったりしてくれました。そんなあるとき、どこからか攻めてきた敵にずいぶんと攻撃され、残った人たちともかくれていましたが、もういよいよだめかというときに、神に祈りをささげてからガマで織ったムシロを広げて、岩の上からとびおりたところ、鳥のようにふわりと飛べて、みな無事けがもなく、逃げることが出来たそうです。これは、この黒い狐のおかげであったからであるといいます  2010年新冠教育委員会』と書かれてました。ピポクは私の尊敬する松浦武四郎原著、吉田常彦編の「蝦夷日誌上」(東西蝦夷山川取調紀行)ニイカップ領に『ニイカップ(新冠)(会所、通行や、勤番所、漁や、弁天社、備米蔵、蔵々、馬や、雇土人小屋や、大工小や)船々遠浅にて、潟無故に産物積取時も沖掛り、時化荒候時は逃船とす。。往時は松前家臣工藤平右衛門給所なり。ビボクと云いしを、文化六年呼聲の不宜に依ってニイカップと改む・・・(中略)・・・ニイカップ、本名ビボク(美牧)、西高崖、東は平野なり。』と記載がある。しかし、この地には彼の足跡の碑はない。

判官岬の崖から見えたJR日高線新冠川が見える。