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ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

滝川:史跡めぐり 空知太駅逓所~旅籠、三笠太古の湯など

2016-06-17 10:37:28 | 旅行
 新十津川の金滴酒造前の史跡を見て、次の目的である「空知太駅逓所跡」を目指した。下調べをして史跡の場所を探したが、なかなか見つからない。付近の会社で伺ったが、「見たことない!」という。地番は此の辺・・・とぐるぐる廻った。国道12号線へ向かう途中の空知大橋の手前の空き地に小さな石碑があった。
これが「空知太駅逓所」の石碑。バス会社の隣の空き地の隅にひっそりと立っていた。碑を見つけて出会った嬉しさは何とも言い難い。(碑の撮影日:2015年9月30日)
石碑


駅逓は明治・大正の北海道開拓時代の旅人の宿泊所としての役割や、馬を課して次の駅逓所までの便宜を図ったり重要な役割をもっている。
「史跡 空知太駅逓所」の石碑裏側には「昭和48年建立と刻まれている。
調べでは、
駅逓開設が明治29年3月
廃止は  明治39年5月
初代取扱人は高畠 利宣
北海道開発建設部治水100年の石狩川流域の箇所の中
「開拓初期(明治初期~明治42年頃)の交通」湿地に作られた排水道路の中、明治30年代の空知太駅逓所」の貴重な写真(北海道大学付属図書館蔵)が掲載されていたので、抜粋した。

明治初期の空知太駅逓所の風景

滝川で昼食を・・・と思い駅前付近を探したが、有名なジンギスカンの店を探すことが出来ず、次の空知太神社へ行った。
空知太神社は鳥居の名前が確認できなかったが、小さな神社社に「空知太神社の額があった。(写真の◯印内)


神社のエリアにはその他の碑があった。
史跡「三光マッチ工場の跡と開拓碑マッチ工場は平成元年八月砂川市教育委員会によって建立されている。

上川道路開鑿(さく)記念碑がある。
砂川市のホームページで調べた箇所の抜粋ですが・・・
「上川道路は明治19年5月6日に着手、当時の開拓使長官岩村通俊が服役中の囚人を使い建設。空知太(砂川)から忠別太(旭川)、空知太から知来知(三笠)まで、同年8月20日に開通した。これはおどろくべき速さで、当時の苦心と犠牲の大きかったことが想像さ、開通百年を記念して、空知太分岐点に建てられた。」
場所 砂川市空知太西5条7丁目(空知太境内内)
 私は「囚人」というと月形集治監博物館で「赤い人」の道路工事の姿があったことや吉村昭著の「赤い人」を多くの方に見てほしいと思わずにはいられなかった。車社会の現代、何気なく私たちは走っているが、開拓時代の苦労を忘れないようにしたい。
月形の博物館にも「真直ぐな道路を見たら、彼らの作業を思い出して欲しい・・・」というようなことがあった。
記念碑は空知太神社境内にある。後方に「空知太会館の建物があった。

史跡を後にして、砂川のスイーツ店「北菓楼」寄り道。

「空知太探査の地」を再訪。
蝦夷地探検家である松浦武四郎が安政4年に幕府の命を受けて、北方探検の際、砂川市空知太を踏査した最初の和人である。以前この石碑を訪ねた時には雑草に覆われて、見つけることが簡単ではなかったが、今回はきちんと草刈がしてあり、目立つように立っている。史跡が大事に管理されているのは嬉しい。
史跡


その後、この日の宿泊地である三笠へ向かった。

三笠太古の湯の旅籠である。

日帰り湯の人々も多く、駐車場は一般と宿泊者用となっていたのはありがたい。
宿泊の旅籠

客室は

夕食は個室の「庵」という処



朝食には蕎麦打ち職人の打ちたて蕎麦が提供された。


翌日は三笠から、富良野方面に向かった。

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