気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

安政元年ペリー来航で歴史は動いた(鎖国から下田・箱館開港へ))

2018-06-24 19:48:03 | 日記
函館市の万代埠頭に「ペリーの碑」が出来たというので2018年6月16日訪ねてきた。
万代埠頭の碑

その碑の上部には  『0pening of Japan』
当時の日本は一部の国を除いて鎖国中であったが、下田に黒船が来て、徳川幕府とアメリカの間に日米和親条約がむすばれ、下田と箱館の2港が開港したという大きな歴史的動きを感じることが出来る。今から約160年前の日本の夜明けに箱館も関与・・・かと改めて自分の故郷の歴史を知る機会になった。
『Welcom commodor perry 』と書かれ『ペリー提督率いる黒船艦隊が錨をおろした停泊の地』と書かれている。
説明版に中には
『1854年(嘉永7年)ペリー提督率いる黒船5隻が万代町沖に姿を現した。
この前浜にはかつて赤川からの清流亀田川が流れ、箱館湾に注ぎ、河口付近にはの万代町には「万年橋」が掛かっていた。
ペリーは松前藩と交渉を行うとともに、この付近で水や船中欠乏品を補給し、港を調べ海図を作り、地引網を掛け、サケ、マス、スズキ、ボラ、鯛、ヒラメ、貝類、カニなどを獲り、亀田村前浜の生物の調査を行った。イトウも獲れたことから、学名を“フコ・ぺりー”と命名された』
その地引網は亀田村の前浜から久根別(現在の北斗市)までの海岸で水兵達が網を曳く様子が描かれている。
「万代町(旧亀田村)」ペリーはここ箱館は東洋のジブラルタル」と称したとも書かれている。
万代埠頭から函館山を望む

その外、河口付近では水兵達が水遊びする姿や、停泊中の黒船のマストに洗濯物を満艦飾に干してる風景が見られた・・・とその黒船のスケッチ画や函館湾の海図もある。

2年前であるが、函館元町公園の近くにペリーの像がある。そこの場所は元函館市立病院があった場所。
ペリーの立像と石碑。


説明版

ペリー会見所跡(函館市弁天町の歩道側にある)

『安政元年(1854)アメリカ海軍提督M・C・ペリーは幕府との間に日米和親条約を締結し、その直後5隻の艦船を引き連れて箱館に入港。この地にあった有力商人山田屋寿兵衛多久で松前藩家老勘解らと会見し、市内の調査や湾内測量などを行って箱館を去った』と説明版にある。

外人墓地の説明版・石碑・水兵の墓碑



また函館山西側の山麓にある「外人墓地(プロテスタント墓地)」には当時函館で他界した外国人のほとんどが此の地に埋葬されている。その中には「安政元年4月ペリーが艦隊を率いて来航した時、死亡した水平ウオルフ(50歳)、レミック(19歳)などの墓もある。ここにもペリーの関係があった。
外人墓地の様子。石碑には2名の名が刻まれていた。訪ねた時には花束が献じられていた。