気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

夕張を探検した松浦武四郎の千鳥が淵の滝と水力発電所

2018-02-07 13:39:25 | 旅行
夕張市には化石が採れたという冷水山があり、興味があったので、ホテルの裏側からスキー場の中を登ったり、メロン城に行って見たり、映画「幸福の黄色ハンカチ」のロケ地を訪ねたり、何度か訪ねた思い出の地ですが、「北海道」の名付け親松浦武四郎もこの地を調査探検している。
現在は、人口減ですが、この町の医療について「今の夕張の現実は将来の日本にも同じように・・・予測される。」と地域医療の先端を歩まれた故M先生の講演を函館で聴講したこともあるので、とても心に残る印象的な街です。
松浦武四郎著、秋葉實解譯「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」の「第十六巻由宇発利 日誌(二)」には
夕張市の滝上付近の記録がある
パンケソウ 一口に成りて落ちる也。巾五丈高三丈計、右の方大平岩盤の上より望むる也。其滝の前に彼レフルシベ有る也。又、少し上りて屏風岩とも云如き大岩立てり。此傍より上え行又大平盤の上え行、川を隔て北岸を見に、
 ヘンケソウホコマブ(滝の上・・・秋葉氏の解読注釈)巾三尺の滝一すじ山より落る也。其滝五丈計のもの二段有、実に天下の奇観也。こへて又岩の上しばし過 ヘンケソウ 則是をカモイソウと云也。此辺川巾弐百間計、平磐也。其川流三筋の滝と成て落る。第一の方南の滝は小さく、巾六尺計にて高三丈位。其中にあるもの一番高く見ゆ。巾二丈位、高三丈位。此滝の前は竈の如く成りたり。第三北の滝巾一丈五六尺にて、此中滝と並び落る也。其岩盤岩大穴多く明て、実に希代の絶景なり、滝の上遅流にして深きよし。凡湖水かとも怪しまる程の場所なり。其風景中々画くとも其万分の一をも描写し難し。・・・余此所にて考えしに、余無量寿経の曼荼羅の、又は阿弥陀経のと申極楽浄土の躰相を見て、甚其楽しみ、また其仏殿楼閣の荘厳の美を、是が、彼の方便かと思ひ怪しみが・・・』と記録している。

夕張川に架る千鳥橋を渡を渡って・・・


千鳥ヶ淵の千鳥滝

千鳥ケ滝の説明版

林の茂みから赤レンガの建物が見えた。それはエコな発電所であった。
水力発電所と説明版と産業遺産的発電所

発電所は滝の落差を利用してタービンを回すシステムで、現在の出力2340kWの電力を供給するという
滝上水力発電所の建物があった。
最初この建物を見た時は産業遺産として保存しているのかと思ったが、説明版を見ると、現役だそうです。
1925年(大正14年)、北炭滝之上水力発電所が建設で、當時は代表的な洋風建造物。全盛期にあった北炭の姿を象徴している・・・と説明がある。

昔の夕張は石炭で栄えた街だったが、メロンも有名。
そして江戸時代末期に蝦夷地探検した松浦武四郎が絶賛した千鳥が滝という自然もある。
丁度北海道と名付けられて150年。武四郎が見た絶景は私としては地域のお宝的存在に思える。
武四郎の描いたこの辺の案内説明版がないので個人的には、少々寂しい。有ったらいいな~と思っている。

菅江真澄和歌シリーズ:松前から豊浦歴史公園へ

2018-01-27 18:20:26 | 旅行
江戸末期に蝦夷地を訪れた国学者・紀行家の菅江真澄が渡島半島西側を旅してから松前に戻って、現在の函館市戸井町・恵山南茅部方面から有珠に渡ったという記録があるので、彼が何故、有珠方面にも関心があったのかという私の疑問を解く鍵が内田武志・宮本常一編訳の「菅江真澄遊覧記2」の中に記録があった。
『えぞのてぶり』からの要点
『東方の蝦夷らが住む荒磯の近くに臼のみたけ(現在の有珠山)といって世間の人がたいそう尊んでいる高い山があると聞いて、そこに行き、登ってみようと思い、話すと、昆布を刈ることを毎年の仕事として行く船が、福山(松前町)の港から浦々を巡りながら行くと言われ、これに便乗して行って見たいと船に乗せてもらい、寛政三年(一七九二)五月二十四日の夜明けに舟が出るというので出立することにした。・・・白神や福島などを通過し、ウスンゲツ(函館)をめぐらし、この島の姿を見ると鰐などが海の上に這いのたくっているようである。』私たちは函館山を別名臥牛山と云っているが、彼が海峡側から見て鰐・・・に似ていると思ったことは以外だった。
さらに
『シノリ(志海苔)浜、銭亀沢を過ぎ、日暮れかかったので、やけまきの浜にいかりを下ろして船から降り、丸太小屋を汲んでそこに泊まる。・・・セタラヰ(瀬多来)、ヨモギナギヰ(蓬内)も乗り過ぎ、トユヰ(戸井)の浦に着いた。原木を経て、日浦(恵山町)山陰をゆくと、立った岩間になでしこ(撫子)の花が沢山咲いていた。ムヰ(武井)の小島が近くなると難渋した塩瀬よりもさらにはやく流れて、ひどく不安な気持ちになった。
因みに彼の見た「武井の島」(山側からですが・・・)
マップ


「あら瀬のしほの八百路に神まさば みそなひたまへ波のはや舟」と歌を捧げた。
トドホッケ(椴法華)のコタンについて休むまもなく、また舟に乗った。
フル部(南茅部町古部)の大滝というのが、十尋のあまりあろうか、茂り立つ木の中から岩面にかかっているさまは綿がくりだしているか、雲をこぼしているかと思われる。』と記録している。

豊浦の歴史公園にある歌碑

『蝦夷見ても くもりも 波の月きよく 
    吹く口びわ(琵琶)の声の寂しさ』
裏書には
『1791年、旧暦6月7日放浪の文人菅江真澄はこの地に遊び、月明かりの浜辺にメノコがたわむれ吹くムックリのひびきに旅愁の感傷に浸りつつ、この歌を成す』



菅江真澄和歌シリーズ:熊石町泊川や太田神社の歌碑など

2018-01-20 18:53:17 | 旅行
熊石町泊川は渡島半島日本海側国道229号線を江差方面から北上し、泊川小学校を過ぎ、熊石消防署相沼、泊川分遣所の建物の横、海側の広場にある。
 歌碑は逆光で読み難いが
『五月雨の はれまもとめて 海士の子が かわめかし干す浦の まさごち  菅江真澄』とある。

裏書には
「泊川に逗留しながら、紀行文としてあらわした「蝦夷喧辞瓣(えみしのさえき)」に大田山詣での帰路、相沼川の増水による川止めと真澄自身の風邪という事情から、五月九日から二十三日までの十五日間ここ泊川に逗留した折りに読んだ浜風景の歌である。・・・郷土の文化遺産と、泊川小学校の卒業生がこの歌碑を建立したという内容であった。

太田神社では
鳥居の横と村社前に松浦武四郎の歌碑と並んで建てられている。
 太田神社横の歌碑
『行くやらで ここにくれなば 苺むしろしきて 太田山の花のしたふし  寛政元年(一七八九) 菅江真澄 句』

村社拝殿横の歌碑
『雲のうち 三のみのりを 鳴くとりの こゑかすかなる 山のたかけん』

あわび山荘のホテル玄関前にある歌碑
『めずらしな 五月のけふの 花ざかり いすれあやめの 匂ふなるらん 寛政元年(一七八九) 菅江真澄 句』

説明版
『旧暦四月二十九日=五月七日まで久遠大政町)に滞在し、紀行文「えみしのさえき」の中に句を記しています。』

親子熊の国道側にひっそりと菅江真澄の歌碑が立ってある。
奇岩 親小熊

歌碑
『さみだれの雨の 晴間に みね麓かかるもあやし 花のしら雪』

国道229号線宮野から277号線をせたな方面に進むと「秘湯臼別温泉」がある。分岐点には案内板があるが、結構山道を進む。このような遠いところまで菅江真澄は歩いてきたのか、馬に乗ってきたのか・・・温泉に入っている。
彼はここでも歌を詠んだ。(歌碑はないが、伝説の説明版の中に記載されている。
彼はこの温泉について
『二十尋ばかりの高い岩にかかって滝のように落ち流れる湯、小屋も無、自然に出た温泉、熱さが身に染みるような湯』とこの歌を詠んだ
『 いずる湯の けぶりの末に さく花や こずゑは はるの色にかすみて』
 
今の臼別温泉
  

菅江真澄和歌シリーズ:江差の歌碑

2018-01-18 17:47:26 | 旅行
2016年4月松前から江差方面に出かけ、レストラン江差家の所にある菅江真澄の歌碑を訪ねた。
歌碑は大きな看板の傍にあり分かりやすい。
因みに、菅江真澄の足跡をしらべたら、秋田の菅江真澄の資料からマップを発見

歌碑
 『すくも焚く 煙りの末も治まれる 風にしたがふ 沖の夕なぎ』

説明版には

『寛政元年(一七八九)初夏。この年もまた鰊が不漁のうちに漁期を終えた。
不漁に泣く沿岸漁民を見てきた旅人の目に、それでも、次なる昆布の豊漁を祈りながら、砂浜を清める人々の姿が美しい夕日に染まる影絵のように見えた。
 やがて、すくも(藻くずや塵芥)を焼やす煙も細くなった。
容量も不漁も天の定め、風に流れる煙りのように、運命を受容するたくましい人々の住む浜街に音もなく夕凪が訪れる。
一時、薄暮の静寂に包まれた江差浜の情景を詠んだ一首である。・・・
この歌を記した「えみしのさえき」は松前と久遠の霊場太田山を往復した旅の記録である  平成十四年九月』とある。



菅江真澄の蝦夷地第一歩の地と函館市戸井町での歌

2018-01-16 21:47:25 | 旅行
2016年、4月、道南の歴史の旅をし、松前町の沖の口などで菅江真澄の道第一歩を訪ねた。
菅江真澄は1754年(宝暦4)三河に生れ、1827年秋田で没している国学者。
三河にいた頃から蝦夷が島、アイヌ文化などにも興味を持っていたという。彼は青森県三厩から津軽海峡を渡って松前町の「沖の口役所」についたと記録にある。
彼の第一歩:沖の口に記念の木柱が建立されている。
木柱には「菅江真澄の道」と書かれ、一方には
『松前滞在四年余、第十三世道広公の継母文子方に重用され、文子や藩の重臣たちと歌会の日々を過ごした。重臣の家族にも和歌を教え、尊敬され慕われた。「えぞのてぶり」「えみしのさえき」など五作品をこの地で書いた』と説明がある。
木柱写真

沖の口広場の石灯篭(常夜灯か?)

沖の口の門

松前にしばらく滞在し、原口・小砂子・上ノ国・江差などを旅し、太田神社から再び松前に戻り、その後道南東側の戸井・恵山・有珠方面に行っていき、数々の歌を残している。
旅の順ではないが、彼の歌碑がある所はその場所に行けたが、地元である函館市戸井町でも歌を4首のこしてあるが、歌碑はない。
戸井町支所の教育委員会の方にお逢いし、いただいた「郷土の歴史文学散歩」のパンフレットに載っている。

彼は戸井町の日浦金剛、絶景の柱状節理の風景に感動して切り立つ崖に咲く撫来の花に見惚れて
一首目
『さけにけり こや蝦夷ならで 祈る人も なみよるきしの 撫子の花』

二首目
恵山の七つ岩のところで
七つ岩の群がる鷲に驚いて
『あら磯の いわばに ぬるる わしの羽に 妙なる 文字やはみのかくらん』

三首目
恵山の水無海浜温泉の付近か?赤兀にて、鵜の雛鳥に目を向ける
『嶋つ鳥 親のをしえを 居ならびて ひなもはねします 蝦夷の磯山』

四首目
日浦海岸の柱状節理の絶壁に息をのむ。
『身よせて 見るも及ばぬ いやたかさ いわおの末に かかるしら雲』

柱状節理