気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

史跡探訪で出会った灯台その(6)浜中町・霧多布岬の灯台

2017-08-21 13:30:59 | 日記
2011年、道東の史跡を訪ね、蝦夷三官寺の一つである厚岸町の「国泰寺跡」に立ち寄ったり、根室方面に向かい、その途中、浜中町の霧多布岬にある松浦武四郎の歌碑を見た。
松浦武四郎著「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」には霧多布・トーフツについての若干の記録がある。
『周廻り二里あまり、四面平岩にして上平地の樹木少しあり。北岸に少し砂浜有・・・其間二百間、汐干満によりて大船通りかたし。・・・島根少しの砂浜有る処、浜中と対してうつくしき處也。また、南に廻りてトーフツ 是南岸一つの湾にして少しの砂浜有。其両岸簇々(そうそう)たる高岩、また、南へ是よりまた東え廻りて置きに一つ岩島有』
と周辺の様子を記している。
駐車場から歩き途中で「湯沸岬灯台」が目につきました。真っ赤な土台に立つ灯台です。
プレートには
『霧多布港に出入りする船舶や沿岸を航行する船舶の道しるべとするために、昭和5年(1930)10月11日に点灯した旧浜中村所管の霧多布港灯柱に替わって、昭和26年(1951)6月15日に海上保安庁が建設した者。当時の北海道の灯台は初めて小型で高性能の機器が使われた。』其の外、岩礁の多い岬なので危険区域を示す光を赤色にして、岩礁を直接照射併設する工夫がされている・・・とのこと。
きりたっぷ岬への道

湯沸岬灯台

湯沸岬灯台の説明版

霧多布のことを詠った松浦武四郎の歌碑
 歌碑の文字は薄くなって読み難いが・・・岩礁にぶつかる荒波を感じ取れるような気がした。
『かねてより あらき しほ路 きりたふの 島根に たかく よする 志らなみ』

霧多布の岩礁(武四郎が見た大岩か・・・)


史跡探訪で出会った灯台その(5)室蘭・地球岬灯台

2017-08-20 20:01:33 | 日記
2014年、室蘭・白老の史跡を訪ねて旅し、室蘭の地球岬にある灯台展望台に着いた。此の地には何度か来ているがムロラン地名発祥の碑がある崎守町や、この地を安政の探検家の松浦武四郎の足跡も目的。
彼の著書「東蝦夷日誌」の「モロラン領」には
『モロラン(室蘭)会所通行や、勤番所、調役邸、板倉、御備米蔵、辨天社、永住はたごや、 出稼ぎ多し。・・・西南向、砂原に対し、毎日乗合船出る(海上七里)。・・・・白鳥沼・・・エトモ(絵鞆)に対しモロラン岳を望み風景よし。・・・駒ケ岳を望み勝景なり。
(地球岬について)ポロチケワエ「大いに秘する所」・・・。
(岬で一番高い所)
「ムンカリショ(崖)太古神が遣ひし鉞(なた)有りしと依って故號。從ㇾ是岩崖難場に成り、歩行成難し・・・チケウエ(岩岬)一番高い岬の義也。」と記録がある。

展望台の台座には「チケウエがチキウと転訛し「地球岬」と当て字が使われた等書かれている。
地球岬灯台は展望台の直下にあり、以前は職員の家屋があったが、現在はない。
初点灯は大正9年(1920)
平成3年無人化
「日本の灯台50選」に選定されている。
因みにムロラン(室蘭)地名発祥の地は崎守町にあり、そこにも松浦武四郎の命名の理由が書かれている。

地球岬灯台

展望台の「幸福の鐘」

絵鞆岬から駒ケ岳が望めるという記録もある。(絵鞆岬のモニュメントから駒ケ岳が遠くに見えた。)

室蘭と森町との海路での交通は当時便利だったのでしょう。

史跡探訪で出会った灯台その(4)寿都弁慶岬灯台

2017-08-20 12:10:44 | 日記
「にしん街道」の木柱を訪ねながら、国道229号を瀬棚町方面から北上すると武蔵坊弁慶の伝説がある岬の公園に大きな弁慶の銅像や「弁慶の土俵」が見える。
岬は「政泊」という所で、松浦武四郎の「西蝦夷日誌 壽津(寿都)領」には、此の地について記録している。
『十年前には未だ此邊が落々たる茅屋のみなりしが、今は漁櫓(ぎょえん)商戸麟次し、其繁昌知るべし。・・・レゝマキ泊(番屋、いなり)、和人沙まさ泊と云う。(政泊)フエヲマイ(岩岬、穴有)、此穴を以て故號。従ㇾ是大岩なる故、九折を上がり平野に出。ここをベニツケウ(弁慶岬)(大岬)と云う。・・・また弁慶が甲冑を曝せし處也とて、弁慶岬とも云えり。また、マレイ岬とも云う、・・・此處に弁慶の角力場と云う物有』と弁慶の土俵のことも記録していた。
弁慶の銅像をカメラに収めたら、白と赤の灯台があった。
 後日調べると「弁慶岬灯台」は最初に点灯されたのは、明治23年(1890)12月というのでかなり古いものだが、昭和27年(1952)改築されている。
寿都もかつてはにしん漁で栄えた町。歌棄の旧佐藤家漁場や旧鰊御殿(橋本家)がある。佐藤家は訪ねたが、旧鰊御殿の方は残念ながら、私は未訪問。

弁慶岬と灯台

弁慶銅像

弁慶の土俵跡と説明版
説明の文字は古くなって読めないが・・・「義経は平家から南部、津軽を経て北海道に渡り、この寿都に滞留し・・・アイヌの人々と・・・大きな下駄の足跡があったとつたえられる。」(読めた部分のみ)

公園のトイレの外壁には義経と弁慶のレリーフでかたどられている。

この後、寿都町の漁港近くにある「道の駅 みんなとま~れ寿都」に立ち寄り、漁港側にある「にしん街道」木柱と「保津船」を訪ねた。


史跡探訪で出会った灯台その(3)上ノ国・小砂子の日方泊灯台

2017-08-18 18:46:44 | 日記
2016年9月に上ノ国の史跡を廻り、小砂子という集落の稲荷神社などを訪ねた。
此の地は、安政の探検家、松浦武四郎も「渡島日誌」に記録している。
『江良(松前町)境川(注釈では前後松前時代の小砂子と石崎の境)、過ぎて一ツソリ石、海中に有。此処より陸に上がる。土人は最少し先にて至て上るもよろしと云う。・・・陸路を通ればメノコワシリ・・・山中ハツカミ沢、矢立沢、アブミ沢等云小流有。廻りて赤土坂下りて川端へ出る。是を小砂子山中と云いて、時々熊に出逢・・・』と調査の記録がある。
また、それ以前の時代、国学者の菅江真澄が寛政元年(1785)松前から、久遠の太田神社へ旅する途中、小砂子での伝説を「蝦夷の喧辞瓣」に記録している。
 小砂子は現在の人口約150~160人ほどと少ないが、私にとっては歴史的にも興味深い所がある。
小林優幸著の「菅江真澄と江差浜街道」にも、彼が「チイサゴで織田善四郎宅に宿泊し「小児」伝説を家の人から聞いていたとのこと。約3尺(90cm)ほどの大勢の男たちが小さな船でこの地の磯谷の土を取りに来た…驚いた村の人たちが沖合まで追いかけたが見失ったというもの。北海道には「コロポックル」の話があるが・・・道南にもそういう話しがあるということ。何か共通しているものがあるのかな・・・。
小砂子の集落は国道228号の松前町と上ノ国町の境にある「願掛1号橋」


細い道を行く先に燈台がある。
「日方泊灯台」とプレートには刻まれている。プレートは灯台名が辛うじて読める程度に文字は薄くなっている。


設立は昭和46年11月1日小砂子漁港への出入りする船や沿岸を航行する船を見守る役割をしている。

小砂子は嶮しい山の側面に民家や神社・漁港があり、国道に戻って、町道の高台から港などを見て探せなかった神社の鳥居がないか・・・見渡したが、見当たらず、もう一度集落に行って町の人に神社のことを伺ったのです。神社は崖になったような所にあり、鬱蒼とした林があったので、鳥居は見えなかったと納得。
小砂子の稲荷神社(建立年月日は分からず・・古くからあれば、信仰の厚い菅江真澄や松浦武四郎もお参りしていないかな・・・私的願望ですが・・・)

追記:
松浦武四郎の「渡島日誌」を良く見たら・・・稲荷神社のことが出ていた。
『小砂子村人家十四間、此処は山村なれば戸口増さざりしと、山の半腹に桟様に地面を舗て(つらねて)上下に屋敷す。・・・土人多く漁と山稼と畑は少しならで無。・・・村内稲荷社、祭礼二月初の午の日。村端に文化度番所を建て、往来の人を改めしと。今は廃したり。』

漁港と灯台・民家

因みに、燈台の真下にあたる漁港のコンクリートの上方に岩礁が少し見えるが、この岩が北海道地質学百選にと研究されたようです。金沢大学の研究班によると「ジュラ紀付加体の小砂子緑色岩体の地層の動きがわかるとのこと

(金沢大学理学部地球学科より写真引用)
燈台も興味があるが、旅で奇岩に出会うのも楽しい。(写真は保存なくなったが、花咲の車石や道南金剛といわれる柱状節理など地球の成り立ちが不思議なくらい面白い・・・




史跡探訪で出会った灯台その(2)稚内市ノシャップ岬灯台

2017-08-17 10:36:42 | 旅行
稚内市を訪ねたのは、「道北の釣りと旅」のホームページ管理者の福士さんから頂いた情報「猿払村と声問に松浦武四郎の新しい史跡案内版が出来たよ~」ということで道北の旅に出ました。
 尊敬する松浦武四郎の著書「戊午東西蝦夷誌目録」秋葉實解読の中に、声問や稚内についての記録があります。
因みに、彼は宗谷地域を3度訪れている。(※ 声問の宿営地碑の記録より)
  弘化三年(1846)
  安政三年(1856)
  安政五年(1858)
声問川・ノシャップ岬について
『六月五日、ソウヤ運上屋を出立てしてコイトイ番屋に到り、是より小舟に棹さし川まゝ上り、シュブントウを廻り、其の水源のあらましを志るす。・・・コイトイ番屋元を六月七日出立して、クシャルプト(※現在の南稚内)え到り、シリクラエンルン、トウベンナイ等を過ぎて、ノシャフ岬を廻り、本道なるルウランにて出会、バッカイ番屋元に到る』と記録し、彼はさらに「現在の根室にも同名有り・・・(納沙布岬のこと)と「北岬日誌と置なれども・・・」とこだわりを現わしている。

稚内では土木遺産になっている「稚内港北防波堤ドーム」を見て、稚内公園に立ち寄り、ノシャップ岬にいった。
夕日が絶景という所であるが、次の予定時間もあり、夕日は諦め、イルカのモニュメントや灯台を写真に収めた。
後日、稚内灯台について調べた。
 「野寒布岬」に立つ灯台は、高さは北海道で一番(42.7m)
  当初はノシャップ岬の丘陵地に建てられたが、昭和41年、ノシャップ基地の拡張により現在地に移設された。
  初点灯は明治33年(1900)12月10日
この灯台は宗谷海峡の航路を守る重要な役割があった。
1900年頃というと、日露戦争が1904年からなので、この戦争を見ていたのではないか・・・と想像しましたが・・・果たして灯台はロシア艦隊を見たか・・・?

稚内声問川の側の松浦武四郎「宿営の地」碑

稚内港北防波堤ドーム

ノシャップ岬

稚内灯台とイルカ

旧稚内灯台は映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地の一つであった。