気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

幻になった女満別大成の松浦武四郎木碑(2011年9月)

2011-11-30 20:31:45 | 日記
~駐車場での運命の出会いがなかったら・・・武四郎通過の地には辿りつけなかったであろう~
 松浦武四郎の足跡を追って野付半島や知床や網走の石碑など辿りついたが、女満別にあったという木碑は朽ちてしまっているという情報があった。しかし、私たちは折角女満別に来れたのだから、その場所の雰囲気だけでも感じたかったので、女満別役場の駐車場でうろうろしていた。一人の紳士が「どうされましたか・・・」と夫に声をかけてくれた。実は・・・とあるはずだった木碑のことを話すと「こちらに来てください。」と言われ、建物に入って行く。階段を上がるとそこは「教育委員長」の部屋であった。全くの偶然にお会いした教育委員長さんは女満別大成出身でおられ、詳細地図をコピーしてくださり木碑のあった場所への道順をマーカーで記してくださった。2~3秒の違いで教育長さんとの出逢いがなかったら、諦めきれない思いをもってその町を去ることになったでしょう。運命を感じました。旅ってこんな嬉しさもあるんですね。出逢いに感謝!!
 「女満別の碑」という女満別郷土保勝会発行の本には「ルーサン」「松浦武四郎この地を通る」ともう一つあったということですが・・・今はすべて見ることが出来ない。
女満別郷土保勝会の中の「ルーサン」と「通過の地木碑」の写真

 その地に着くまで、迷い郵便配達の方に聞いたり、近くまで来ているのだが・・・この辺りに「宮下橋」があるはず・・・ようやく見つけた!!。見つけた嬉しさは汗を流し、苦労して登った山の頂に立った時の感動に似ている。
宮下橋が目印

いただいた「女満別の碑」の写真を見て背景の森や畑の様子を照らし合わせたり、作業をしている方に伺ったりした。「その方の家は向かいですよ。そういえば、あの車庫の辺りに木碑があったな・・・。」ということでD○家の車庫を確認。家は坂下になって奥まってあった。
道端にあったと思われるポイントから広い土地を眺め、この辺を松浦武四郎一行が通ったのだ・・・と本の写真と見比べ、満足した。
木碑推測の風景(この土地は土手になっており、畑面より2~3m小高い)

「安政5年(1858年)5月松浦武四郎はこの地を通る。」別の側面には「これよりパナクシベツを経て網走中園へ向う。」もう一つは「ルーサン」、「坂を下りて川へ出る」と資料にあります。
彼と同じ土地に立っただけで非常に満足しました。
 そのあと、朝日ケ丘公園の秋のひまわり畑を見て美幌にある「峠の湯」の石碑や美幌博物館を訪ねて、北見のビアソン記念館や中の島公園内の碑などを巡った。



私の聖地:北海道命名の地を訪ねる(音威子府筬島)2009年9月

2011-11-27 20:58:05 | 日記
 北海道の名付け親、松浦武四郎の足跡を初めて、2009年9月19日から名寄・士別・美深・留萌・小平・天塩川河口を巡って、音威子府筬島にある「北海道命名の地」を目指す。
この旅の途中で、羽幌や苫前・遠別いわゆるオロロンラインである。この道は以前にも通っている。苫前を通過するとき、作家の吉村昭著「羆嵐」を想う。大正時代、苫前の三毛別川の奥で起こった国内最大獣害事件である。何人もの人を襲った巨大熊を射るため鬼鹿から鉄砲打ちの名手を呼び、熊との戦いが凄まじいという印象があった本。地図を見ると羽幌ダムから三毛別川がある。また、遠別と美深は特に印象が深い。若くして悪性の癌で遠くの世界に行ってしまった妹が住んでいた町である。妹との様々な思い出が浮かぶ。少し高台に行き町全体を眺める。闘病生活中、一度見舞いに行った病院など。亡き妹を想うと少々感傷的になる。元気な姿で逢ったのは、私の職場を訪ねて来て、笑顔で帰っていった妹。あんな事こんな事、あったな・・・と夫と語り、再びオロロンラインに戻る。
幌延町にあるトナカイ牧場に寄り道し、R40号線を南下して筬島に着いた。松浦武四郎の石碑や木碑の案内標識少ないように思いますが、やはり、命名の地は聖地である。国道に大きな看板が立ち、迷うことなくその地に立つことが出来る。
案内版と熊出没注意

「命名の地」年譜、「北海道命名ゆかりの地」など

「北海道命名ゆかりの地」には、命名の発想が以下のように記載されている。
『安政四年、武四郎はアイヌの人達と共に天塩川を探査し『天塩日誌』として書き残しました。
天塩川探査の帰途中、オニサッペ(筬島の鬼刺川付近)で故事に詳しいアイヌのアエトモ長老から話を聞きました。アイヌの通称である「カイナ」の『カイ』とはこの国に生まれ者ということで『ナ』とは貴人をさす尊敬の言葉である。このことを聞いた武四郎は「アイヌの人々は、自らその国を呼ぶとき、加伊(かい)と言い、アイヌはひげが長いところから、蝦夷(かい)の字を用いたが、もともと蝦夷地の蝦夷(えぞ=かい)とは加伊(かい)のことであると考えました。
 明治二年七月十七日、武四郎は道名に関する意見書を提出。候補に、日高見通(ひたかみどう)・北加伊道(ほくかいどう)・海北道・海島道・東北道・千島道の六道を提示。この中から「北加伊道」が採用され「加伊」の字に北方の海に通じる「海」をあて「北海道」の名が誕生しました。
現在の「北海道」の名はまさにこの地でアエトモ長老と出会ったことから生まれたのです。』と書いてあります。(天塩川は平成16年に北海道遺産として選定されました。)
予約の取れた「天塩川温泉」への入り口、目印のポール

松浦武四郎の足跡(道東エリア)-3帯広~阿寒(2011年9月6日)

2011-11-25 10:33:42 | 日記
私の旅の持ち物の中で、カメラ(ニコン)とメモと旅の資料は何より大切なものかと思っている。メモは走行中のルートや時間を記載し、途中気になることをメモしている。記憶が薄れても、思い出せるようにしている。ブログは最近、札幌の妹に教えてもらい、超初心者。(自分の思い出に旅の記録を残したいと思ったので・・・ブログに書き込む。)
前日の大雨から帯広では小雨に変わった。気温は21℃。
ホテルを出発。音更町の鈴蘭公園内にある石碑に向かう。私たちの旅は北海道地図と資料を持って目的地に行き、あこがれの人の足跡を辿るドライビング・オリエンテーリング的な楽しさがあると思っている。
私たちは車という便利な移動手段であるが昔の偉人は歩いたり、船・馬の利用、偉人の凄さに敬意を持ちたい。(中西出版社発行の「アイヌモシリ紀行」の著者早川禎治氏は松浦武四郎の足跡を恵山から野宿しながら歩かれた方なので、私はバックパッカーに徹する著者の姿勢に乾杯!)
 早朝7時8分には鈴蘭公園に着いたが広い公園内のどの辺にあるのか・・・うろうろ。樹木の隙間から台座を発見!石碑の文字は「開町記念碑」で刻まれている文字は読みにくかったが「此のあたり 馬の車のみつぎもの 御蔵を立てて 積ままほしけれ」この石碑の説明板は倒れていたが、石碑の横に立てて写真撮影した。「松浦武四郎は一八五七年八月(安政四年)札幌から十勝入りしての踏査。また、同年七月十勝川流域の(調査)を行った。この時読んだ歌がこの碑である。(読み難かったので、誤記があるかも知れません。)今日の十勝音更を予見しているようである。」音更町教育委員会とある。

音更帯広ICから道東自動車道を利用して足寄経由阿寒へ向かう。このルートを利用するとき、中足寄の蜂蜜農家に寄って購入したことがあるので、家を訪ねたら番犬はお留守番をしていたが、施錠されてどなたもおられなかった。純粋の美味しい蜂蜜残念。
阿寒では湖畔、ビジターセンターの裏にある歌碑やコタンを訪ねる。
コタンの入り口

ビジターセンター裏の松浦武四郎の歌碑
漢詩は「水面風収照間 小舟棹支沿崖還・・・」
    
雄阿寒岳登山口の石碑 この石碑は滝見橋付近にあるという情報でしたが、石碑らしいものを見つけることができず、登山口まで入って付近を探した。阿寒町の教育委員会に「登山口の石碑を見つけれない・・・教えてください」と電話したら、R241号線沿いにある「雄阿寒岳登山口」看板の立っている所にお地蔵さんが4体くらい並んでますよ。その横に石碑があります。」ということでした。何とそこは何回か探して往復して見逃していた所でした。
                         
阿寒から弟子屈郵便局に寄り、夫は「ふるさと切手(摩周湖とアイヌ模様のセット)」をはがきに貼って日付印をお願いして職員さんに話をしていた。




松浦武四郎の足跡(十勝エリア)-2清水町人舞~中札内(2011年9月)

2011-11-24 22:08:03 | 日記
 佐幌の石碑を見て、林道を終えて、ナビする私が方向を間違い遠回りになったが、国道38号に戻る。雨は相変わらず止まず大粒、ワイパーはフルスイング。目的の人舞へのR274号から718号に左折し、人舞12号、13号の岸田さんの農場に着いた。岸田家を訪ねると奥様が出られ、岸田さんの土地にある、松浦武四郎の野宿の石碑を見せていただきたいと話し、快く了解をいただいた。個人所有の土地であるので、無断では・・どうか、年に何人か来られるとのこと。農地の横を通るのであるが、大雨で、肥沃な農地は足が埋まるということで畔を通る許可を得た。
岸田農場の案内標識
石碑の裏側
「安政五年(一八五八年)蝦夷地山川地理取調の命を受けた松浦武四郎が飯田豊之助をともない、石狩国から山越えして十勝川筋に沿いこの地に着いた。ニトマップの初代酋長アユラクは同族あげてこれらを迎え、一夜の旅情を慰めてもてなした。紀行文「十勝日誌」に記されている。」昭和四十四年建立清水町教育委員会
また、横の案内板には
「安政五年(一八五八年)徳川幕府函館県産、蝦夷地山川調査探検係松浦武四郎は命により飯田豊之助を同行し、狩勝峠を越え十勝川に沿って字人舞基線十三号(当時ニトマフ)にたどりき、和人住居前の先住民族として清水町に居住していた酋長アラユクが礼を厚くして、一夜の旅情をなぐさめた場所といわれている。アユラクのて嫡孫サンクルの証言と松浦武四郎の紀行文「十勝日誌」の対照により、史実として確証を得、昭和十二年六月三十日「史跡標」を建設、以後、昭和二十七年再建し、昭和四十九年碑文を加え建立した」清水町教育委員会と記載されている。
石碑から岸田家へ戻り、感謝を述べようとしていた時、丁度ご主人が車で戻られ、お礼を言って、次の中札内に向かった。
道の駅「中札内」で焼き鳥を注文していただいた。鶏肉が大変に美味しかった。
松浦武四郎歌碑の案内標識は2008年広尾サンタランドや中札内の一本山展望台を登ったとき、同じ分岐点であったので記憶に残っていた。

西札内公園はバケツをヒックリ返したような大雨。東屋の中は床に埋められた丸木のブロックが浮いている。
東屋の所に松浦武四郎の歌碑とサツナイウンクル(サツナイ族の祖)の像が立っている。
   この説明板には
「サツナイウンクルの祖の像」一五〇〇年ごろ イシカリベベツ(現美瑛川辺別)の人 モザルックがサツナイに住みいし サツナイ族の祖となれり という。先住民族アイヌの人々が和人の侵入で受けた苦難の歴史を偲びここにその像を建立し遺徳を讃える。
松浦武四郎の歌碑
 幕末の探検家松浦武四郎一八五八年旧暦七月十二日 タイキより現西札内札内川左岸のサツナイコタンの乙名マウカアイノの家に一泊し鹿肉の馳走を受けたときに詠める歌なり。
 「此のあたり一夜かりても 鹿の音を 今宵は近く 聞かましきもを」と説明されてある。
           伊勢 松浦 竹四郎 (碑文は本人の残した日記より)
           平成九年八月九日 国際先住民の日
           西札内地区先住民族を語る百人委員会

この後帯広広尾自動車道を走ったのですが、札内川は濁流となって土手近くまで水位が上がってきているようだった。

松浦武四郎の足跡(道央・十勝エリア)-1千歳~佐幌2011年9月4日

2011-11-23 11:39:05 | 日記
2011年9月4日、出発した。退職後時間に追われないゆっくり旅を夢みて、道東方面の松浦武四郎の足跡を夫が資料作る。出発時は快晴のドライブ日和だったが、予想通り台風が北海道に上陸する前日ということになった。雨にも負けず、尊敬する武四郎の足跡に出逢いたいという一心のみ。
 千歳で一泊し、アウトレットモールに寄り道。翌朝、7時ホテル出発し、千歳川に架かるサーモン橋の武四郎のレリーフに逢いに行った。(二度目の再会である)レリーフは4枚ある。

 次の行先は新得町の佐幌ダム奥にある野営の地である。トマムの高速はまだ開通していない時期であったので、夕張まで高速を利用して、国道274号線から樹海ロードに入る分岐を左折して、R237から占冠、落合から狩勝峠に入るが、大雨になる。サホロダム方向へ進む。ダムを過ぎると目印はないのだが、紫紺橋を通り越して林道を進む。松浦武四郎の野宿の地の青い銅板の案内標識があったが、そこから林道に270m進むと勘違いして、真直ぐ奥へ進んだ。(林道に面して石碑がある・・・思い込んだのだ。)1~2㎞以上進んでも見当たらない。熊笹の藪に埋もれているのかと目を凝らした。同じ道を戻り見落としたのでは・・・と元の看板へ戻った。よく見ると、看板から右奥に笹刈りをした大きな道があった。誰も歩いた形跡がないが私は登山靴、夫は長靴を履いて歩いた。間もなく目的の野営の地の石碑があった。看板の所にあるタイヤ痕は大きく深い泥濘に我が家の愛車RV車が埋まった証のトレース。
(ここではSOSを発しても、JFの助けはどうなのか・・・最悪は免れた。私一人で車の後押しをするか・・・と覚悟までした。夫は平気で、四駆だよ!!(車の性能知っとけ・・・ですか)

青い案内板には「函館奉行から東西蝦夷地山川地理取調の命を受けた幕末の探検家松浦武四郎が安政五年(1857年)六度の蝦夷利入りをし、同年三月十三日(太陽暦の四月二十六日)に残雪きらめく狩勝国境を越え、新内の一の沢を下って、この地に足を踏み入れた。和人としては初めての狩勝越えである。
 同行者は石狩詰下役の飯田豊之助と案内のアイヌ○○(※読み取れない部分)十人、函館を出発して五十日目、ときに武四郎四十歳であった。
 武四郎が書いた当時の記録「戊午東西蝦夷山川地理地取調日誌」によると一の沢が合流する付近の佐幌川は幅が七、八間(一間は約百九メートル)分け入り(文字が不明瞭であるが・・・)トドマツの多いこの地に野宿したとある・・・」とあった。  
                昭和六十ニ年十月  新得町
                             新得郷土研究会調査