気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

史跡旅で出会った榎本武揚の足跡像

2018-02-26 19:00:28 | 日記
北海道内の史跡を巡って旅し、箱館戦争での幕軍に土方歳三とともに戦った榎本武揚の史跡に出会い、多少なぜその場所にあるのか・・など不思議な思いをもった。歴史に詳しくはないが関心はあったので、数年にわたる史跡探訪から彼の関係写真をまとめてみた。
(1)道南森町鷲ノ木の「榎本武揚上陸の地」
鷲の木には明治元年、旧十月二十日噴火湾中央部鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸した。当時積雪30㎝強風で波は荒れていたということが説明版にあります。此の時の人員には大鳥圭介や土方歳三など二千人以上と言われている。

史跡「榎本軍上陸の地」

(2)森町富士見町にある「榎本武揚・土方歳三上陸の地」



(3)知内町中の川沿いにある「武揚松」石碑と川沿の木


(4)江差町奉行所跡にある「嘆きの松」と開陽丸
説明版


 江差の浜で座礁した艦船「開陽丸」の応援を待っていた土方歳三とともに嘆いたという松が現存している

鷗島の所に作られた「開陽丸」

(5)江別市榎本公園にある「武揚顕彰碑」の彼の馬上像と江別発祥の地
榎本公園入口


(6)小樽市の竜宮神社にある榎本像
竜宮神社は榎本武揚建立。


彼の書による「北海鎮護」

また、小樽都通り商店街にも武揚の写真や伝説が書かれているというシンボル的ボックス。小樽の人々にとって誇りでもあり、偉人だったのでしょう。

「榎本武揚と明治維新」から
まず、彼の生い立ちに関して・・・
彼の名は「榎本釜次郎武揚」は1836(天保7年)幕府旗本榎本円兵衛武規の次男として生まれた。
15歳に昌平坂学問所に学び、オランダ語も学んでいたという。
また、安政4年に長崎海軍伝習所に入学し航海学、機関学を学んでいる。
明治元年彼は海軍副総裁となり、品川から八隻の徳川艦隊を率いて北海道に到着。箱館戦争を指揮することになった。
この戦いでは五稜郭を開城し、降伏することになったので、牢獄生活を2年間ほどあったが、開拓次官であった黒田清隆の求めで開拓使中判官となり、北海道の天然資源調査などを行ったという。
それで、対雁(現在の江別市)の原野開拓や小樽の開発にもあたったということが分かった。
ただ、箱館戦争後、旧幕臣、囚われの身であったにもかかわらず明治新政府の重要なポストを歴任することが出来たのは彼が近代ヨーロッパの先駆技術や国際法を熟知し、その才能を認められたところにある・・・と「榎本武揚と明治維新」の著者黒瀧秀久氏は記述している。私の謎が解けたような著書であった。
「本を読んで旅するか・・・」、私は「旅してから本を読んだ」の方であった。

夕張を探検した松浦武四郎の千鳥が淵の滝と水力発電所

2018-02-07 13:39:25 | 旅行
夕張市には化石が採れたという冷水山があり、興味があったので、ホテルの裏側からスキー場の中を登ったり、メロン城に行って見たり、映画「幸福の黄色ハンカチ」のロケ地を訪ねたり、何度か訪ねた思い出の地ですが、「北海道」の名付け親松浦武四郎もこの地を調査探検している。
現在は、人口減ですが、この町の医療について「今の夕張の現実は将来の日本にも同じように・・・予測される。」と地域医療の先端を歩まれた故M先生の講演を函館で聴講したこともあるので、とても心に残る印象的な街です。
松浦武四郎著、秋葉實解譯「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」の「第十六巻由宇発利 日誌(二)」には
夕張市の滝上付近の記録がある
パンケソウ 一口に成りて落ちる也。巾五丈高三丈計、右の方大平岩盤の上より望むる也。其滝の前に彼レフルシベ有る也。又、少し上りて屏風岩とも云如き大岩立てり。此傍より上え行又大平盤の上え行、川を隔て北岸を見に、
 ヘンケソウホコマブ(滝の上・・・秋葉氏の解読注釈)巾三尺の滝一すじ山より落る也。其滝五丈計のもの二段有、実に天下の奇観也。こへて又岩の上しばし過 ヘンケソウ 則是をカモイソウと云也。此辺川巾弐百間計、平磐也。其川流三筋の滝と成て落る。第一の方南の滝は小さく、巾六尺計にて高三丈位。其中にあるもの一番高く見ゆ。巾二丈位、高三丈位。此滝の前は竈の如く成りたり。第三北の滝巾一丈五六尺にて、此中滝と並び落る也。其岩盤岩大穴多く明て、実に希代の絶景なり、滝の上遅流にして深きよし。凡湖水かとも怪しまる程の場所なり。其風景中々画くとも其万分の一をも描写し難し。・・・余此所にて考えしに、余無量寿経の曼荼羅の、又は阿弥陀経のと申極楽浄土の躰相を見て、甚其楽しみ、また其仏殿楼閣の荘厳の美を、是が、彼の方便かと思ひ怪しみが・・・』と記録している。

夕張川に架る千鳥橋を渡を渡って・・・


千鳥ヶ淵の千鳥滝

千鳥ケ滝の説明版

林の茂みから赤レンガの建物が見えた。それはエコな発電所であった。
水力発電所と説明版と産業遺産的発電所

発電所は滝の落差を利用してタービンを回すシステムで、現在の出力2340kWの電力を供給するという
滝上水力発電所の建物があった。
最初この建物を見た時は産業遺産として保存しているのかと思ったが、説明版を見ると、現役だそうです。
1925年(大正14年)、北炭滝之上水力発電所が建設で、當時は代表的な洋風建造物。全盛期にあった北炭の姿を象徴している・・・と説明がある。

昔の夕張は石炭で栄えた街だったが、メロンも有名。
そして江戸時代末期に蝦夷地探検した松浦武四郎が絶賛した千鳥が滝という自然もある。
丁度北海道と名付けられて150年。武四郎が見た絶景は私としては地域のお宝的存在に思える。
武四郎の描いたこの辺の案内説明版がないので個人的には、少々寂しい。有ったらいいな~と思っている。

白老のコタンコルクル像撤去と知り・・・

2018-02-03 13:35:21 | 日記
2018年1月の北海道新聞に「コタンコルクル像」の撤去するという記事が掲載されていました。
白老にはポロト湖があり、自然に恵まれ、春には水芭蕉の群生を探し、周辺を歩いたりした思い出がある場所。
更に、アイヌ民族博物館には松浦武四郎の「顕彰碑」も建立され、訪れたところです。
1月18日の新聞情報では
『アイヌ文化復興の拠点「民族共生象徴微空間」の整備に伴って、博物館が3月末で休館するのに合わせて、撤去される。』という内容でした。
コタンコロクル像は博物館のゲートをくぐると真正面に立っている。村長(むらおさ)で、高さ15mもあり、右手にイナウ(御幣)、左手にエムシ(刀・・・武器ではなく儀式用)を持っている。移転も考えたようですが、設置から30年、老朽化のためということでした。
しらおいコタンアイヌ民族博物館の入り口

2015年10月に撮影したコタンコルクル像


松浦武四郎顕彰碑とブロニスワス(ポーランド人、白老に滞在し、アイヌと極東先住民研究の開拓者)の像