気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

旅の途中寄り道:鶴沼ワイナリー・新十津川(玉置)神社など

2016-03-31 21:31:45 | 旅行
9月30日、国道275号線、晩生内からつるぬま道の駅を過ぎて、道を左折して鶴沼ワイナリーへ向った。このエリアに来たときには、鶴沼限定のワインを購入している所でもある。北海道内でも広大なブドウ畑があるという所。
季節的にはまだブドウの収穫はこれからという時期と思うが、御主人は「今まで熊が出没したことはないんだけれど、最近、熊が出て、檻を借りて生捕った。」ということをお話された。美味しいものは熊も分かるんでしょう・・・。
つるぬまワイナリーのシンボルマーク

ワインショップ

ブドウ畑

下徳富駅(無人駅)
この駅を調べた・・・1934年、札沼北線、中徳富駅と浦臼駅間の延伸開業に伴い開業されたとのこと。

ホーム

田園の中を線路が走る・・・

月形樺戸集治監正面
 ここは2015年年7月16日に見学に来た所ではあるが、新撰組の永倉新八(現在の北海道大学で武術を教えてもいた人物。)のことや、囚人の足に付けられた鉄の玉ですり減った石の階段に当時の囚人の過酷な扱いに気を奪われ、肝心の集治監正面を撮りわすれた。新十津川に向かう途中でもあったので、その場に寄った。
旧樺戸集治監正面

囚人の足に付けられた鉄の玉ですり減った石段


新十津川の開拓記念館に寄り「玉置神社の絵馬」を見学させてもらった。
新十津川開拓記念館全景

絵馬は
『明治二十七年六月二十四日
  玉置神社奉祀之景  新十津川村岸尾森直』とあり、
明治27年、上徳富シスン島に社殿を建てて、旧郷分霊を奉安したときの様子を岸尾森直氏が絵馬として奉納したもので、カンバスに油絵具で書かれている。露点が設けられ、村民が撃剣、射撃、踊りなどに興じている様子や家屋の配置、渡船など開村当時の様子が克明に描かれているということで歴史的価値が高い絵馬であることが調べた資料で分かった。
記念館内展示の絵馬と玉置神社木柱


記念館前の松浦武四郎の歌碑。(再会)

歌碑は安政4年旧暦5月15日に徳富川河口に泊まった時に詠んだもの。
「日数経て 富区の里に 来てみれば ここもかはらぬ茅ぶきの宿」
金滴酒造

金滴酒造のガラス窓に描かれた昔の酒造りの様子


酒造会社の向かいには「松浦武四郎の止宿の石碑」がある。(再訪)

新十津川神社
場所は樺戸郡新十津川町字中央37番にあり、その神社の由来は
『本社は明治22年奈良県十津川村の有する吉野郡一帯の豪雨により、生活の方途を失った人々が北海道へ移住することに端を発し、明治24年1月14日本村役場側に仮殿を設けて、奈良県十津川の玉置神社5柱の御分霊を奉斉した。
 同27年6月24日本村上徳富のシスン島に仮設を建築、同31年水害により、現在の高台に奉還し、同33年9月には社殿を造営、更に大正4年に現在地に社殿を新築した。・・・・(中略)・・・昭和42年社名を新十津川神社となる。平成2年に鎮座100年を迎えた』
鎮座百年記念碑


新十津川神社の石柱


鳥居は「玉置神社」の社額が掛かっている。

本殿

本殿の社名は石版に「玉置神社」の額になっている。石版は珍しい。

手水場

御神興庫
神輿の庫正面には、「大正九年六月」と「本村居住四国出身者」とある。

其の外境内には神社改築の際の「上徳富記念碑 土坑組合の記念碑」があり、碑の裏側には開町百年にあたり、神社の造営にあたり。広く篤志寄附の奉賛を仰いだということや、母村十津川村より杉、桧、特殊財の献財を賜ったということが刻まれていた。(平成元年七月の竣工である)
記念碑の手前の石碑が徳富高台尋常小学校跡

ここを見てから、次の目的である空知太神社方面に向かった。

念願の松浦武四郎止宿の地「上カバト下カバト

2016-03-23 23:51:51 | 旅行
2015年9月30日、札比内神社から、国道275号線を進み「鶴沼道の駅」の看板から少し行ったところに「樺戸川駅逓跡」の石碑があるのだが・・・私たちが行った時には目標となる閉店した商店はあるのだが、その側に少しの石碑が見えた。残念ながら、鬱蒼とした雑木林状態で背の高い雑草をかき分けようとしたが、足元には溝らしき凹みがあり、近寄れない。裏側に廻ったが、廃屋の側には古い農機具が散らばり、養蜂の箱が数個置かれて石碑の裏側にも行けない。
辛うじて見えた樺戸川駅逓跡石碑の一部

其の地を離れて目標の松浦武四郎の止宿の地へと向かった。
「上カバトと下カバトの境」
松浦武四郎は安政4年5月21日(陽暦)1857年6月12日止宿の地」
於札内川の梶戸橋の手前(浦臼方面から新十津川方面に向かう途中にある橋)手前で右折(前回は左折して迷った。)そのまま畑の中に挟まれた道路を進むとT字路になり、そこを左折するとビニールハウスの奥に説明版があり、ホットした。
ここに至るまで、私たちは同年5月にも浦臼に来て、役場にもより「上カバト・・・」のことを伺ったが、分からない様子であった。
それで、今回はようやく実現できた。
松浦武四郎著「丁巳東西蝦夷山川取調日誌ー上」にはこの地について
『ヲソキナイ 右の方、川幅三間計。源はカハト山より落ちるよし。相応の川なり。
ウラシナイ 右の方小川有て、去年は此処にて止宿せしなり。左の方小川、源はカハト山に達するより也。
川底小砂利のより。・・・(中略)
カバト 左の方相応の川也。然し源は近し。カハト山より来る。・・・昔は此カハトには土人小屋多く有り由也。
此処より下をツイイシカリまでを下カバトと云。文化5年改の時は百弐人人別も有し由なるが、今は参拾一人、軒別十軒とすれど、段々是までも云如く三十一人の陣別、十軒の軒数も一軒も無。』と淋しくなったことを書いている。

ビニールハウスの側にある説明版には

カパト川は江戸時代に松前藩が設けた石狩場所の内の上カバト場所と下カバト場所の境界となっていた川です。松浦武四郎は、丁巳東西蝦夷山川取調日誌の中で「ここよりツイイシカリ(対雁、江別辺までを下カバトと云い・・・。これよりウリウブト(雨竜)までを上カバトと云う。と記してます。上、下カバト場所の境であるカパト川は長い間、現在の樺戸川と思われていました。その後、平隆一氏の調査で、図の位置が正しい境であることが判明しました。
尚、松浦武四郎は安政4年5月21日(陽暦1857年6月2日)にカパト川で止宿しています。
   資料提供 美唄市 平 隆一氏  浦臼町文化財保存会 2005、6、10』と説明版の右側にマップイラストが描かれてあった。
農家さんのビニールハウスにお邪魔しました。こう所に止宿していたんだと安政の探検家のことを改めて尊敬。


松浦武四郎止宿の地「上カバト下カバト」の碑へ辿る道ー二日目

2016-03-22 12:25:26 | 旅行
前日、栗山町から迷いに迷って辿り着いた南幌温泉ホテルをスタートして9月30日、目的地の浦臼方面へ進んだ。
途中、気になる石碑や神社、無人駅などがあり立ち寄った。
午前8時40分、篠津神社と石碑
 篠津神社の全景


篠津開基百年碑には北海道開拓の歴史の一つが刻まれていた。

『篠津村は、明治十四年七月七日、屯田兵十九戸の入地によって開かれ次いで、仝十八年三十戸、仝十九年十戸が配置され屯田村として北辺の警備と開発に当たり兵農一如以って開拓の草創とする。』とあり、現在は国道整備や農業、その他の事業などで繁栄したものと推測されるが、当時の記録によると
『推するに往時この地は巨樹蒼々として天日を尚( )丈余の熊笹人畜を没し、熊狼跋扈千古不斧の道燐たり、先人克す艱難辛苦風雪に耐へ・・・・』郷土創生の偉功繁栄を孫昆に嘱せんとする・・・と昭和五十六年に建立されていた。

「開村記念碑」

『篠津村明治十四年移青森・岩手・山形二十戸、仝十八年移鹿児島、佐賀、鳥取、石川、熊本五県三十戸越・・・』と各地から開拓に入っていることが分かる。
神社境内にはその他「忠魂碑」「日露戦争・満州事変、大東亜戦争」の戦没者慰霊碑がある。


国道275号を月形に向かい、途中無人駅の中小屋駅に立ち寄った。私は鉄道マニアではないが、無人駅や秘境の駅という処には何か気になっている。それは、なんでここに駅があるの・・・とか無人駅は誰が掃除しているのかなど、付近に住んでおられる方の駅への思いやかつては賑やかだったのだろうかなど勝手な想像をさせられるところなのだ。
中小屋駅・・・ホームは田園風景の中に


更に進んで「豊ヶ岡駅」

駅舎内部

札比内神社があり、立ち寄る。

坂口茂次郎翁の顕彰碑があった。
札比内神社の由来を調べてみた。
『札比内でも厚軽臼内地区は他の地より早く開拓され、明治5年神社を創祀、厚軽臼神社として祀るも、大正9年岩本農場の高台に移し、社郷を大沼神社と改称したが、年々移住者も増えて広範囲に開発が進み、札比内全域の中心となる所に再度神社を移すことになり・・・・(中略)合併により合祀された歴史を持つ御祭礼とのこと』
坂口翁のことはまだ調べていない。

鶴沼道の駅の案内板から少し進んだところにある「樺戸川駅逓跡」を探したが、目印の廃屋となった商店の家の横に雑草に埋もれた石碑があったが、それかな~と思い、近寄るが雑草と樹木に覆われていた。草刈鎌があったら確認できたのだが・・・と

松浦武四郎止宿の碑「上カバト下カバト」の地へ到達。この碑は今まで何度か訪ねて来たが、見つけることが出来なかった。今回ようやくたどり着けたところでもあり、碑を見て感動。