気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

芦別 星の降る百年記念館の松浦武四郎2011年6月30日

2013-04-29 20:36:49 | 旅行
前日の宿泊地北村温泉を出発してから、石川啄木の歌碑や晩生内、浦臼郷土資料館で松浦武四郎の足跡に出会い、国道12号線に出て奈井江町から、赤平市を通過し芦別に向かう。芦別の郷土資料館を訪ねたら、武四郎のスケッチした「空知大滝」のことを教えていただけるのではないかという期待があった。(武四郎のスケッチと現実の今の空知大滝の違いなどが気になっていたので・・・)
 2010年の9月に一度空知大滝を見ているが・・・滝の様子がなんとも武四郎の見ただろう滝とは似てもいない様子だったのです。(武四郎の探検したころから150数年を経ているわけですから・・・違いがあるのは当然かな?とは思うが・・・)
早速、星の降る里百年記念館の受付に来館目的を話したら、館長の長谷山隆博氏が来られて、展示室の鍵がかかっているコーナーを開けて、貴重な武四郎の「石狩日誌」原本からカマソウ(空知大滝)のスケッチを見せてくださり、色々と説明をいただいた。本物を見るのは初めてなので、感動と感謝で嬉しい思い。その後、パソコンを持ってきて、滝の上にダムが作られたので、水量が調整されているとのこと。放流状態の激流を見せていただいた。多分、武四郎が見た空知大滝は流れが激しいものだったのでは・・・とパソコンのビデオ画像で満足した。また、丸山道子訳のスケッチも見せていただいた。
鍵のかかっている貴重な資料展示コーナー写真
  長谷山館長の説明を聞く
          (※説明場面写真と名前使用はご本人の了解をいただいているものです)

丸山道子訳「石狩日誌」(山中の宿泊図)
        空知大滝
 星の降る里百年記念館(郷土資料館)
次に向かった野花南は2010年9月にも訪れている。その時は、芦別から富良野に向かう途中の野花南大橋を渡ると左側の道に武四郎の探検来宿記念の碑があるはず・・・であるが、橋から左折するような道路は無い。カーナビには交差する道路がある。迷ったかな?と思ったりしたが、迷うような所ではない。少し戻って通りかかりの年配の方に道を聞いた。「あ~あの道は崩落個所があって廃道になっているよ。」ということだった。再びあるはずの道の所に来て、ガードレールで塞がれている奥を覗いた。旧道らしき雑草に覆われた平地が見えた。そこを進んでいくと数メートルも歩かないうちに、目的の足跡碑に出会えたので嬉しく思い、当時の思いを追加、書き込む。(野花南の写真は2010年の撮影のもの)
その木の柱には『松浦武四郎探検家来宿  百二十年を記念して  昭和五十二年十月十日之を建てる
    芦別郷土史研究会』と
それから再び、空知大滝をダム公園のほうから撮影した。
そらち川看板の奥に碑あり
野花南の碑
野花南について松浦武四郎著秋葉實解読「丁巳東西蝦夷山川取調日誌」の上「第八巻再篙石狩日誌(六)」に『アシベツ と云う大川一条落来る。此川巾三十余間、本川は五十間位、共に瀬浅くして急流なり。また岩石蛾々と突出したり。・・・ノカナン 右の方中川にして、フト(河口)の幅八間にして、滝に成り落来る也』と記してある。
芦別から富良野へ向かった。

浦臼 松浦武四郎のみた地 2011年6月30日(晩生内に続いての旅)

2013-04-29 13:25:20 | 旅行
松浦武四郎が晩生内の三軒屋からみた樺戸連山のスケッチを見てから浦臼の郷土資料館に向かう。
浦臼役場を過ぎたあたりで「北の竜馬」という大きな看板が目に入った。この地は幕末期に活躍した土佐藩の坂本竜馬のゆかりの地でもあるのか・・・
郷土資料館の前庭にあった「田園空間博物館」の展示テーマを見て、北海道のお菓子メーカーで有名な会社の包装紙の絵が美しい花を描いた坂本直行氏のもの・・・と思っている位の知識しかない私でしたのでなるほとと納得しました。
その展示テーマの説明には『浦臼町郷土資料館は、昭和38年ころから町内に残る文化財の調査とその収集、保存の重要性が叫ばれ、その後も融資の方々によって懸命に進められてきたほ損活動の努力と資料館建設の強い願いが結実し、昭和45年に開館しました。
 資料館設立の本旨は、浦臼町の開拓に汗した先人たちの血の滲む努力や逞しい開拓精神をしのぶ貴重な文化遺産を多く展示し、町民はじめ多くの人々に文化財資料への関心を高め併せて明日の文化の創造と豊かな人間形成に資することを願いとしています。
 本資料館は、浦臼町の歩みと出来事を示す。パネル資料やアイヌ民族など埋蔵遺物、地質や自然、開拓者の生活用具や農林業・商業・通信・防災・宗教・教育等の多岐にわたる資料を展示し、総合的な学習機能を備えることを意図しています。
 その他、特色的な展示コーナーとしては入植者の一人である坂本竜馬家の甥の坂本直寛や実兄の坂本直<坂本竜馬家の養嗣子>家の遺品などに併せて、坂本竜馬にかかわる資料をパネル展示で紹介しています』と書かれてあった。
田園空間博物館

実は、浦臼郷土資料館内には松浦武四郎が描いた「信砂越え」があるので、それを見学に来たのです。
壁一杯に掲示されたその絵は案内のアイヌの人たちや武四郎の様子が分かるからです。
絵の右側に説明がありました。
『松浦武四郎がみた浦臼』て題して『松浦武四郎は江戸時代の終わりごろ、前後6回にわたり蝦夷地の探検を行い114冊もの日記を書き、それまでほとんど日本人に知られていなかった奥地のようすを明らかにした探検家です。
 安政4年(1857)石狩川一帯を探検したときの日記「石狩日誌」と翌5年(1858)道東道北を探検したときの日記「十勝日誌」にその頃の浦臼付近のようすを書いていますが、「十勝日誌」の一部には「2月23日、ウラシナイには人家が2件あって、このあたりはやや暖かい」と記されています』と記載されてます。信砂越えの中の「松浦武四郎と浦臼」が書かれているパネル
また、松浦武四郎著、秋葉實解読「丁巳東西蝦夷山川取調日誌 上」には、前述のヲソキナイの記述あとに『ウラシナイ 右の方小石川有て、去年は此処にて止宿せしなり。左の方小川、源はカバト山に達するよし也。川底小砂利のよし。よって水清冷なるが故。魚類多く入ると聞り。去年は此処にイナヲトクトミ云夷人の盲目壱人居りしが、其小屋も今は朽腐れしが故其事を問たたれば、今は浜へ下り居ると聞けり。・・・(略)当川すじくまささ多しと。ウラシとはくまささのことなり。本名ウラシナイなるかと思わる。・・・』と地名の由来が書かれている。
浦臼の郷土資料館の学芸員さんに感謝し、次の目的地である芦別に向かう。

晩生内 松浦武四郎の描いた樺戸連山2011年6月30日

2013-04-28 21:03:10 | 旅行
北村牧場の石川啄木の歌碑を見て、再び、道道6号線を北上。札比内を通り、晩生内(私はばんせいない・・・と読んでいた。正しくはおそきないと読む。)にある松浦武四郎が描いた樺戸連山のスケッチがあるので、その絵を見る目的です。晩生内駅を右折していくと家が2~3軒あった。水田のあぜ道のような所に木製の看板があった。

 そこには『松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む
       1857年安政4年5月21日(陽暦6月12日)リイノタフより眺望』
 歴史上、最も古く浦臼を紹介した眺望絵である。資料提供 美唄市  平 隆一氏
  浦臼町 教育委員会 浦臼町文化財保存会  と書かれていた。
「ヲソキナイ」についての松浦武四郎の記録は「丁巳東西西蝦夷山船地理取調日誌 上」松浦武四郎著、秋葉實解読によると(第四巻再篙石狩日誌(二)
『右の方、川幅三間。源はカハト山より落ちるよし。相応の川なり。樹木源には椴も有るよしなり。然し川口には柳・赤たもの木・其の外楓・がんびのみ也。少し行  ヒン子タシナイ』の記録がある。
また、近くに「田園空間博物館」という立て看板があり、そこには『石狩川の流れ 時代の流れと樺戸の自然  三軒屋沼は石狩川の屈曲した河道が
氾濫時に取り残されてできた三日月形成の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る。自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。
石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では、昭和7年から15年かで17回を記録し、その都度、農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。
 大きな氾濫が起こると左右に河道をかえて、取り残された旧河道として三日月湖が形成されます。
  人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は自然形成的な三日月湖が多くあります』と紹介してある。

次に浦臼の郷土資料館を訪ねる。

北村 石川啄木の歌碑 2011年6月30日

2013-04-28 13:14:08 | 旅行
 6月30日、曇り。北村温泉を出発して、道道6号線を月形方面に向かうと間もなく、石川啄木の歌碑の案内版があった。
北村牧場の敷地内である。
大きく、立派な歌碑であり右側の石碑には悲しき玩具よりの詩が書かれている。
   『石狩の空知郡の牧場の
        お嫁さんより 送り来し バタかな』

「鹿子百合の碑」には次のように書かれている。
 『薄幸の歌人石川啄木のあこがれた橘智恵(戸籍上はチエ)は北海道庁立札幌高等女学校卒業後補習科に進み、一九〇六年(明治39年3月)函館区立弥生尋常小学校の訓導となった。翌四十年六月、代用教員として採用された。石川啄木は、智恵を「真直ぐ立てる鹿子百合にたとえ、美しい同僚の存在に強く心をひかれるものがあった。不幸にも同年八月函館大火によって職を失った啄木は智恵の下宿先を訪れて処女詩集「あこがれ」を贈り札幌へと旅立っていった。その後病を得て職を辞し、療養に専念して全壊した。智恵は札幌農学校で兄の学友であった若き牧場主北村謹のもとへ嫁ぐことになり、明治四十三年五月石狩川を汽船で遡って空知郡北村の北村能牧場(後の北村牧場)に来たのであった。啄木は、明治四十三年末に出版した処女詩集「一握の砂」を智恵に送ったが、この歌集に収められた「忘れがたき人々二」二十二首は智恵を歌ったものである。
 のちに「空知のホルスタインの父」とたたえられる夫と共に多忙な毎日をおくっていた智恵は啄木が東京で肺を患い、栄養もままにならない貧困の生活をおくっていることを風の便りに聞き、当時高価で入手困難だったバターを、夫の同意のもとに歌集のお礼の気持ちを込めて、かっての同僚に贈った。
一九二二(大正十一)年十月一日、智恵は産褥熱のため愛する夫と六人の子を残して、空知郡岩見沢町の岩見沢病院でこの世を去った。
   満三十三歳であった。私たちはこの美しいエピソードを長く後世に伝えるため この碑を建立する
     一九九九年十月  北村歌碑建設期成会』と記されております。
北村牧場の案内     歌碑案内
歌碑全容
啄木の歌碑を見てから、浦臼方面の晩生内の松浦武四郎の碑を訪ねる。

岩見沢市北村 松浦武四郎の足跡 2011年6月29日(恵庭~続く)

2013-04-28 10:54:29 | 旅行
恵庭の漁太から道道337号線を通り、長沼神社前、長沼大橋、国道234号から栗沢町に入った。ここで、手打ちそばの店を見つけて、昼食を済ませた。
岩見沢市立病院や駅を過ぎて、道道6号線に入る。気温は27度と結構高くなった。探すのは北村赤川排水機場付近にある松浦武四郎の宿泊の地である。
迷いながらも、目的の近くにあることは確かであった。広い畑地の中を通ったりした。迷ったところが、林の中に石碑があったがそれは北村分村碑であった。
近くに土地の方がいたので、「赤川排水機場」のある場所を聞いた。目的の建物は林の奥手に見えた。私たちのいる場所の反対側であるとのこと。
ここから通じる道は戻ってからということで、教えていただいたルートを走った。
石碑には『安政三年五月九日シノロ乙名(前長の意)エンリシウ、外九名、安政四年五月十三日、トック乙名セツカウシ外三名、同年 五月二十一上川(この地より上流の意)アイヌニホンデ外一名とともにこの地に宿泊  昭和三十四年九月五日
                       為 北村六十年記念建 
     築堤工事のため、これより四十五米先より移設し、開村八十年を記念してここに石碑を以て建て替えする。
                       昭和五十四年十一月三日』と刻まれています。
 赤川排水機場    宿泊の石碑

宿泊の地を訪ねてから、北村農業資料館に寄り見学した。常時開館されていないようで、隣の建物を訪ねて、資料館を見たいことを告げたら、職員の方が鍵を開けて見せていただいた。
北村農業資料館
 資料館には土地の歴史、アイヌの暮らし、松浦武四郎の蝦夷山川取調べの地図などもあり彼の足跡が分かり満足であったが、ここで石川啄木の資料に出会うとは思ってもいなかったので、函館の立待岬にお墓があり、かつ、生活していた深い縁のある啄木が北村とゆかりの地であるという私にとっても驚きの遭遇に感動した。
啄木と北村 
「松浦武四郎と北村」のパネルには次のように説明されていた。パネル写真 
北村付近の石狩川調査の図
『安政二年(1855)幕府は蝦夷地を収めるため、蝦夷地をよく知っていた松浦武四郎に、蝦夷地の探検と調査を命じた。安政三年(1856)5月9日、石狩定役立石元三郎シノロ2名エンリシウ外アイヌ8名とでヒハイ(現在の中央)・・・(個人的推定ですが、役場の当たりが北村中央のよう)に宿泊し、雨竜越えをして西蝦夷を探査した。
翌4年4月、石狩川を遡り、5月13日、再びヒハイに宿泊し、石狩岳に登り石狩川水深を見定め、翌5年5月さらに付近を踏査し、石狩へ帰った。
 残されている各種記録には雨竜越えをする様子が記載されており、「自炊用の鍋を背負い、ケリをはき、案内するアイヌは熊、鹿などを食料にした。」とある。武四郎は後に札幌創建の献策者であり、道、国、郡名の名付け親で、北村では開村60年を記念し、由縁の地、中央にその功績をたたえ、役場前と、宿泊したと思われる石狩川ぶちに記念碑を建てた』と書かれていた。
 役場前の松浦武四郎翁顕彰碑
 顕彰碑の裏に彫られている武四郎の描いた蕗の葉を帆にした丸木船
お世話になった北村温泉と散歩で発見ファイターズマークの付いた家