気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

オロロンラインの松浦武四郎の足跡~留萌・増毛ぶらり旅

2012-12-05 14:26:52 | 旅行
2009年9月21日、留萌海のふるさと館を出てから、黄金岬「波涛の塔とモニュメント灯台「波灯の女」をみた。   
デザイン灯台は安全な航海を願う女神の銅像で右手にLED電球の灯りをかかげている。平成19年7月16日に初点灯されたと書かれていた。
 留萌の武四郎の踏査の石碑「ルルモッペ」を訪ねて、「北海道るもいガイドブック」の自然と歴史の中に留萌市を一望する「千望台」には踏査の偉業をたたえる記念碑がたてられている・・・と記載されていたので「千望台」へ行った。そこには留萌の港湾の偉業をなした方の大きな立像がたっていたが、周辺には武四郎に関する碑は探せなかった。喫茶店があったので、そのことをうかがったが、みたことがないということでした。見間違いかな?とその奥の森にいったが、発見出来なかった。
千望台から留萌市内が見渡せる 
増毛には数年前、黄金山登山のあとに増毛まで来て、港の近くの民宿に宿泊したことがあり、宿の食堂に高倉健主演の映画「ステーション」のロケでエキストラとして民宿の若女将が俳優さんと一緒に移した写真などが飾られていたことを思い出す。そのロケ地増毛の駅や風待ち食堂(観光案内所になっていた。)最北端の酒蔵や木造の古い建物などを再訪した。
残念ながら、木造の小学校は廃校になったようです。木造の校舎を大切に維持し、学童も丁寧に使うことで伝統的な建物を保存できたのでしょう。
 増毛駅(終着駅)

木造3階建の旅館と風待食堂

増毛小学校(北海道遺産)

酒蔵には暑寒別岳連峰の伏流水が注がれ、飲むことができる。お酒は米と良い水が命・・・。
 ニシン漁で賑わっていた増毛に佐渡から移住してきた呉服商人の本間氏が酒造をはじめたとのこと。国稀酒造の隣には国の重要文化財になっている豪商本間家がある。  
国稀・水  
暑寒別伏流水が  
オロロンラインを南下して、雄冬に着いた。武四郎の碑などはないが、昔は陸の孤島といわれたところでなかなか訪ねるチャンスはないので、この旅が良いチャンスでもあった。
 雄冬遺跡木柱と展望台
  
展望台  
 雄冬の展望台に登って日本海を眺める。夕日が見れたら絶好の場所かと思う。駐車場には「雄冬遺跡跡」という木柱がたっていた。厳寒の雄冬にはその大昔どんな人が暮らしていたのだろう・・・オホーツクのモヨロ貝塚や函館市の南茅部の古代の人とはまた別の人たちの営みがあったことを想像する。(資料館はあるのかな?・・・興味はあるが不勉強な私です。)
 「雄冬」に関する武四郎の記録は「蝦夷日誌 下」西蝦夷日誌の濱益毛の項に、浜益から辨天社、稲荷社、地蔵々のことが書かれてあり、『地形ヲフイ(雄冬)岬・ヲカムイ(神威の大湾中、またアイカプ(愛冠)・ポロクンベツ岬の小彎をなし、・・・後ろ蛾々たる高山、濱皆轉太石(ごろたいし)、通行やは岸の上に立出し風景宜し。小川に添て、勤番所あり。土人多し。・・・ヲフイ岬は夷地第一の嶮岬にして、往昔より九里あり、八十間の間波浪強敷(はげしき)故、九月中旬より通船難く、是が為に如何なる非情の事たりともその注進を滞する事有て、只山狩猟の土人のみ山脈を知て通行するよし。依て濱益毛は南にアイカブ岬・ゴキビル(濃昼岬の難あり、北オフイ(雄冬)岬の中間故、暮秋より仲春迄は離島に在るが如し。』と書かれているように、雄冬トンネルができるまで、大変な道路であったということ。白滝の広場にあるモニュメントは国道開通記念碑である。
 白銀の滝 
予約の取れていた留萌唯一の温泉ホテル「神居岩ホテル」へ向かった。

オロロンラインの松浦武四郎の足跡~留萌、増毛

2012-12-03 21:40:03 | 旅行
2009年9月21日、小平の民宿から留萌、増毛、雄冬に向かった。留萌は再訪の地であるが木造の貴重な建物や最北の酒蔵国稀が有名。留萌の町をぶらりあちこち歩く。まずは目的の留萌地方の松浦武四郎の踏査の石碑を探す。
 港が見える丘望洋遊園内にあり、古い赤灯台も同じ場所にあった。(写真)
   
ルルモッペ踏査の石碑について
 留萌郷土史研究会の建立による石碑の中には武四郎の描いた運上屋の風景のスケッチが刻まれている。
松浦武四郎著、吉田常吉編「蝦夷日誌 下」西蝦夷日誌の中には「ルルモッペ(留萌)領・・・本命ルヽモヲツペと云、ルヽは汐、モは静、ヲツはある、入る、ぺは水の事也。此川自然と奥深く、汐入る故に號く(なづく)是運上屋元の名也。
信砂を超えてルルモッペに入ったということで、後日、浦臼郷土資料館を訪ね、信砂越えについての挿絵を訪ねた。
「海のふるさと館」を訪ねると、ロビーから海を眺めていたら、和服の女性が私たちに抹茶を立ててくださり、松浦武四郎の足跡を訪ねる旅の途中で、思いがけない接待をいただき、感動しました。留萌の温かさなのでしょうか  
   海のふるさと館 
海のふるさと館には留萌の歴史がわかる資料館があり、私たちの旅の目的である尊敬する松浦武四郎のことがパネルになってあった。
そこには「松浦武四郎と留萌」というテーマで次のように書かれている。

『北海道の名付け親であり、当時随一の蝦夷通といわれた松浦武四郎は弘化3年、安政4年、5年の3回にわたってルルモッペを訪れています。その記録は再航蝦夷日誌、丁巳日誌、回浦日誌、西蝦夷日誌六編に詳しく述べられています。また、彼の残した東西蝦夷山川地理取調日誌はその地名の豊富さと内陸部の様子を詳しく描いている点で貴重な資料となっています。』とあり、また松浦武四郎について『文久元年(1818)伊勢国(三重県)一志郡須川村に松浦時春野四男として生まれました。16歳より、10年あまり諸国漫遊の旅に出ましたが、長崎では重病になって九死に一生を得ました。また、長崎では、友人からわが国の北辺の外国より脅かされていることや、その土地の様子がわからないことを聞き、道の地「蝦夷」の探検を思い立ちました。弘化元年(184427歳で、初めて蝦夷地にわたり、その五41歳まで、計6回の蝦夷地探検を果たしました。明治元年(1868)明治政府より開拓判官に任命され、北海道の名付け親として知られるほか、道路の計画や、札幌に役所をつくることなどの意見をだし実行されました。
明治3年(1870)開拓しを辞めた後は東京で悠々自適の生活を送りました。明治24年(1891)享年71歳で死去しました・・・と彼の生涯を記していました。
 また、海のふるさと館の側に「日和山烽火台」が建立されている。 
 この石碑は『江戸時代末期、この地は北蝦夷地や奥蝦夷地に異変があった場合の連絡用の烽火台が設置された場所である。弁財船がルルモッペ(留萌)を出航する際に気象を観測した日和山として使われた由緒ある場所である』平成元年10月1日 留萌教育委員会・・・と書かれている。 
「信砂越えの木碑」

 松浦武四郎の日誌によると、ルウチシ峠を通過して、ヌプシャ岳銀碗を臥せし如くみゆれば、『のぼり来て 雪の峯近く 成るらん ひたすらに肌 寒くなりけり』と詠い、大笹などをかき分けて下り・・・「川端に出たり。是恐らくはヌプシャの左股か(後マシケにて聞きにルウクシツロテナイ也。・・・本流と思ふに出(ヌプシャ、川幅七八間)。」と記している。
 現在は国道231号沿い信砂と道道94号線との交差する草が生えている中に木碑が立っている。木碑の裏側には『安政三年五月箱館備行勤番手付けとして西エゾ地巡回のため石狩の国イタイベツから国領マシケに向け出発。この地は信砂前浜到着の地である』指定月日 昭和五十四年七月二十五日 増毛町教育委員会


 

2009年のオロロンラインの松浦武四郎の足跡旅 小平

2012-12-02 12:43:53 | 旅行
2009年9月北海道命名の聖地(再訪を含め、アップ済)を訪ねるべく、旅行計画を立てたのだが、宿泊の予約を取れた順に廻ったので、士別剣淵まで高速で北上し、名寄・士別。美深の武四郎の足跡を訪ねてから、留萌方面に進んだ。この年は、高速料金の大幅値下げという恩恵があり、ETC搭載と土日、祝日の条件のために、ETCは何ケ月待の状態であった。しかし、北海道の南端から、高速最果てまで1000円という嬉しい策だった。
 2009年9月20日(日)美深アイランド内のホテルを早朝出発、国道40号線から道道275号朱鞠内を通過して、新蕎麦を味わうために、幌加内へ寄り道した。
幌加内の香りのよい手打ちの新そばを味わう
美深峠と朱鞠内湖の側を通過
  
幌加内から和寒方面に出て、深川留萌高速(無料)に入り小平にある松浦武四郎の銅像と歌碑を訪ねた。そこは旧花田番屋や道の駅、郷土資料館があり、観光客で賑わっていた。
道の駅鰊番屋


トワイライトアーチ(左台座歌碑)、右に武四郎像) 
  
旧花田番屋全景と小平郷土資料館内部

  
 アーチの台座には武四郎がこの地で読んだ歌が刻まれている。旧花田番屋、天登雁村(旧村名)や小平・鬼鹿について武四郎の記録がある。彼の足跡を訪ねる旅の参考にしている、松浦武四郎著、秋葉實解読「丁巳東西蝦夷日誌 上」には、『扨ヲヒラシヘツえ行きたるに、閏五月十四日に見当たるを附置たるホロシリ(注釈ポロしり山731メートル)のことを渡し守の方にて尋ねしに、此川上サンケショマフと云処より堅雪の上五里計にて其山の麓え到るよし答えぬ。鬱蒼たる霧の中にちゃわんを伏せたる如く突出したり(丸山)。・・・・ヲニシカにて昼飯の仕度も有るよしに附、右を仕舞早々行けるに、凡七ッ(4時)前と思ふ頃に十一里半甘の道を晩くもまらで、トママイ(苫前)運上屋えぞ着きしぬ。』
 また、松浦武四郎著、吉田恒彦編の「蝦夷日誌下」の西蝦夷日誌では天登雁についてテムトカリ(天登雁)(平磯)。ムは小さき義、上に烽火台有。・・・ポンニトマリ(小澗)、従是奥の方平地多く、畑地頗る宜敷、出稼ぎも近く盛んになりたり。ポンオニシカ(鬼鹿)(小川、夷人家あり、番屋一棟。板蔵、茅蔵、辨天社、備米蔵、従運場や・・・旅宿所に成也。名義、昔雷が雲より落としと云う、また本命はヲニシポツと云うよし。オニシは雲、ポツは破る也(地名解)過ぎてシュトマリ(小岬)、廻りてポロヲニシカ、大いなるヲニシカの義。此邊出稼ぎ多く人たり。「名にも似ず すがたやさしき女郎花 なまめき立てる おにしかの里」と書かれている。・・・この蝦夷日誌にある歌がトワイライトアーチの台座に刻まれているのでした。
この日は小平の民宿に宿泊。翌朝(9月21日)近くにある鬼鹿厳島神社を参拝。留萌・増毛・雄冬へとオロロンラインを南下する。