気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

松浦武四郎の足跡旅 洞爺町武四郎坂

2013-08-27 13:22:51 | 旅行
松浦武四郎著「丁巳蝦夷山川取調日誌 下」の第十九巻報志利辺津日誌(上)の中に松浦武四郎は有珠から洞爺湖へ来ている。その著書には
『トウノシケノホリと云に至るよし也。此処峯にて一ツの大岩有。其岩一ツの泉有とかや。水に毎(つね)に涌出て清冷いわん方なしとかや。土人是には神霊有とて尊み敬ひけるとかや。実にあまり怪しきに過るべけれども、此サノチ並に子マキトク等も登りて見たること有るよし申したりけるまゝ、しるし置くなるべし。(向洞爺・・・注釈)扨是より昼飯を仕舞、また、一同馬にて出立。これよりも形計の細道有えるが、是をたどりて行に凡弐三丁にて小川有。こへて坂に懸り、上がること十町。此辺シベリきゝ(蚊の一種)といへる虫多し。(上り)詰めて  ケツフ子イ  此両方薄原にて、湖中を一望して其景色(筆)紙つくし難し。また弐丁も上りて坂の上え行きて(注釈 武四郎坂)、後方羊蹄山を戌(西北西)に望む。其麓まで凡七八里とも思わるが、一面の原にして如何にも富士の裾野の如し、行きまゝしばし過ぎて、岩内岳並びにコンホノホリ見ゆ。』と調査記録をしている。武四郎坂からの景色は絶景だったのでしょう・・・。
 また、この書の中には洞爺湖の中の島の一つである「観音島」の円空の仏像について
『是則江州伊吹山の僧円空上人の三年籠れりと云処にて、一宇の小堂有りて、円空鉈作りの観音を安置すとかや。廻り凡そ五六丁にして其うしろ南に当たりて ホンモシリ・・・』とある。円空のお堂は今でも観音島に現存するのであろうか・・・。
 武四郎坂                 
  
説明版には次のように書かれている
「武四郎坂
Takeshiro Matsuura(1818~1888)
江戸時代の幕末から明治時代に活躍した日本の探検家。当時の{蝦夷地」を探検し「北海道」という名を考えた人物である。武四郎は洞爺湖からの帰路の途中、山道で眺めて湖のすばらしさを絶賛したことから、この「武四郎坂」という名前が付いた。
室蘭土木現業所  看板制作  北海道洞爺高等学校」
と大きな木製の看板の右側に掲示されている。
丸印が説明文                                               看板からの洞爺湖の景色  
    
 松浦武四郎の足跡はなかなか、地図では探せないことが多く、下調べをして行くがこの場所は市販の地図にも載っているわかりやすい場所である。
2009年10月11日、私たちは虎杖浜のホテルいずみで誕生会をした翌朝、ホテルの窓からから大きな虹の橋を見た。

何か良いことがありそうな・・・ラッキーな気分になって、この地に着いた。
また、洞爺は温泉もよし、自然もよし・・・春には梅の咲く高台の公園に行ったこともあり。また、温泉街の近くにある噴火の被害の状態をを見たこともあった。この地には、気になる処として源の義経の伝説のあるキムンドの滝も訪ねたことがある。
その時のキムンドの滝                     キムンドの滝の由来
      
 「キムンドの滝の由来」には『文治五年十月、本州より難を逃れて渡道し、更に満洲に赴こうとした源義経が、満洲の事情をきくにアイヌ酋長キムンドに面会を求め、約一週間、この洞穴に滞在したが、遂に面会を謝絶され、ここを去って、日高の酋長「オキクルミカムイ」に会い、満洲の事情をきいて、満洲に鍍満したと伝えられている。其の時より、この滝をキムンドの滝と称し、多くの人に親しまれている。』と書かれていた。
帰り道、友人から変わった形の建物で、愛犬がいるという、長万部町の喫茶店「クラフトたかの」(店名を長谷川と思い込んでいましたが、友人から間違いを教えてもらった。)に寄り道、お店の看板犬に歓迎される。
      

弟子屈町 屈斜路湖の松浦武四郎、ヲヘライベ図

2013-08-23 13:57:37 | 日記
弟子屈町にある屈斜路湖和琴半島の湖畔に松浦武四郎著「久摺日誌」に描かれている「ヲヘライベ(イトウ)」の説明版が建っている。これは以前(2008年10月)に和琴半島を一周して、偶然にも出合った松浦武四郎のオヤコツ地獄の説明案内と屈斜路湖の魚について説明版があったので、後日、国立図書館のデジタル化資料を見て調べた。
二度目の再訪は2011年9月、道東の松浦武四郎の足跡を訪ねて、弟子屈のアイヌ民族資料館を見学した後、その場に行った。
因みに屈斜路湖は日本最大のカルデラ湖であり、ずいぶん前になるが、湖面に波動が現れ謎の生物・・・クッシーがいるのではと話題にもなったところである。
松浦武四郎の描いたヲヘライベの看板には
  『屈斜路湖の魚たち』と題して
『屈斜路湖は釧路川で海とつながっているので、昔は秋に鮭がさかのぼりました。
この当時、北海道特有の鮭類について松浦武四郎は「久摺日誌」の図の中でつぎのように書いています。』
『ヲヘライベ(イトウ)、カハルチップ(ヒメマス)など4種はクスリ湖(屈斜路湖)、アカン湖(阿寒湖)以外、よそで見たことがない。』1938年(昭和13)年に湖底で噴火が起こり、湖水が酸化したため、魚類の姿がほとんど見られなくなりましたが、1991年ころから水質が変わり魚類が戻りつつあります・・・と説明されてます。
ヲヘライベを見る(湖畔の雑木林の側にあった。)

武四郎の描いた魚

最初の和琴半島一周での風景
  和琴半島の露天風呂(脱衣所もあるが・・・)              オヤコツ地獄の噴煙 
     
青い湖水                             クッシーを記念に
      


江差町 百印百詩顕彰碑(松浦武四郎、頼三樹三郎)

2013-08-18 14:38:31 | 旅行
秋葉實翻訳「松浦武四郎選集」「蝦夷婆奈誌 坤」には『頼子春(鴨)と1日百印百詩のこと』として弘化三年の年、江刺滞留の時、頼子春(頼三樹三郎)来り給えども、一向に人其業を慕うもの無、来春迄最早何地に行くこともなりがたし。この地に滞留せばやと思えども、誰有て糊口を助ける人無故気案ずるに、是にては致し方無、何とかして子春の誌に長じて又書も工(たくみ)なることをしらさばやと存じ「霜月十四日一日を限りとして、山ノ上町雲石楼に於いて我が頑刀を以石に題文を彫すべし。・・・其客に題を求め、我則其文字を銑、子春其作を速書、先早天の題よりして晩景に及ぶまで百首百刻了。
その第一首が
 『   清晨
       山青斬月薄 、灯白古邦寒、 橋霜人未過、満耳水珊々 』
 と詠っている。
この百印百詩が江差町の小公園に建立されている。
檜山振興局の位置地図より

石碑の中には赤い刻印があるが、武四郎の篆刻。
顕彰碑と建立の説明碑

説明には
『齋藤鴎洲ゆかりの雲石楼に多くの雅人が集い詩会が開かれた。頼三樹三郎が詩を詠み、松浦武四郎が誌題を印石に篆刻し「百印百詩」を一日で完成させた。その文芸史上に画期的な偉業を顕彰し、この碑を建立したものである。 平成十二年十月 町制施行百周年記念
       江差町の歴史を紀行し友好を進める会  会長 本田義一』と書かれている。

江差ではニシン街道として街並みも古街道を感じさせるような建物が並んでいる。昔の蔵を喫茶店にした処で休憩。
鷗島を散策した。
復元された開陽丸
開陽丸は徳川幕府の軍艦で・・・江差沖で座礁し、沈没したもの。平成2年に、実物大で再現
瓶子岩
北前船に水を補給したという井戸
 ここには「明治9年(1876)江差商人の村上三郎右衛門は北前船の船乗りたちに飲み水を提供するため、井戸を掘りました。」と説明。
北前船の石碑

鷗島には遊歩道が出来ており、高台から北側の海に降りることも出来る。瓶子岩のある方を進むと、崖下に北前船の帆の形をした碑がある。

石碑には「いつの時代にも  青年の夢が やがて世界を揺り動かして行く。」と刻まれている。

気になるスポット続篇厚沢部館城址跡~矢櫃峡渓谷 13・8・13

2013-08-16 20:52:02 | 旅行
乙部の円空上人滞洞、可笑内を過ぎて、厚沢部町に入る。この際、気になっていた館城址を見たいと思って、横道に入る。相棒は城址には何もないかも知れまいよ・・・と云いつつも、興味あり。カーナビに城址のマークがあった。国道227号から、道道27号を進むと立派な大きな門がある。門柱の前には館城址公園や7.2㎞に矢櫃峡谷の案内板がある。そのまま門を進む。
城址門

城址の説明板や本丸やの木柱がある丘陵地に着いた。奥に大きな石碑も建立されている。井戸や三上超順試之石という丸い石があるが・・・?
調べたら、この館は日本最古の和式築城ということ。幕末の威信の激動の時代に松前藩は明治元年に松前上を離れ厚沢部の館村に新城を突貫工事で築いたとのこと。三上超順はその危機に際し正義隊の隊長であったという。大きな石を試に持ったのであろうか?奮闘むなしく落城したそう・・・。今は桜の木がたくさん植えられて公園になっている。町民の花見の絶好の場所か。
 小さな資料館があり、パンフレットが自由にいただける。
丘を登ると「散兵壕」の看板が裏返しに倒れたままになっていたので、元に戻し写真撮影した。丘の下から攻めてくる敵を土豪から身を隠しながら攻撃できるように作られたのでしょう・・・ところどころに土豪らしき盛り土がある。
散兵壕                              館城址説明
    
平成十四年九月二十日指定された国指定史跡松前氏城跡(文部科学省、    井戸
    
三上超順試之石

この後、矢櫃渓谷方向に7.2㎞を目標に進んだが、「まつくら橋」という立派な橋を過ぎ行き止まりになっていた。結果的には峡谷に到達できない道であった。残念・・・。戻って、途中「矢櫃温泉⇒」というプレートの案内があった。このプレートの上に「矢櫃林道」とあるので、渓谷はこの道なのか・・・。

プレート拡大

まずは、温泉に入れるのかな・・・と期待し、ダートな路を走った。鬱蒼とした林道・・・クマが出そう・・・。しばらく行くと、カーブになっているところに、大きな温泉の説明板が2個立っている。そして、万番の前に小さな水飲み場のような小屋がある。車から降りると硫黄の匂いがする。まさか・・・これが、温泉?さらにどこかに温泉小屋でもあるのかと思ったが、どうもなさそう。しかし、効能には「飲んでよし、つけてよし・・・」温度は低く冷泉。
温泉の説明

矢櫃温泉が流れている

私たちの興味深々・・・寄り道、曲り道です。

気になるスポット 円空上人の洞穴・可笑内 13・8・13

2013-08-15 22:55:53 | 旅行
太田神社、あわび山荘のあと帰路につくのだが、何度も通っていて気になっていた場所に車を止めてもらった。(私は運転ができない・・・)
日本海の奇岩を見ながら、山側に円空上人の滞在した洞窟があるので、走行中ではじっくり見れないので、広場に駐車。洞窟は崩れかかっていて防護ネットされている部分もある。小さい洞穴に祠が祀られている。
石碑正面には「円空上人滞洞跡」とあり右側の側面には、村社太田神社の向かいにあったものと同じ歌碑が刻まれていた。再掲になるが
    『木にだにも 御影を移す ありがたや 法の御音は谷のひびきか』円空  
説明版には次のように書かれていた。
『 円空上人滞洞跡』
1665年松前に渡り、そこから西太田(大成町太田)まで作像して廻行した際に熊石まで来て、この洞窟に住み作像したと伝えられている。
円空作の像は寝崎神社、泊川北山神社に祀られている。  八雲町・熊石観光協会
洞窟写真、円内に小さな祠がある

石碑と説明
      
鮪岬

鮪(まぐろ)と書いて“しびの”と読む・・・とても読めない・・・がしびの岬。岬の岩がマグロのうろこのように重なっているというところから名前が付いたということが分かった。安山岩柱状節理・・・(これは6月に登った中愛別の山にも柱状節理の岸壁があったので、岩に興味を抱いた。)北海道指定天然記念物です。
可笑内という珍しい名前
また、以前、図書館で松浦武四郎「蝦夷地紀行ー西蝦夷日誌」巻之参、道南編を読んでいたので「可笑内」についてもコピーをしていた。(その本は持ち出し禁止の貴重な本。勿論、職員の了解と有料です。)
そこには武四郎のスケッチあり、突府村マド岩の図と題して、ヲカシナイ坂(岬)の図が書かれている突府村大茂内八軒、土産同。鮑多しと
是は土地に岩磯多き故か・・・人家も岩の上また崖の下に立て家居す。・・・アイトマリ人家三軒磯伝ひ、ヲカシナイベツ小川有。此川筋に深沢左 等云う有と。小坂一ツを越えて大茂内。・・・扨、汐干の時ヲカシナイベツの処より浜を来るや、岩穴を通る道、是実に異郷の趣をなせり。又、此岬を海中寄より見るに翁の面の如しと云り。前に平ソリという暗礁有。』と記録している。
渡島日誌のヲカシナイスケッチ(円内がヲカシナイ坂)

可笑内橋とバス停