松浦武四郎著「丁巳蝦夷山川取調日誌 下」の第十九巻報志利辺津日誌(上)の中に松浦武四郎は有珠から洞爺湖へ来ている。その著書には
『トウノシケノホリと云に至るよし也。此処峯にて一ツの大岩有。其岩一ツの泉有とかや。水に毎(つね)に涌出て清冷いわん方なしとかや。土人是には神霊有とて尊み敬ひけるとかや。実にあまり怪しきに過るべけれども、此サノチ並に子マキトク等も登りて見たること有るよし申したりけるまゝ、しるし置くなるべし。(向洞爺・・・注釈)扨是より昼飯を仕舞、また、一同馬にて出立。これよりも形計の細道有えるが、是をたどりて行に凡弐三丁にて小川有。こへて坂に懸り、上がること十町。此辺シベリきゝ(蚊の一種)といへる虫多し。(上り)詰めて ケツフ子イ 此両方薄原にて、湖中を一望して其景色(筆)紙つくし難し。また弐丁も上りて坂の上え行きて(注釈 武四郎坂)、後方羊蹄山を戌(西北西)に望む。其麓まで凡七八里とも思わるが、一面の原にして如何にも富士の裾野の如し、行きまゝしばし過ぎて、岩内岳並びにコンホノホリ見ゆ。』と調査記録をしている。武四郎坂からの景色は絶景だったのでしょう・・・。
また、この書の中には洞爺湖の中の島の一つである「観音島」の円空の仏像について
『是則江州伊吹山の僧円空上人の三年籠れりと云処にて、一宇の小堂有りて、円空鉈作りの観音を安置すとかや。廻り凡そ五六丁にして其うしろ南に当たりて ホンモシリ・・・』とある。円空のお堂は今でも観音島に現存するのであろうか・・・。
武四郎坂
説明版には次のように書かれている
「武四郎坂
Takeshiro Matsuura(1818~1888)
江戸時代の幕末から明治時代に活躍した日本の探検家。当時の{蝦夷地」を探検し「北海道」という名を考えた人物である。武四郎は洞爺湖からの帰路の途中、山道で眺めて湖のすばらしさを絶賛したことから、この「武四郎坂」という名前が付いた。
室蘭土木現業所 看板制作 北海道洞爺高等学校」と大きな木製の看板の右側に掲示されている。
丸印が説明文 看板からの洞爺湖の景色
松浦武四郎の足跡はなかなか、地図では探せないことが多く、下調べをして行くがこの場所は市販の地図にも載っているわかりやすい場所である。
2009年10月11日、私たちは虎杖浜のホテルいずみで誕生会をした翌朝、ホテルの窓からから大きな虹の橋を見た。
何か良いことがありそうな・・・ラッキーな気分になって、この地に着いた。
また、洞爺は温泉もよし、自然もよし・・・春には梅の咲く高台の公園に行ったこともあり。また、温泉街の近くにある噴火の被害の状態をを見たこともあった。この地には、気になる処として源の義経の伝説のあるキムンドの滝も訪ねたことがある。
その時のキムンドの滝 キムンドの滝の由来
「キムンドの滝の由来」には『文治五年十月、本州より難を逃れて渡道し、更に満洲に赴こうとした源義経が、満洲の事情をきくにアイヌ酋長キムンドに面会を求め、約一週間、この洞穴に滞在したが、遂に面会を謝絶され、ここを去って、日高の酋長「オキクルミカムイ」に会い、満洲の事情をきいて、満洲に鍍満したと伝えられている。其の時より、この滝をキムンドの滝と称し、多くの人に親しまれている。』と書かれていた。
帰り道、友人から変わった形の建物で、愛犬がいるという、長万部町の喫茶店「クラフトたかの」(店名を長谷川と思い込んでいましたが、友人から間違いを教えてもらった。)に寄り道、お店の看板犬に歓迎される。
『トウノシケノホリと云に至るよし也。此処峯にて一ツの大岩有。其岩一ツの泉有とかや。水に毎(つね)に涌出て清冷いわん方なしとかや。土人是には神霊有とて尊み敬ひけるとかや。実にあまり怪しきに過るべけれども、此サノチ並に子マキトク等も登りて見たること有るよし申したりけるまゝ、しるし置くなるべし。(向洞爺・・・注釈)扨是より昼飯を仕舞、また、一同馬にて出立。これよりも形計の細道有えるが、是をたどりて行に凡弐三丁にて小川有。こへて坂に懸り、上がること十町。此辺シベリきゝ(蚊の一種)といへる虫多し。(上り)詰めて ケツフ子イ 此両方薄原にて、湖中を一望して其景色(筆)紙つくし難し。また弐丁も上りて坂の上え行きて(注釈 武四郎坂)、後方羊蹄山を戌(西北西)に望む。其麓まで凡七八里とも思わるが、一面の原にして如何にも富士の裾野の如し、行きまゝしばし過ぎて、岩内岳並びにコンホノホリ見ゆ。』と調査記録をしている。武四郎坂からの景色は絶景だったのでしょう・・・。
また、この書の中には洞爺湖の中の島の一つである「観音島」の円空の仏像について
『是則江州伊吹山の僧円空上人の三年籠れりと云処にて、一宇の小堂有りて、円空鉈作りの観音を安置すとかや。廻り凡そ五六丁にして其うしろ南に当たりて ホンモシリ・・・』とある。円空のお堂は今でも観音島に現存するのであろうか・・・。
武四郎坂
説明版には次のように書かれている
「武四郎坂
Takeshiro Matsuura(1818~1888)
江戸時代の幕末から明治時代に活躍した日本の探検家。当時の{蝦夷地」を探検し「北海道」という名を考えた人物である。武四郎は洞爺湖からの帰路の途中、山道で眺めて湖のすばらしさを絶賛したことから、この「武四郎坂」という名前が付いた。
室蘭土木現業所 看板制作 北海道洞爺高等学校」と大きな木製の看板の右側に掲示されている。
丸印が説明文 看板からの洞爺湖の景色
松浦武四郎の足跡はなかなか、地図では探せないことが多く、下調べをして行くがこの場所は市販の地図にも載っているわかりやすい場所である。
2009年10月11日、私たちは虎杖浜のホテルいずみで誕生会をした翌朝、ホテルの窓からから大きな虹の橋を見た。
何か良いことがありそうな・・・ラッキーな気分になって、この地に着いた。
また、洞爺は温泉もよし、自然もよし・・・春には梅の咲く高台の公園に行ったこともあり。また、温泉街の近くにある噴火の被害の状態をを見たこともあった。この地には、気になる処として源の義経の伝説のあるキムンドの滝も訪ねたことがある。
その時のキムンドの滝 キムンドの滝の由来
「キムンドの滝の由来」には『文治五年十月、本州より難を逃れて渡道し、更に満洲に赴こうとした源義経が、満洲の事情をきくにアイヌ酋長キムンドに面会を求め、約一週間、この洞穴に滞在したが、遂に面会を謝絶され、ここを去って、日高の酋長「オキクルミカムイ」に会い、満洲の事情をきいて、満洲に鍍満したと伝えられている。其の時より、この滝をキムンドの滝と称し、多くの人に親しまれている。』と書かれていた。
帰り道、友人から変わった形の建物で、愛犬がいるという、長万部町の喫茶店「クラフトたかの」(店名を長谷川と思い込んでいましたが、友人から間違いを教えてもらった。)に寄り道、お店の看板犬に歓迎される。