気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

「武四郎蝦夷地紀行」渡島日誌にある知内荒神社など

2013-11-30 20:31:15 | 日記
図書館で調べた本、松浦武四郎著秋葉實解読「蝦夷地紀行」には渡島日誌として知内についての記録がある。因みに、この本の底本は松浦一雄所蔵、国文学研究資料館、史料館寄託にかかる「西蝦夷日誌」巻の七(天塩・宗谷)と巻の六(紋別・網走・斜里)を底本として松浦氏の了解を得て刊行に至ったものと注釈があった。)貸出されていないので、図書館で読んだ。
知内郷土資料館を訪ねて松浦武四郎関係のものがないか学芸員に訪ねたら、調査した地図があることが分かった。
知内郷土資料館
資料館入り口には北前船の錨がある。

館内には地図の他、歴史的価値のある資料が展示されている。
蝦夷地山川取調地図の函館から木古内付近の地図(函館アナマ・三石・ワキモト・矢越・丸山・札苅・イツミサワなどの地名もある)

「蝦夷地紀行」渡島日誌には知内付近についての記録として
『知内村、河の西岸まゝ上がり、コリナイ小川「馬橋」有、過ぎて雷野平野。此の辺平野多し。
「雷荒神社」元和四年(1618)草創のよし、所祭 松前由広の霊なりと旧古事。(由広は慶広の四男で豊臣方に志し、慶長十九年十二月殺される。二十一歳)
クツレハ 岸崩 従知内村一里、トウライ野畑有。鷹取小屋有。松前家の頃、献上に成りし鷹をとる処なり・・・。』と記録がある。
知内公園内にある荒神社

説明には
『荒神社は松前藩初代藩主慶廣の四男数馬助慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣の戦いの時、徳川方へ加担しようとした。父と衝突し、その家来によって追っ手をかけられ、力尽き自害した。元和四年になり、由廣の霊が巫女に託して「成我神其名云雷天荒神」と云わしめたという。それを聞いた三代藩主公廣は供養のため、数馬助の脇差を御神体として羽織箱に入れて土中にうめ、雷天荒神社と号して創建したが、後に千早振神社と称し、更に現在の荒神社に改められた。・・・平成七年三月 知内町』とあります。
知内公園にはその他黒松や姥杉などがあり、紅葉も美しく散策した。
黒松     

雷公神社鳥居と社屋
       
神社鳥居の横にある説明碑には
『同社に伝わる本町最古の子文書「大野土佐日誌」によれば、元久二年(一二〇五)砂金を求めた甲斐の国(山梨県)からこの地に来た荒木大学が、天下泰平と登頂の始祖了徳允に命じて賀茂の上社と下社の二社を送検したときに始まると伝えられる北海道で最も古い神社である。古くは上雷にあったが、大正四年(一九一五)九月この地に遷座した。また、同社は別雷神という逓信の神をまつるところから、古来より恋の成就を願う人がここでお参りをすると相手に心が通じると言い伝えられている神社である。平成七年三月 知内町』
因みに演歌の大御所である北島三郎氏の献灯もある。
知内道の駅の付近に郷土資料館で見た貴重な石器などの発掘された場所があると聞いたが、現在は遺跡は鉄道の下になったのか、遺構はモニュメントとして残っている。
昭和49年、青函トンネルの工事で使う砂を掘っているときに土器や石器が発見されたという(森越遺跡)。
モニュメントと発掘当時の写真
     
この遺跡は標高22mの台地で知内平野を一望できるところであると説明がある。
モニュメント説明
『悠久の眠りからさめて』
この台地は琥珀とカンラン岩で作られた垂蝕2点、小玉3点の装身具など石器9点、旧石器時代(約1万4千年前)の墓が国内で最初に発見された。
1991年6月国の重要文化財に指定され・・・当時の生活や文化を知るための貴重な資料であり、我が国の墓制の起源を縄文時代から石器時代にさかのぼらせるなど学術的にもきわめて価値が高いところから指定された」モニュメントの土台はストーンサークルを現している。
地域のお宝であると私は思っている。

偶然に出会った帯広、北海道ホテルの松浦武四郎奉納北辺図

2013-11-24 09:18:45 | 旅行
用事で帯広に行くことになり、知人お勧めの北海道ホテルに予約を取った。ホテルは重厚な煉瓦色で幾何学的模様、中に入ると落ち着いた雰囲気で庭園が広々として、なんともゆったり感。
フロントにチェックインするために向かうと、目に入ったのは、正面の壁に松浦武四郎の北辺図の二つの北海道と所謂北方のサハリンなどの地図が展示されている。写真撮影をお願いしたら、フロントの係りの方二人が、北辺図の横側に移動して下さった。なぜホテルに武四郎の資料が展示されているのか・・・わからなかったので質問したいな~と思ったのですが、武四郎が中札内にも来ていたので、此の辺にも来ていたのかな・・・位に勝手な想像をしていた。後日、このことを三重県の松浦武四郎記念館の高瀬名誉会長さんにメールで伺った。
松浦武四郎が京都北野天満宮に奉納した銅鏡の写し(拓摺り)であることが分かった。
 壁には添え書きがあり『松浦武四郎奉納「北辺図」』1874~1875(明治7~8)年奉納とあり、説明
『「北海道」命名者の松浦武四郎が北野天満宮(1874年明治7年制作)=右側と上野東照宮(1875年明治8年制作)に奉納した北辺図の奉納外作品。
北野天行宮奉納の上部に「明治八乙亥歳五月十五日諸奉納至。
 北の聖廟鏡(育・・・?)、北海十二州之国名 明治二巳七年奉勅所撰定也』北海道人 松浦弘誌捺印と武四郎の自筆の奉納由緒書きと署名が入っている貴重な歴史的資料・・・と説明されている。
北海道ホテル 建物の模様が美しく、至る所にフクロウが見守っている。
    
撮影は2009年11月1日、紅葉が美しく、帯広の町中に居ながら、田園の中にホテルがあるように思えた。勿論、温泉はモール温泉。癒しのホテルであった。
北辺図



にしん街道で見た松浦武四郎の西蝦夷日誌の記録と江差の百印百詩の酒

2013-11-19 18:46:25 | 日記
安政の探検家であり、北海道の名付け親である松浦武四郎は渡島半島の八雲にある由追稲荷神社に通行の度、旅の安全を祈願している。その八雲に2か所彼の足跡や木柱があるということを厚真町のアツマ食品会社を訪れた際いただいた北海道地図に印が2個あったので、調べて行った。
まず、国道5号線沿いにある八雲の稲荷神社に寄る。ここは何度か見ている場所で以前の写真は立派になった神社の石柱で「松浦武四郎の説明」の案内板が石柱の陰になって正面からは見えにくかったが、今回訪ねた時には説明版が半分に途切れることなく撮影ができた。個人的には内心満足している。
神社の向かい側は蝦夷地との境目になる関所があった所。
関所風の建物(山越中央会館)と当時の会所の井戸や山越内関所跡の石碑などがある。
日本最北の山越内関所と会所の井戸
   
東蝦夷日誌の「山越内領」には
『爰に境の稲荷と云有。余はいつも捧物をなし、道中の安全を祈りて入けるに、・・・一首書附けたりける。』と歌を詠んでいる。
新しくなった稲荷神社の鳥居と松浦武四郎の説明版がある。(説明版は右側の石柱の横)

また、八雲の付近のことについての記載には君縫、此の邊シャクシャインの古戦場なりと云うり。過てクンヌイ(君縫・國縫)(川幅七八間、船わたし、夷家有・・・。と。八雲から長万部付近についての記録もある。また、黒岩について・・・クンネシマ(大岩、黒岩と云う。是に白木玉石附たり。其小粒なるは透明し、可ㇾ弄物なり・・・。詩を残している。
   旅人の 手をばなれそ 岩床に 神在せりと えなを立てたり
八雲市街地を過ぎて、雲石峠に向かった。時期であれば紅葉が美しい峠でもあり、かつて温泉マニアだったころには、峠の下ったところにある見市温泉に来たこともあった。「渡島日誌」には見市川すじのことや平田内温泉のことも書いてある。
興味深いのは・・・西蝦夷日誌にある熊石について、『余は(安政三四月十一日陸行す。扨其熊石村たる哉、漁檐櫛比、帆竿は排立,棹歌互答、漁業の壮なること眞に宇宙之壮観也。其熊石も本命はクマウシにして、魚棚多との訛りなりし也。村人は夷言たることを忘れて、雲石とて雲のごとき石有故故號といへり。』と熊石、雲石のことが書かれている。
  ここでは   ふみわくる 岩根そばだち けだものの 住かもしるき 熊石の里  と云う和歌を詠んでいる。

にしん街道の熊石の木柱は、峠を降りて国道229号線にあった。日本海側を通るときにはこの道を通っていたはずである。交差点にある民宿Kにも宿泊したことがあったのに・・・気付かなかった。

にしん街道熊石は平成19年にライオンズクラブが設立している。
説明版には
『ここ八雲の熊石は「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸の町の一つです。道南の町のなかでも漁獲量が多く「にしん万石場所」と云われていました。一八四五年四月、漁の最盛期に熊石を訪れた探検家「松浦武四郎」漁家が連立し、船の帆柱やにしんを干す竿が立ち並び、沖と岸を行き交う船の人たちのはやし声が村中に響くという活況は「真に宇宙の壮観也」と西蝦夷日誌に記載してます。・・・(略)にしんルネサンス事業はにしんで栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結び「にしん街道」を楽しませてくれます。』平成十九年十二月吉日  北海道二海郡八雲町鮎川町内会  とあります。

熊石からにしんで栄えた江差へと向かった。
                   説明には『北海道日本海沿岸においては、北前船の交易によって大きく反映し、十八世紀半ばのにしん漁最盛期には多くの廻船問屋と土蔵が連ねて立ち並び「江差の五月は江戸にもない」と云われ、歴史を今に伝わる数々の郷土民芸や建物をこの地にもたらしました。
そこで、今一度、日本海沿岸の市町村を支えた「にしん」に、歴史・文化等多方面からもスポットをあて、当たらな産業や観光資源の創出を目的にアック朝で「にしん街道」の標柱を設置することにより、往時の繁栄されていたころの「にしん文化」を再びよみがえらせ、後世に引き継ぐ・・・』
ここは平成17年10月江差観光コンベンション協会が建立している。

江差は松浦武四郎が滞在し、頼三樹三郎と「百印百詩」を読んだ地でもある。それに因んだお酒があるというので、当時を偲ばせるような街並みを探した。
見つかりました。家屋の屋根に「百印百詩」の大きな看板が乗ってました。
   
早速店に入り、このお酒のことで・・・伺ったことを話すと、気持ちよく、見せていただいた。
額縁入りの説明がとてもきれいな文字だったので、伺うと、ご主人のご姉妹が書道の先生をされていて書いたということでした。写真に撮らせてもらった。その説明には『酒名の由来』が書かれており、江戸後期の儒学者頼三陽の第三子、三樹三郎が江差に来遊した折に、探検家松浦武四郎と会い、意気投合しし、武四郎は三樹三郎を支援するため豪商・齋藤鷗洲と江差の文化人と山の上雲石楼で一日百印百詩の会を催した。両者の創作の場に居合わせた豪商や文化人は一詩一印に酔い互いに酒を酌み交わしたであろう往時をしのび、文化の香り江差より真心を込めて純米吟醸酒「百印百詩」をお届けいたしたく存じます。」と書かれています。
吉田酒店ではコロッケも販売しており、揚げたてのコロッケをいただいた。
また、江差の街並みを昔風(ニシンで栄えた頃のイメージでしょうか・・・)に建て替えたときの経緯や御苦労などもお話いただいた。
松浦武四郎の「百印百詩」石碑のある小公園を再訪した。

日高旅中の10月中旬の紅葉

2013-11-18 21:46:08 | 日記
道南から日高への旅の目的は紅葉狩りであったが、生憎の天気で初雪を体験したりであったが、イザベラバードや松浦武四郎の歴史をも訪ねることができた。その時々の天候の変化は変えようがないが・・・季節の移り変わる自然のありのままの姿はそれなりに私たちに感動を与えてくれるものであった。
ひだか高原荘をチェックアウトして、紅葉を見ながら、国道237号線を苫小牧方面に向かった。
10月15日の千呂露川の紅葉(チロロの巨石附近の川)

轟橋付近の紅葉
    
日高大橋の紅葉
    
竜門橋付近の紅葉
    
平取の紅葉

厚真源武のファーム(ディープインパクトの今)
    

日高町 石の道しるべなど探訪 2013年10月16日

2013-11-11 22:55:14 | 旅行
何度か日高方面に来ているが、数年前に通った際、沙流川沿いの紅葉の美しさが印象に残っていたので、紅葉の見ごろでは・・・と来たが、丁度台風が関東に接近の時で、日高も大雨に見舞われた。(ホテルの予約も取っていたこともあり・・・)
国道237号を北上・・・。
日高道の駅「樹海ロード」に着いた頃は雨が霙に変わってきて「日勝峠は通行止め」となっていた。道の駅には十勝方面に戻れないという方が数人、仕事で来られた方など連絡を取っている方もいた。
私たちは映画「鉄道員(ぽっぽや)」のロケで使われたという幾寅駅(映画では幌舞駅・・・と)まで行って見ようか・・・と日高峠へ進んだが占冠の町に入る所に来てこの地も雪になり、夏タイヤなので、日高町へ戻った。町に入る分岐点で、交通整理の職員さんに「どちらの方に行きますか?」と聞かれて「日高の町・・・」って答えたら、日勝峠は通れません・・・「千栄まで、です・・・」でOKが出ました。
 私の相棒は日高のチロロの巨石を見たいと場所を調べていたことと、以前、札幌の駅構内にある北海道各地の旅情報のコーナーから日高に関する資料を集めていたので「HIDAKA GUID MAP」の資料を見て、その中から日高地区の歴史探訪「石の道しるべ」が8か所、マップを頼りに訪ねた。(後で気が付いたが、千栄神社の横を通過したのですが・・・この神社も8箇所の一つだったのでしたが、寄らずに帰ってきてしまった・・・残念!)
最初は、日勝峠に向かって走行し、チロロ橋を渡り、右折してしばし平坦な林道?を進む。途中民家があり、バス停がそのお宅の苗字がバス駅名となっていた・・・(凄い!)。釣り堀もあるよう・・・行き止まりは「北戸蔦別登山口となっている。
チロロの巨石

この石の大きさの測定は不明・・・兎に角大きい。(後で調べると横6メートル、重さ200トンあるとのこと。)
説明には『昭和40年代北海道開拓団団長の栗林基次郎(八紘学園理事長)が巨費を投じて千呂露川流搬出した日本一大きいと伝えらる日高青色片岩です。』ヒスイの沢(ペンケユフトラシナイ沢)の奥から久保内、高野、村上3氏によって美しいねフライト様岩石が発見され、やがて番場博士によって北海道でただ一か所のクロム透輝石ヒスイ=日高ヒスイと提言された・・・ということ。草緑色の高貴な色調を誇る日高ヒスイは太古の海から誕生した日高山脈の歴史を私たちに語りかける様です・・・と説明版がある。

石の道しるべマップはイラスト入りであるが、ピンポイントで道しるべを探すのは結構ルートが分からず・・・。
三島小学校跡と校門の証か・・コンクリート支柱が草に埋もれて見えた。(写真○囲み)
    
大正七年福島県伊達郡下の北海道移住団十五戸(福島団体)が入植。その後の太平洋戦争時、三井鉱業がこの地でクロームの採鉱を行う。福島と三井の二文字を取って「三島」と呼称す。これら子弟教育の場として、昭和二十二年九月千栄小学校三島分校を設置したが、翌年七月この地に移転。昭和二十四年四月三島小学校として独立。・・・その後児童数の減少により昭和四十九年三月を以て千栄小学校に統合した・・・平成六年九月建立・日高町と刻まれている。
この石碑は雑草と雑木林の中で見えにくかったが、少しの平地に発見。廃校になった所は何箇所か見たことがあるが、ここで学んだ卒業生は当時楽しく遊んだり、自然の中を走り回ったり・・・いろいろな思い出があったでしょうね・・・私の小学校も移転して新しい校舎になって思い出の校門やグランドの面影もありません・・・。
この学校跡の付近に、三井鉱山の火薬庫が現存しているということでしたが、火薬庫は発見できなかった。

宇佐津富(ウシャップ)の標柱跡
『明治5年 開拓使属史の一之瀬長春は北海道庁の命により岩知志を起点として左右府地域を経て金山(かなやま)に向かうルートの測量を行った。標木を建てながら沙流川沿い猟道をたどり、2月26日、この地点に本町の旧名である「ウシャップ」の標木を初めて建てた。「跋渉日記抄」には「夜寒堪え難く、平地北東に開けて幾里なるを知らず。標下に小家九軒あり。男女ここに来集す。」と当時の様子が記されている』
 
沙流川流送発祥の地とさんご渓谷散策コース案内
    
『沙流川流域原生林の伐採、流送という大事業に挑んだ坂本竹次郎は、明治四十二年、始めてこの場所から材木を浮かべ、遠く太平洋岸へ送り出した。かって林業の町として栄えた飯高町発展の歴史の始まりである。・・・』材木を筏に組んでこれに乗って現在の富川まで送り届ける役をしたのは越中(富山)など本州からの熟練者であったということが刻まれていた。
また、その石の道しるべのすぐ横にさんご渓谷散策のコース案内看板が立ってあるが、林道への道には通行止めの柵があった・・・勿論、大雨のため散策は出来なかった。
ドッコイの渡船場跡

『明治四十一年、夏川政五郎は開拓者の 便のため丸木舟を作り、針金を張り、左右府と前場を開設。後に公設となり、奥村ドッコイこれを漕ぐ。当時の渡し賃 大人二銭
ドッコイの舟歌 今も 川底から 聞こゆるか。』とある。平成七年九月建立 日高町
ウシャップラム古戦場

『伝説によると、この丘の上あたりで東と西のアイヌが戦った。敗走する兵が沙流川を地に染めながら叫んだという。「ウシャプラム!ウシャップラム!(追われるから逃げろ」が本町の旧名「右左府(ウシャップ)の由来の一つと云われている』とのこと平成七年九月建立

沙流川河畔遺物出土地帯

激しい雨で石碑は沼のようになって近寄れなかった・・・
石はすべて日高特産の石が使われている。
お世話になった沙流川温泉ひだか高原荘と翌朝のホテルから見えた紅葉と雪で白くなっている山
   
岩内不動と不動の滝

国道237号線沿いの岩知志ダム付近。「岩内園地」の向かい側に石の道しるべがある。
『此の地は断崖屹立して古来難路として知られたが、町内閉山寺の開創定賢和尚が夢に天女の舞う水音を聞いて、この滝に旅人の安全を祈ったと伝えられる。以来、いつしか里人らより集いて盤座に不動尊をまつり、豊穣と安全を祈って今に続いている。この願い、白く天女の毎に躍って天に昇るか。』と書いてある。滝の高さはあまり高さがあるとは言えない滝で、アバウトで3m位あるか・・・滝の横の崖下には祠が鎮座している。