図書館で調べた本、松浦武四郎著秋葉實解読「蝦夷地紀行」には渡島日誌として知内についての記録がある。因みに、この本の底本は松浦一雄所蔵、国文学研究資料館、史料館寄託にかかる「西蝦夷日誌」巻の七(天塩・宗谷)と巻の六(紋別・網走・斜里)を底本として松浦氏の了解を得て刊行に至ったものと注釈があった。)貸出されていないので、図書館で読んだ。
知内郷土資料館を訪ねて松浦武四郎関係のものがないか学芸員に訪ねたら、調査した地図があることが分かった。
知内郷土資料館
資料館入り口には北前船の錨がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/c6/45c0ce1c587e5da7214a28798af465ff.jpg)
館内には地図の他、歴史的価値のある資料が展示されている。
蝦夷地山川取調地図の函館から木古内付近の地図(函館アナマ・三石・ワキモト・矢越・丸山・札苅・イツミサワなどの地名もある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/a6/34e2fb9f42b05ba9039ad3586d8094b4.jpg)
「蝦夷地紀行」渡島日誌には知内付近についての記録として
『知内村、河の西岸まゝ上がり、コリナイ小川「馬橋」有、過ぎて雷野平野。此の辺平野多し。
「雷荒神社」元和四年(1618)草創のよし、所祭 松前由広の霊なりと旧古事。(由広は慶広の四男で豊臣方に志し、慶長十九年十二月殺される。二十一歳)
クツレハ 岸崩 従知内村一里、トウライ野畑有。鷹取小屋有。松前家の頃、献上に成りし鷹をとる処なり・・・。』と記録がある。
知内公園内にある荒神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/09/5344650dcb967a99277493a9f8d85c99.jpg)
説明には
『荒神社は松前藩初代藩主慶廣の四男数馬助慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣の戦いの時、徳川方へ加担しようとした。父と衝突し、その家来によって追っ手をかけられ、力尽き自害した。元和四年になり、由廣の霊が巫女に託して「成我神其名云雷天荒神」と云わしめたという。それを聞いた三代藩主公廣は供養のため、数馬助の脇差を御神体として羽織箱に入れて土中にうめ、雷天荒神社と号して創建したが、後に千早振神社と称し、更に現在の荒神社に改められた。・・・平成七年三月 知内町』とあります。
知内公園にはその他黒松や姥杉などがあり、紅葉も美しく散策した。
黒松
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/35/2d3ec758beca6b48e65b2eae8ce0e01b.jpg)
雷公神社鳥居と社屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f9/d65a69613798494cbe0856229fea01e6.jpg)
神社鳥居の横にある説明碑には
『同社に伝わる本町最古の子文書「大野土佐日誌」によれば、元久二年(一二〇五)砂金を求めた甲斐の国(山梨県)からこの地に来た荒木大学が、天下泰平と登頂の始祖了徳允に命じて賀茂の上社と下社の二社を送検したときに始まると伝えられる北海道で最も古い神社である。古くは上雷にあったが、大正四年(一九一五)九月この地に遷座した。また、同社は別雷神という逓信の神をまつるところから、古来より恋の成就を願う人がここでお参りをすると相手に心が通じると言い伝えられている神社である。平成七年三月 知内町』
因みに演歌の大御所である北島三郎氏の献灯もある。
知内道の駅の付近に郷土資料館で見た貴重な石器などの発掘された場所があると聞いたが、現在は遺跡は鉄道の下になったのか、遺構はモニュメントとして残っている。
昭和49年、青函トンネルの工事で使う砂を掘っているときに土器や石器が発見されたという(森越遺跡)。
モニュメントと発掘当時の写真
この遺跡は標高22mの台地で知内平野を一望できるところであると説明がある。
モニュメント説明
『悠久の眠りからさめて』
この台地は琥珀とカンラン岩で作られた垂蝕2点、小玉3点の装身具など石器9点、旧石器時代(約1万4千年前)の墓が国内で最初に発見された。
1991年6月国の重要文化財に指定され・・・当時の生活や文化を知るための貴重な資料であり、我が国の墓制の起源を縄文時代から石器時代にさかのぼらせるなど学術的にもきわめて価値が高いところから指定された」モニュメントの土台はストーンサークルを現している。
地域のお宝であると私は思っている。
知内郷土資料館を訪ねて松浦武四郎関係のものがないか学芸員に訪ねたら、調査した地図があることが分かった。
知内郷土資料館
資料館入り口には北前船の錨がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/c6/45c0ce1c587e5da7214a28798af465ff.jpg)
館内には地図の他、歴史的価値のある資料が展示されている。
蝦夷地山川取調地図の函館から木古内付近の地図(函館アナマ・三石・ワキモト・矢越・丸山・札苅・イツミサワなどの地名もある)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/a6/34e2fb9f42b05ba9039ad3586d8094b4.jpg)
「蝦夷地紀行」渡島日誌には知内付近についての記録として
『知内村、河の西岸まゝ上がり、コリナイ小川「馬橋」有、過ぎて雷野平野。此の辺平野多し。
「雷荒神社」元和四年(1618)草創のよし、所祭 松前由広の霊なりと旧古事。(由広は慶広の四男で豊臣方に志し、慶長十九年十二月殺される。二十一歳)
クツレハ 岸崩 従知内村一里、トウライ野畑有。鷹取小屋有。松前家の頃、献上に成りし鷹をとる処なり・・・。』と記録がある。
知内公園内にある荒神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/09/5344650dcb967a99277493a9f8d85c99.jpg)
説明には
『荒神社は松前藩初代藩主慶廣の四男数馬助慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣の戦いの時、徳川方へ加担しようとした。父と衝突し、その家来によって追っ手をかけられ、力尽き自害した。元和四年になり、由廣の霊が巫女に託して「成我神其名云雷天荒神」と云わしめたという。それを聞いた三代藩主公廣は供養のため、数馬助の脇差を御神体として羽織箱に入れて土中にうめ、雷天荒神社と号して創建したが、後に千早振神社と称し、更に現在の荒神社に改められた。・・・平成七年三月 知内町』とあります。
知内公園にはその他黒松や姥杉などがあり、紅葉も美しく散策した。
黒松
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/35/2d3ec758beca6b48e65b2eae8ce0e01b.jpg)
雷公神社鳥居と社屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/2f/bdb8dc357bea5d0cb7a933157e514b64.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/f9/d65a69613798494cbe0856229fea01e6.jpg)
神社鳥居の横にある説明碑には
『同社に伝わる本町最古の子文書「大野土佐日誌」によれば、元久二年(一二〇五)砂金を求めた甲斐の国(山梨県)からこの地に来た荒木大学が、天下泰平と登頂の始祖了徳允に命じて賀茂の上社と下社の二社を送検したときに始まると伝えられる北海道で最も古い神社である。古くは上雷にあったが、大正四年(一九一五)九月この地に遷座した。また、同社は別雷神という逓信の神をまつるところから、古来より恋の成就を願う人がここでお参りをすると相手に心が通じると言い伝えられている神社である。平成七年三月 知内町』
因みに演歌の大御所である北島三郎氏の献灯もある。
知内道の駅の付近に郷土資料館で見た貴重な石器などの発掘された場所があると聞いたが、現在は遺跡は鉄道の下になったのか、遺構はモニュメントとして残っている。
昭和49年、青函トンネルの工事で使う砂を掘っているときに土器や石器が発見されたという(森越遺跡)。
モニュメントと発掘当時の写真
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/23/0479f105dfad44da9eb1eac8401d9ded.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/d1/6a510ba26752efe6aa1af15b45b82de0.jpg)
この遺跡は標高22mの台地で知内平野を一望できるところであると説明がある。
モニュメント説明
『悠久の眠りからさめて』
この台地は琥珀とカンラン岩で作られた垂蝕2点、小玉3点の装身具など石器9点、旧石器時代(約1万4千年前)の墓が国内で最初に発見された。
1991年6月国の重要文化財に指定され・・・当時の生活や文化を知るための貴重な資料であり、我が国の墓制の起源を縄文時代から石器時代にさかのぼらせるなど学術的にもきわめて価値が高いところから指定された」モニュメントの土台はストーンサークルを現している。
地域のお宝であると私は思っている。